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「Aがその話をしてから、あれほどにぎやかだった車内はめっきり静かになってしまいました。おしゃべりなAですら、無言でしたね。おそらくみんな怖かったんでしょう。でも、誰も行くのをやめようとは言い出せなかった」
「ついたのは、丁度昼頃でした。道中食べたチキン南蛮もあまりのどを通りませんでした。空は青かったのに、心は晴れません」
「私たちの目の前には鬱蒼とした山がありました。登山のために舗装された道があるわけでもない、獣道があれば御の字のような山です」
「ここに今から入るのか。そう思うだけで気分が重くなりました」
「すごかったのはAですね。Aはカメラを取り出し、Cに渡して動画を取り始めました」
「いつもの大声で、いつもより芝居がかった口調で」
「俺は今、決して行ってはならないとされる場所に来ている。その名も大蛭鳥居! なんて語り始めました」
「これにはさすがに呆れましたね。Bと顔を見合わせましたよ。Bも苦笑していました。彼はあまり感情を表には出さない男でしたけどね」
「ひとしきり話し終えてから、最初の撮影は終わったようでした。Cはもう帰りたがっていましたね。でもAは頑なでした」
「Aは地元の連中だけが知っている道があるのだと言って案内を始めました。確かに道はありましたよ。土を踏み固めたような道とも思えない道がね」
「カメラを回しながら、私たちは歩き始めました。Aが言うには、この山には禁足地はあるけれど、全てがそうではないのだと。行ってはならないのはあくまで鳥居の向こう側。山ではきのこや山菜がよく取れるから、時折住人が入るそうです」
「ただし、山自体にもいくつかルールがあるようでした」
「一つ、山の中で誰かと出会っても声をかけてはいけない」
「一つ、山の中で大きな声を出してはいけない」
「一つ、山の中で明かりを灯してはいけない」
「一つ、山の中に卵を持っていってはいけない」
「おかしなルールでしょう? 声をかけるというのはなんとなくそれっぽいですが、どうして卵と」
「ただ、Aも山に入ってからは大きな声を出してはいませんでしたね。動画ではいつもやかましかったAが、です」
「それもあるいは、山の気配に呑まれていただけなのかもしれませんがね」
「真昼なのに薄暗い山でした。日の光が届きにくいというか、光が遮られているというか」
「それに、不気味なくらい静かでした。風が木々を揺らす音や虫の鳴く声。山の中は意外と音に溢れているものですが、その山に入ってからというもの、聞こえてくるのは自分たちの足音だけという有様です」
「まるで、山にいる生き物全てが何かに怯えているようでした」
「昔からこうなのかと、BがAに聞きました。するとAは緊張した風にうなずきました。カメラは回っていましたが、五分も歩いた頃にはAは黙り込んでいました」
「Aはよく道を覚えていました。途中で道を外れて、急勾配の道を進んでいって。もしかすると、Aは子どもの頃によく鳥居の近くまで行っていたのかもしれません」
「山に入って三十分くらい経った頃でしょうか」
「鳥居が見えました」
「古い鳥居でした」
「灰色の、石造りのでこぼこした鳥居で、形状は神明鳥居……地図記号のままの形のシンプルなものでした」
「古い形の鳥居です」
「鳥居のそばには看板がありました。地元の人が書いたのでしょう。墨文字で『命がおしくば鳥居をくぐるな』と書かれてありました。それだけじゃありません。鳥居の手前には地面に隠れるようにして、古い鏡やとっくりやらがありました」
「異様な気配、という言葉がこれほど似合う鳥居を、私は後にも先にも見たことがありません。ゴクリと、誰かがつばを飲む音がしました」
「Aは今から、この鳥居をくぐりますとカメラに向かって言っていました。Cはすでに涙目です。私も、Bも止めたくてしょうがありませんでした」
これから、鳥居をくぐります。
「Aを止める前に彼は鳥居をくぐってしまいました。慌てて追いかけるC。二人が心配な私も鳥居の向こうへと」
「足を踏み入れました」
「鳥居をくぐった瞬間のことです。なんというか、不思議な感覚がありました。空気が変わる感覚です。山の中の湿気た空気が、こう、背筋が伸びるような、スーッと透き通るような心地がしたのです」
「そうですね、神聖な雰囲気がした。といえばわかりやすいでしょうか。周囲の景色は一つとして変わっていませんでしたがね」
「ただ、なんでしょう」
「一瞬のことでよくわからなかったのですが、鳥居をくぐる直前、私は、声を聞いたような気がするのです」
ケェェ
「って」
「声は悦んでいるように感じられました」
「何の鳴き声だろう」
「後ろを振り向きましたが、鳥居は変わらずそこにある。声を私以外が聞いたかどうかはわかりません。少なくとも私には聞く勇気はなかったし、気の所為だと思いました。私たちは顔を見合わせて、誰からともなく深い息を吐きました」
「安心した、という気持ちに少し近いかもしれません」
「Aも、動揺はしていましたが、また撮影のためのセリフを言い始めました。声は、抑えていましたけれどね」
「彼は鳥居の奥には何があるのかを調べるのだと言って、どんどん先へと進んで行きました。Aが先頭で、その後ろをC。さらに後ろを私とB。
「誰も戻ろうとは言いませんでした」
「神聖な空気に安心したのかな。気になったんです」
「この奥に何があるのか」
「無言で歩きました。どのくらい歩いてからでしょうか」
「霧が出てきました」
「元々薄暗い場所ではありましたが、霧はあっという間に濃くなって、隣にいるBの姿もあまりよく見えなくなってきました」
「こうなると、神聖な空気だなんだと思ってもいられません。不気味さのほうが増してきました」
「もう帰ろう、とCが言いました。でもAはもう少しだけ、もう少しだけと言って聞きませんでした」
「じっとりとした嫌な汗が出てきました」
「その時です」
「『うわっ』という大きな声と一緒に、前方から人が倒れる音がしました。三人が駆け寄ると、Aは何かにつまずいて転んでいたようでした。見るとそれは大きな岩のようなもので、地面も山の土から岩肌へと変わっていました」
「幸いなことにAに大きな怪我はなく、少しばかり擦りむいただけのようでした。ほっとしてAの足元を見ると、岩肌に半ばのめり込むように何かが埋まっているのです」
「これはなんだろうと思った矢先のことです」
「前から、人の影のようなものが見えたのです」