カラフル灯
マチコさんはインスタグラムで旦那の弁当を毎日掲載している。
今日はミニトマトがない、と由紀子はぼんやり思う。
根菜の煮物にしょうがの入った鶏そぼろは、いつもより手が込んでいた。つやつやと照るごぼうには、味がしっかりしみていることが伺える。由紀子は弁当を画面越しに味わおうとした。れんこんが小気味よく割けて繊維を噛み締めるほど、ごま油の風味が口の中に広がるような気がした。すっかり甘辛い口ができあがっているところで卵焼きをほおばれば、砂糖と牛乳の優しい風味が豊かにさらっていく。きっとおいしい。
マチコさんの弁当は、そこはかとなく不器用さも残っている。いろどりを気にしてハムを詰めても、ただ四つ折りにして隅の押し込めてしまうような。あるいは、のりでキャラクターの顔を表現している日のおかずは、から揚げと茹でたアスパラガスしかないという風に。今日はミニトマトがないので、卵焼き以外は茶色い。まだ若い新妻の愛情とでもいうように、大きすぎる弁当箱の隙間に申し訳なさそうにクマの楊枝がささっていた。そういえば、クマも茶色い。
ときどき写真の奥に見切れる茶箪笥や、年季の入った花柄のポットの足から、彼女の背景を想像させた。これでいい。余計なことはしない、といわんばかりに生活感を隠さないマチコさんには、力強い肯定感が漂っている。由紀子はその生の臭気を無性に嗅ぎたくなるのだった。
帰りのバスでひとしきりマチコさんの観察をしたあと、スマホから顔を上げれば欅の木の立つ坂に差し掛かっていた。マンションはもうすぐである。その頃には、街を賑わすネオンの電飾のかわりに、住宅街のぬくもりに照らされた淡い窓明かりの群れがやってくる。その瞬きが由紀子にはつんとしみるようだった。
言葉なく見つめなおした由紀子の両てのひらは、とても厚く硬くなっていた。そのために買った高いハンドクリームは、由紀子にはなくてはならないもののように、ポーチの中にすっかり絞られた姿で現れた。あともうひとひねりに、まるで声を発しそうなほどやつれたチューブから、真っ白なクリームがうねった。僅かにかぐわした品のいいローズマリーの香りが心まで届いたとき、バスは突然停まった。運転手は由紀子がここで降りるのを知っている。
マンションのワンルームでは由紀子は廊下しか電気をつけない。少し温かなオレンジ色が、体にすっと浸透するようになじむのだった。大きな白い光は刺すようだと彼女は嫌った。だから部屋の電気を取り外した。それでも日の光はカーテン越しに毎日訪れることに安心すると、自らの判断を疑うことさえなかった。光がなくなると、物の多さが気になった。クローゼットはほとんど見えない。彼女は朝が早く夜が遅い。布の塊に色らしい色を感じられなくなると、ためらいもなく燃えるゴミの袋に押し込んだ。その衝動的な流れ作業は、単純に楽しかった。思い入れも、歴史も、たかがしれていると、取るに足らないと思えた。すっきりしたクローゼットを眺めていると、この清々しさが本物だという確信を得たような心地になって、その日はそのままベッドで朝まで眠った。次の日はテーブルを片付けた勢いのまま、テーブルを捨てた。テーブルを業者にもっていってもらうついでに、シェルフを丸ごと渡した。キッチンマットを剥がして、テレビを捨てて、ベッドから布団に切り替えて今に至る。唯一、ポケットサイズのWi-Fi端末の小さな光が赤やオレンジ、緑に光るのを生命のように感じらながら、そっと可愛がって生活していた。
さて、唯一の部屋着に着替えると、ミニトマトが無性に食べたくなった。
弁当のいろどりには赤は欠かせないんじゃないかと、どうしても譲れなくなった。マチコさんは本当に抜けていると、愛らしく思えて口元が緩んだ。
トマトを、買いに行こう。
了