3
「驚きました。この場所にいるのは私たちだけだと思っていましたから」
「霧のせいで、人の影がなにかよくわかりませんでした。それはゆっくりとこちらに近づいてきていました」
「でも変なんです」
「見えたのはうっすらとした影だけ」
「けれど」
「首から上が妙に大きいように見えました」
「ふらふらと体を揺らしながら」
「影は大きくなっていく」
「ザリザリ、ザリザリと足音を立てながら」
「神聖だった気配が消えて」
「ねっとりとした、嫌な気配が充満しました」
「嫌な臭いもしました」
「思わず顔をしかめたくなるような、そう、あれは」
「獣の臭いです」
「異様な雰囲気に誰もが黙りこんでいて」
「沈黙に耐えられなかったのでしょう。誰、とAが言いました。すると、それは唐突に霧から姿を表しました」
「悲鳴を上げなかったのは、我ながらすごいと思います」
「現れたものを一言で表すなら、鶏人間、でしょうか」
「人間の頭をもぎ取って、肥大した鶏の頭をねじ込んだみたいな。冗談みたいでしょう?」
「でも本当に見たんです」
「そいつは奇妙な服装をしていました。縄文時代の人間みたいな服を着ていました。目玉とくちばしが異様に大きくて、飛び出した目玉がぎょろぎょろと動いていました」
「そいつを見て、Aは尻もちをついたまま後ずさり、Cは悲鳴を上げました。Bは、驚きはしましたが、顔を歪めるだけでした」
「そいつは私たちを嘗め回すように見ました」
「ギョロリとした眼が動いて」
「Aに目をつけました」
「ひっ、というAの短い悲鳴が聞こえて」
「それが、Aの最後の言葉になりました」
「えぇ、頭から、Aが食べられたんです。バクンと。くちばしが大きく開いて、唖然とするAを両耳から挟んで」
「一口」
「くちばしがバチンと閉じて、Aの体はバタンと倒れました。首から赤い血がドクドク流れて、それはゴクンと、大きな丸い物を飲み込んで」
ケェェェェェェ
「と大きな声で鳴きました」
「逃げるぞ! とBは言い、彼は混乱したままのCの手を引いて走り出しました。私も慌ててその場を駆け出しました」
「最後に一度振り返った時、それは霧の中でAの体も、丸のみしているようでした」
*
「私たち三人は必死になって走りました。いつまたあの怪物が襲ってくるか分かりません。Aのことは気になりましたが、構っていられるほど、私たちにも余裕はありません」
「走って」
「走って」
「息が切れるまで走って」
「おかしいのです」
「いくら走っても、出口になんてたどり着かないんです」
「私たちは立ち止まりました。かなりの距離を走ったつもりです。真っ直ぐ、道を引き返したつもりです」
「私はBと顔を見合わせました。周りにある木は全て同じ形のように思えて、違いなんて分かりません」
「Cが泣き出してしまいました。Aのことが気がかりだったのもあるでしょうし、恐怖もあったのでしょう」
「でもそれは、してはいけないことでした」
ケェェェェ
「声がしました」
「あいつの声です。Cは耳を塞いで、しゃがみこんでしまいました。きつく閉じた目からは涙がぼろぼろこぼれて、息も荒い。Cはもう気が狂ってしまった方がいいのではないかと思いました」
ケェェェェ
「声が近づいてきます。出口は分からない。でも、走るしかない。覚悟を決めた私は、Cの耳から手を引きはがしました。このままでは逃げることもままならなかったですから。ですがふと、違和感を覚えました」
ケェェェェ
「声がする」
ケェェェェ、ケェェェェ
「声がする」
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
「たくさんの声がする」
「霧の向こうから、いくつもの影が見えました。乾いた笑いがこぼれました。そうです」
「あいつらは一匹だけじゃなかった」
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
ケェェェェ、ケェェェェ、ケェェェェ
「無数の鳴き声が霧の山の中に響きました。一匹だけならまだしも、たくさんの怪物から逃げる?」
「無理だろう。思いました。まともに動けないCを引きずって逃げきるなんて」
「だけどBが言ったんです」
「Cを連れて逃げろと」
「馬鹿言うなと思いましたよ。ならBはどうするのだと。Bはここに残ると言いました。囮になると」
「ふざけるなと思いました。逃げるなら皆でだと。けれど、Bの言うことにも一理あったんですよ。一人が囮になった方が生き延びる可能性は高まる」
「最悪なことに、Bの言葉はできるだけ多くの人間が生き残るための最適解だったんですよ」
「だから、私はBをその場に残し、Cの手を無理やりに引っ張って逃げました」
「背後から、『こっちだ! 化け物ども!』というBの声が聞こえました」
「Bが大声を出しているところを、私は初めて見ました」
「化け物たちのけたたましい鳴き声の中に、低い悲鳴が聞こえたのを」
「私は、聞かないふりをしました」
「また走って」
「走って」
「走って」
「聞かないふりをした私は、霧の向こうに鳥居を見つけました」
「ぼんやりと黒い鳥居の影」
「生きて帰れる。絶望の中にわずかな希望が見えて、私は息をろくにせずに走りました」
「苦しかったけれど」
「AとBの犠牲を無駄にはできません」
「鳥居が見えました」
「入る時に見えた石造りの古い鳥居です」
「急いで入らなければ。そう思いました」
「でも、そこでふと、違和感を覚えたのです」
「何かがおかしいと」
「霧の中で見つけた古い鳥居。見た時と同じように、手前には埋まったような古い道具と、墨書きの文字」
「ですが、時間はありません。遠くからあいつらの鳴き声は未だ続いているのです」
「行くしかない」
「鳥居をくぐろうとした時でした」
「Cが私の腕を引っぱりました」
Aの声がする。
「Cが言ったんです」
「そんなはずはない」
「Aは殺されました。私はそれを見ています。食べられたんです。私はCの手を引いて、無理やりに鳥居をくぐろうとしました。ですが、Cは強引に私の手を振りほどいたのです」
「彼女の顔は正気には見えませんでした」
「Aいるの!? 私はここだよ!」
「Cは大声で叫びました。焦りましたよ。やつらが来てしまう。もういっそ一人だけで入ろうかと思った時です」
俺だ! Aだ!
「私の耳にも、Aの声が聞こえたんです」
「ありえない」
「Aは確かに死んだはず。ですが、Cは声を聞いて、ますます喜んだように彼を呼ぶ」
「声は続きます」
俺だ! Aだ!
俺だ! Aだ!
「壊れたラジオみたいに何度も繰り返される言葉。おかしい。でも、半狂乱のCは気付かない」
「止めるまもなく、Cは霧の中に消えていきました」
「そして」
「Cの悲鳴が、聞こえました」
俺だ! Aだ!
俺だ! Aだ!
おれだ! えーだ!
おレだ! ェえダ!
――オレダ エーダ
「霧の中から出てきたのは、口元を血で濡らし、気を失ったCを引きずる怪物の姿でした。怪物はAの声音で、同じ言葉を繰り返しながら、辺りをキョロキョロしていました。そこでようやく気付きました」
「こいつらは目がよくないのだと。このまま、鳥居の向こうに行けば逃げられる」
「口を両手で塞ぎ、背中を向けずにゆっくりと後ずさりました。柔らかい山の地面がひどく不安定でした」
オレダ エーダ オレ、えー、おれ、オラ、トリ、とる、どが、とる、ゆめに、ゆーめに。し、しー、しーしーしー。
「怪物は意味の分からない言葉をこぼしながら、こちらへ向かってきました。もう耐えられません」
「息を止めて、背を向けて」
「――鳥居の向こうへと、逃げ延びたのです」