朧月の夜に
BETTABETA
私は、朧月が好きだ。
彼もまた、朧月が好きだ。
好きでなければ、こんな寒い夜にわざわざ家から出たりしなない。……いや、私の場合、朧月が出たから外に出たわけでもない。
外は、まだ真冬なんじゃないか、と思うくらい寒いのだから。
もうすぐ三月なのに。
家の暖かさと朧月を私の中の天秤にかければ、家の暖かさが沈む。
では何故外に出たか、というと。彼に一緒に朧月を見ようと誘われたから、というわけである。
彼と家の暖かさを天秤にかければ、彼が沈んだ。
「……うん。じゃ、また後でね」
彼からの誘いの電話を切り、服を着替える。太ももの半分くらいまでの丈のスカートに、お気に入りのコートを羽織って、その上からお気に入りのマフラーを巻いて玄関へ出る。
これまたお気に入りのブーツをせっせと履いていると、彼からメールが来た。
「今どこ?」
女は時間がかかるのよ。まだ十五分しか経ってないじゃない。
玄関を出た所、とだけ返して、あと三十分で明日になることに驚愕して、携帯を上着のポケットに押し込んだ。
まあ、今日は土曜日だから問題ない。
私の家から歩いて十分もかからない小さな公園の前に、彼は地面を見ながら立っていた。その首には、去年の誕生日に私があげた紺色のマフラーを巻いている。
息切れしながらも私が寄って行くと、彼は優しい笑顔でこちらへ近づいてきた。そして、公園の中にある小さなベンチを指差した。そこに座ろうと言っているんだろう。
大きな手が私の手をとり、優しく引っ張る。
街灯だけが辺りを頼りなく照らす公園に入っていく。見慣れた公園だけど、冬の暗さが印象をガラッと変えていた。
ゆっくりとベンチに座ると、ギシ、と嫌な音がした。
彼も、私の右側に、やはりギシ、と音をたてて座った。体を揺らす度に辺りに響くのが少し耳障りだ。
「寒いね」
彼は、溜息をついてから言う。息をするたび、白い息が立ち込めては消えてゆく。
「うん、そだね……寒い」
「知ってる? 朧月の日の次の日は、雨が降るんだって」
「へぇ、そうなんだー……」
彼はもともと持っていた暖かい缶のミルクティーを差し出すと、そう言った後に自分の缶コーヒーを飲んだ。
寒さでかじかんだ手を必死に使い、缶を開ける。
一口、二口、注ぎ込んでいく。甘く暖かいものが体に染み込んでいく。
一息ついて、とりあえず会話を繋げるために私は問うた。
「何で、雨降るの?」
彼は、私の顔を見つめて目を大きく見開いた。そしてまた空を見上げて、「んー……」と唸った。
私は朧月は好きだが、特別調べた事があると言うわけでもない。
彼もそんなに詳しくはないのかもしれない。
ははーん、テレビで知った中途半端な知識ってわけだ。
「そうだ」
十秒経ったか経たないかぐらいの時に、彼は何かを閃いたようで、人差し指を立てた。
「朧月だから雨が降るんじゃなくて、雨が降るから朧月なんだよ」
「ほう、というと?」
立てた人差し指で、次は朧月を指差した。
「ほら、月の回りに雲が出てるじゃん」
なるほど、あれは雲なのか……。
「あの雲が、雨を降らす。……ってことじゃないかなあ……たぶん」
おお、すごい、なるほど、と返事をする。たぶん、という一言の所為で説得力は無いけど、もしかしたら当たっているのかもしれない。
帰って調べてみて、間違っていたらおちょくってやろう。
また暖かいミルクティーを飲むと、ひゅう、と冷たい風が吹いてきた。露出した太ももを冷やす。彼のためだからって、スカートを穿いて来たのが間違いだったかな……。そう思って、太ももを撫でた。
すると、彼は上に来ていた黒いジャンパーを脱いで、私の膝に掛けてくれた。とても暖かい。
「え? 寒いでしょ、いいよ」
嘘だけど。
「僕はズボンだし。上だって分厚いから平気だよ」
全然分厚くないじゃないの。それすっごく薄いじゃないの。口には出さなかった。
「お礼」
だから代わりに、左腕に抱きついて、手を握ってやった。
彼は微笑んで言う。
「ありがと」
「うん」
大きな手は、冷たい。
彼の手を握り、肩に寄りかかりながら、朧月を眺めた。
彼の言ったとおり、雲がうっすら見える。星は全然見えない。
明日は雨かなあ……と、いうより、もうすぐにでも降ってしまいそうだ。折り畳み傘を鞄に入れた覚えはなかった。
まあいいけど。
ミルクティーを飲み干してしまった。彼も同じくらいのタイミングでコーヒーを飲み干した。私の手から空の缶を取ると、二つの缶をベンチのすぐ傍にあるゴミ箱に放り投げた。
誰でも入るような距離なのに、彼がナイスシュート、と口にしたので私は少し笑ってしまった。
そして、ふと膝にかかった彼のジャンパーのポケットを見ると、何か入っているのが見えた。
「ん? これなに?」
私は手を伸ばす。
「え……。あ! だめ、出さないで」
彼は右手で私の左腕を掴んだ。
彼の慌てっぷりを見ると、何かやましい物でも入ってるのかと思える。
「何ぃ? 何入ってるのよー」
「べ、別に変なものじゃないよ……ほら、か、カメラ? 月、撮るためだよ」
「ふーん……」
語尾が疑問系なので九十九パーセント嘘だろうけど、まあ、……いいか。信じてやろう。
でも、あまり、いい気はしないなあ……。
私はポケットをあさろうとする手を引いて、もう一度彼の腕に抱きついた。彼の右手はまだポケットの中の何かを握ったままだった。そんなに見せたくないのか……。
会話が途切れる。いつもは心地よい沈黙さえ、少し気まずくなった。ちらっと横を見ると、彼は空を見上げていた。首疲れない?
まあ、他の所を見ていても仕方がないので私も、空を眺める。
あーあ、雲が増えてきちゃった。月も少しだけ見えにくくなっている。
でも、彼の家も私の家もここからはそう遠くないので、折角だし彼との時間を大切にしようと思った。
「あのさ」
彼が沈黙を遮った。
「ん……」
彼は、私の膝に掛けたジャンパーのポケットをごそごそと探っている。お、やっと見せる気になったか?
私はジャケットが落ちないように掴んで、それを見ていた。
「さっきの……嘘」
「え?」
「ごめん、カメラじゃない」
わかってるわよ、というべきか迷ったが、彼のプライドのためにも黙っておく。
それよりも、言いたい言葉がある。
「そうなの? ……じゃあ、何が入ってるの?」
彼は俯いた顔を、もっと下に向けた。心なしか、頬が赤く見える。
何か言いたげなのに、口は固く閉じたまま。私は、彼の横顔を見つめる。
もうそろそろ何か喋らないと不自然だと思ったのか、彼はゆっくりと口を開く。
「ゆ、」
何、湯?
「びわ……」
「へ? ビワ?」
私の中の好きな果物ランキング四位の名前を口にすると、彼はそれっきり黙ってしまった。
え? 何?
湯でしょ、ビワでしょ。ビワ風呂?
……………………あ。
「指輪……?」
彼は小さく頷く。顔はさっきよりも赤い。少し唇をかんでいる。
指輪……。
意味がキュピーンとわかってしまった私は、多分彼と同じぐらい顔が赤いだろう。
「え、だから……え…!?」
戸惑っている私を放って、彼は立ち上がった。そして、また空を見上げる。
足が少し震えているのが見えたけど、私の方が震えているに違いない。
そして、彼は、深呼吸をして。
ゆ、っくりと振り返って。
一度瞬きをすると。
私の左手を手に取り、指輪を私の薬指にはめて。
寒さと緊張に震えた声で。
「結婚しよう、涼子」
と、言った。
だから、私は、ベンチから立ち上がって。
精一杯、声を振り絞って。
短く返事をした。
頭が真っ白になって、考えもせず咄嗟に返事をしてしまった。
でもよく考えても、不満だって不安だって何も無かった。
私の頭の中には、彼との幸せな未来しか見えない。
「よかった……」
いつの間にか彼は私を抱きしめて、泣いていた。
いつの間にか私は彼に抱きしめられて、泣いていた。
「純、あいしてる」
「ああ、僕もだ……」
日を境に降り出した雨は、冷たくて。
だけど彼の大きな体が、暖かい。
私は、雲の隙間から覗く月に照らされ、そういえば今日は私達の三年目の記念日だったな、と思いつつ、とりあえずひたすら涙を流した。
BETTABETA