女の子は砂糖とスパイスでできている
石畳で舗装された通り、レンガ造りの決して豪奢ではない建物、扉を押し開けて店内を見渡してもごく一般的なコーヒーハウスだった。
給仕に硬貨を渡しておそるおそるハットを脱ぐ。視界が開けると店内の紳士達がこちらに視線をよこして値踏みしているような錯覚に襲われたが、決してそんなことはなく、ほとんどの者が新聞を広げたり談笑したりと関心がない様子だった。
そんな中で一人、チェスの駒を片手でくるくると回していた年若い紳士と目線が合う。やあと言わんばかりに人懐こい笑顔を浮かべて手をあげてくれたのに、人知れず安堵の息を吐いた。
「すまない。待ち人が来たようなので抜けるよ」
「なんだヘンリー。勝ち逃げか」
「あなたの勝ちでよろしい。今度うちのワインをご馳走するから許してくれ」
「レギュラス産のワイン! それでは仕方ない」
賑やかな笑い声を置き去りにした紳士は、長い脚で颯爽と距離を詰めてきた。親しげな笑顔のまま片手をさし出し、戸惑う隙も与えてくれずに右手をさらわれた。ついでに肩を力強く叩かれた。痛い。
「久しぶりだ、デイヴィッド。あの頃のようにデイヴと呼んでも?」
「そんな私なんかに、恐縮です。ウォルフ卿」
「ああ、年月というのは残酷で淋しいものだ。机を並べて一日中写本していた仲じゃないか」
また肩を叩かれた。痛い。
表情も豊かに遠慮のない紳士は、ヘンリー・ウォルフ。
デイヴィッドと同じ歳で同じ寄宿学校に通い、息つまる聖書の写本を並んでしたし大陸の異国語に四苦八苦したのも確かだが、彼とは根本的にいるべき場所が違う。あの頃から。
ヘンリーはバターのようなまろやかな金色の髪を少々長めにしていて、その隙間から悪戯好きの子供に似た澄んだ青い瞳をのぞかせている、同性から見ても相当な色男だ。
身長も高く体躯もしっかりしている。デイヴィッドと違って運動科目も良かったはずだ。
おまけにこの人懐こさで侯爵位持ちであるウォルフ家の長男である。寄宿学校時代は広く狭い庭に飼われたただの子供だったが、成人して社交界にもまれたのだろう洗練された雰囲気がある。力加減は強いが。
年月が残酷で淋しいと痛感するのはむしろこちらの方だ。
それでも学校卒業以来、連絡もしていなかった彼に頼みごとをしたのはデイヴィッドだ。他に伝手がなかった。突然の手紙に驚いただろうに、ヘンリーは「懐かしいな。あの頃の話を酒の肴にできるようになってしまった」と快い返事をくれた。
「それで、だ」
ようやく右手を離してくれたかと思うと、今度は持っていたハットを取り上げられてすぽんと頭にかぶせられた。
「彼はシャイでね。君もそんな顔をしているくらいだから、他に聞かれたくはないだろう?」
ヘンリーが歩き出すと給仕が素早く動いて、店内奥の扉を開けた。こういうところが生粋の貴族は違うと思い知る。きっと彼はハットやステッキ以外のものは持たないのだ。
扉の向こうは細い廊下になっていて扉がいくつか並んでいた。個室なのだという。コーヒーハウスは紳士のための施設だから男女のそういう目的ではなく、密談用かなあとヘンリーは笑っていた。どういう種の密談かは聞かないでおいた。
廊下の奥にあった階段をのぼり、二階に出ると廊下を挟んで向かい合わせで扉が一つずつ設えてあった。
その一つを顎で示されたのだから、これはデイヴィッドが開けるのだろう。給仕は一階の扉を閉めるところまででついて来ていない。
深く細く息を吐いてから、一階に並んでいたそれとは違う重厚な扉をノックした。
どうぞと促す声は想像よりずっと若い、いや幼い気がした。
扉を押し開けると室内は思いの外明るかった。通りに面した方の部屋なのか、窓からさし込む光が薄暗かった廊下と対照的で眩しく片目を細めてしまった。
「さあ、アイザック。君の客人だよ」
背中から聞こえた陽気な声に、我に返った。眩しくて。現実感がなくて。
「そこの軽薄男から聞いています。デイヴィッド・モア氏」
彼も美しいと思った。
「はじめまして。コル=レオニス伯アイザック・ハートと申します」
少年ではないが決して大人ではない、そんな発展途上の強さと脆さを持った彼はデイヴィッドの驚いた様子になんの感慨も持たずソファを勧めた。
承知しているとはいえ慌ててハットを取り上げて礼をする、早口で名乗るともう一度どうぞと腰掛けるように促された。むしろ早く腰掛けろという命令に聞こえた。
わずか15歳でハート家当主を継いでコル=レオニス伯爵となった彼の話は、当時彼が通っていた寄宿学校内にとどまらず社交界を駆け抜けた。
しかし学校を中退した上に未成年である彼が表舞台に現れることはなく、話に尾ひれも背びれもくっついて真偽不明の噂でしかなかった。
デイヴィッドの観察するような感心するような視線も気にすることなく、僕の年齢が気になるんでしょうと彼の方から口を開いてくれた。
現在は17歳だという。
「私達が最高学年の時に、少女みたいな子が入ってきてこれはやられるなあと話していたのを憶えているかい? あれがアイザックだよ」
彼が腰掛けた一人掛けソファの肘置きにもたれて、ヘンリーは愉快な様子で言った。
「とても綺麗な子だったのに、上級生を拳で撃退したって噂の?」
「そうそう。君はどこへ行って何をしても噂だらけだねアイザック」
「噂をするのは僕自身ではなく周囲なので、管理はできません」
「噂を管理するのが貴族の仕事だよ」
アイザック・ハート。
ブルネットではなく黒檀のように黒々とした髪、荒らされていない新雪を思わせる白い肌、そして冷やし固めた血のように赤い瞳。
寄宿学校に入学したばかりは少女じみていたようだが、今は女性に間違われることはないだろう。ただ中性的な美貌であることは確かだ。
若いがハート家当主の名に相応しい落ち着きと存在感が似合う、そして不快でない違和感を相手に与える。
そんなアイザックは脚を組みソファに優雅に腰掛け、きらきらしい印象の色男ヘンリーが隣に添えられていたらこれはもう、住む世界が違う。
あの頃から、寄宿学校時代から親しげだったヘンリーには悪いが、どうも同じ世界で同じものを見ているようには思えなかった。
デイヴィッドも子爵家の人間ではあるが、争乱の昔に早々に領地を返上している名ばかり貴族だ。家の商売はうまく回っているのでそれなりに余裕のある暮らしでも、もちろん議院に席などない。
彼らとは違うのだと、劣等感のような安心のようなものに胸を呑まれているとヘンリーが肩をすくめた。
「それで、デイヴは何の『依頼』かな?」
ぼうっと美しい世界を眺めているだけで話を切り出さないデイヴィッドに、わかりやすい言葉が投げかけられた。そうか、こんなものは彼らにとっては日常なのかとまた境界線を見せつけられた。
「その、あくまで『相談』なのですが」
アイザックは組んでいた足をほどいた。仕立てのよいスーツだ。
「私の婚約者だった、ベッツィのことで」
「エリザベス・ハウランド。クロウ伯爵の長女、現在伯には彼女しか子供がおらず直系男子がいない。ハウランド嬢が生む男子が次代の伯爵候補のため、16歳になると同時に結婚が決定していたと思いますが」
ひく、と喉がひきつった。そうですその通りですと言葉にならずただ首を縦に振るしかできなかった。
「ザーック、追い詰めるのやめなさい」
「そしてハウランド嬢は、今は行方が知れないそうですね」
「ああ、……ご存知なら、話が早いです」
デイヴィッドの婚約者である令嬢は、典型的な貴族のご令嬢で教養などの習い事はすべて邸宅内で完結していた。外に出るのは母親と一緒に所縁ある家への茶会に出席する程度だった。
なのに突然姿を消した。
家出か誘拐かと伯爵家では大騒ぎになったが、表立って捜索されてはおらずまだ発覚から間もないため社交界で知る者はほとんどいないはずだ。
しかしアイザックはそれを知っていた。
デイヴィッドとの面会があったから調べたのか、それとも彼の情報網は一令嬢の失踪にまで至るのか、それはわからないが重要なのはその点ではない。
婚前の令嬢が行方をくらませている事実だ。
しかも直系男子のいない伯爵家の令嬢、アイザックが示したように彼女の子供が次代を継ぐことになるため、もし誘拐だったとしても令嬢自身の安全というより処女性の喪失の方が懸念されている。だから憲兵隊を頼ることなく表沙汰になっていないのだ。
か弱い、16歳にもなっていない少女の安否より家の存続の方が優先される、世襲貴族のあり方がデイヴィッドには理解できない。
だが目の前で優雅なたたずまいを見せる彼らにとっては、日常なのだろうか。
「もしかしたら懺悔、……いえ、やはり相談です。コル=レオニス伯爵に伺いたいのです」
ベッツィは間違いなく貴族の令嬢で、自身が外に出ることはありませんでした。
ただ、他のご令嬢と違ったのは、婿を決めるために定期的に男性との見合いをしていた点でしょうか。もちろんハウランド家の中で、家族も使用人もいる前でです。
16歳での結婚が決まっていたので、彼女が14歳から候補との見合いはありました。私もその一人です。
もう一度言いますが、ベッツィは本当に貴族のお嬢さんで、無垢で愛らしく少女らしいワガママな子でした。
後継の件があるので彼女より年下は除外、種付けができない年齢の男も除外されましたが、私が一番彼女と歳が近かったのです。そして彼女の気まぐれに一番根気よく付き合っていたのが私だったのだと思います。
一年の見合い期間を経て、私達は婚約者となりました。
彼女の誕生日まで後ひと月もないという時に、こんなことになって。
どうしたらいいのか。
令嬢の行方と同じように途方に暮れた男は、世間に知られたくない伯爵家のため秘密裏に「依頼」するのではなく、相談だと言った。
家の存続がそれほど大事かと嘆いた。
「だって酷いじゃないですか。誘拐されてもし彼女が穢されたら、それは外聞が悪いと言うくせに。早く子供をつくれ結婚式には赤ん坊を出し終えていればドレスは着れるだろうと、そのために婚約期間があるのだと平気で言う人達なんです。15歳の女の子にですよ。まだお菓子に喜んで、リボンが曲がっているから会わないと言ってくるような子供に、子供をつくれって」
手に握っていたハットを握りしめる姿を見て、ヘンリーはうーんと唸りながら自分の髪を弄んだ。
そんなものだと思っているし、憤ってくれる婚約者で良かったねえとも思った。他人事だからだ。そして肘掛けの向こう、ソファに腰掛けているアイザックが人形のように表情を動かさないのを肩越しに観察していた。
「あげく人に酒を飲ませてベッツィの部屋に放りこむとか……何なんですかあの人達は」
「まあ、貴族だろうね。しかも薬でなく酒というあたり良心的だ」
「ヘンリー! そりゃあ君は女性慣れしているだろうが! ベッツィは可愛らしいが妹のようなものなんだ、クロウ伯爵に選ばれたのは光栄だがとてもそんな気になれない」
「ははあ、私はルールを守っている。ご令嬢に手を出したことはないね。それでデイヴ、懺悔とはそんな幼気な少女と事に及んだこと? それとも無力な今の自分?」
「あれは事故だ!」
「事故ねえ……」
だそうだよ、と肘掛けから腰を浮かせたヘンリーは一人掛けソファの背後に回った。背もたれに両手をついて黒檀のような黒髪に話の主導権を委ねる。
「令嬢のことは理解しました。では、モア氏は僕に『何を』お求めですか?」
人形が話しているような、事務的というより無機質な声色にデイヴィッドはぞくりとした。
侯爵家の人間であるヘンリーもそうだが、子爵の息子でしかない自分とは違う。そして年下とはいえ敬意を払うべき人物だと頭でなく肌で感じる。ヘンリーとはまだ寄宿学校を共にしたという気安さはあるが、この人形に尋ねていいものか。
そう感じたがためらいは瞬きほどで捨てた。むしろ彼なら答えてくれるのではと思った。
「不躾ながら、その、コル=レオニス伯爵の噂が本当ならと思って、参りました」
「さて、僕は噂の管理が杜撰でして。どれのことでしょうか」
「当主を継いだ経緯について」
本当ですかと尋ねると、よくできたカラクリ人形はなめらかに笑った。
「事実です」
デイヴィッドは握りしめていたハットをさらに強く握ったが、今は歓喜の意味で力が入ってしまった。本当なら、本当なら止められるかもしれないと。
「では屍体愛好家というのは?!」
「……それは初耳です」
「アイザック、ついにソッチにいったの? だから私が適当にご夫人を紹介するって言ったのに」
「話がややこしくなるからヘンリーは黙ってください。経緯については、事実ですが、なにも好きこのんでいるわけでは」
「だってこのままでは美しくなくなってしまう!」
しぼり出すような叫びに、片眉をあげて反応したのはヘンリーだった。若き伯爵はまさに人形のごとく表情を変えなかった。
「妹の、ようなものだったんです。ワガママだって愛らしいと思ってました。でも女性として愛するのは結婚してからだっていいじゃないかと、ベッツィにも言ったんです。家の都合でなく、彼女自身がそう思えるようになったらと。だからあれは事故なんです」
酔っていた。酔わせたのは他でもないハウランドの家人で、多少の物音だって容認したのも彼らだ。
しいていうなら花瓶が割れようと、その破片を持って少女が脅してこようと、部屋に近づかなかった彼らに非があるのではないか。
『デイヴィッド様は、わたくしなんか嫌いなんだわ』
陶器の破片はデイヴィッドを傷つけず、かといって少女の肌を鋭利に傷つけることもできず。自分で喉に刺しておきながら痛い痛い助けてともがく華奢な体をただ見つめていた、その時に初めて。
彼女を美しいと思った。
血の気が抜けて青白くなっていく容貌が興奮するほど美しかった。
こんな家に置いてはおけない、手元にすぐ触れられる場所に移さないと、使用人が使うワゴンに押しこめるために抱き上げた体はどんどんと体温が奪われて冷たくなっていくのを感じた。ゾクゾクした。その時はまだ息があったらしく名前を呼ばれた気もしたが、デイヴィッドにはもう聞こえなかった。
血を隠すのにランプを倒して絨毯を燃やし、ベッツィがいないと騒いだ。厨房から出る荷馬車で運び出した。
そうしてどうにか自室まで運んだ彼女は何より美しかった。
一緒に過ごした数日はかけがえのない幸福な時間だったが、すぐに問題が発生してしまう。ハウランド家の捜索ではない、人形のように美しい少女の体が崩れてきたのだ。
このまま留めておきたい。どうにかできないか。
そうして思い出したのが、コル=レオニス伯爵の噂だった。
デイヴィッドは若き伯爵に面識はないが、確か寄宿学校でヘンリー・ウォルフが彼を兄弟制度の弟にしていたはずだ。侯爵家の者であるヘンリーとも卒業以来連絡は取っていなかったが、他に伝手はなかった。
父親の屍体と過ごしていたと噂の伯爵なら、彼女を美しいまま保存する方法を知っているのではないか。
この屍体のように美しい少年なら。
「方法、というならありますが」
彼にしては行儀悪く、肘掛けにもたれる格好でアイザックはそう言葉にした。
そして人さし指を一本、ぴしりと立てる。
「おそらく手遅れです」
「そんな! まだ、まだわからないじゃないですか。何でもします、どんな材料だろうと集めます。ベッツィをあんな家に帰したくない、穢していいはずがない、彼女は無垢のまま私と一緒にいればいい」
屍体に性的興奮を覚えている時点で彼女だったものが無垢でいられるかは謎だなあ、と考えたがさすがのヘンリーも口にはしなかった。
示した人さし指を自身の唇に持っていき、それにデイヴィッドが目を奪われたのを確認する。
「屍体の状態も、あなたの状況もです」
ノックもなく、紳士的でない荒々しい様子で踏み入ってきたのは数人の男たち。五人はいるだろう。憲兵の制服でなく安いスーツを着ていた。
慌てて立ち上がったデイヴィッドを押さえつけたのは、ハウランド家の護衛たちだった。
「すみません。あなたからの話が『依頼』なら多少考えましたが、ヘンリーへの手紙も『お願い』でしたから。それに、懺悔でもないようでしたのでクロウ伯爵からの『依頼』を優先します」
「まさか、ベッツィも」
「今頃は家に帰られてると思います」
「なんてことをするんだ! ベッツィは私の婚約者、いや妻になるんだぞ?! あんな連中の手で土に葬るなんて許されるはずがない!!」
護衛たちに首を締め上げられ引きずられていく姿を見送ったヘンリーは、長い前髪をかき上げた。うっとうしいなら切ればいいのにと、アイザックは常々思っている。
「妻って言っちゃったかー。ベッツィ嬢は純潔のまま戻れて良かったねえ」
「……あなたは口を開かないでください」
「でも今回は俺のおかげでしょう? 人脈は作っておくものでしょう?」
「否定はしません。しかしヘンリー、口調が乱れてます」
「ザックしかいないんだからいいでしょ。これでも俺、社交界の貴公子らしいからさ。大変なんだよ」
「では大変ついでに、僕の屍体愛好家の噂をどうにかしておいてください」
「ええ、面白そうなのに」
愛好はしていません。
どうにも、生きてないものに縁があるだけです。
後日、エリザベス・ハウランドの日記を拘留されているデイヴィッドに送ったと聞いたヘンリーは、少々考えてしまった。
彼女の日記には、婚約者への淡い恋心と素直になれない幼さからくる葛藤と大人になりたい子供の想いが綴られていたそうで。それを読んだデイヴィッドが本当に懺悔するかはわからない。あれの性癖だと彼女がまっとうに生きていても関係が構築できたかは怪しい。
だが、それでも送りつけるのがアイザック・ハートという奴なのだ。
考えた。少しは汚名をそそいでやるべきか。おのれの愉悦を優先するか。
けっこうものすごく、考えた。