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動物の私

家守

作者: 鴨カモメ

リーンリーン

「仏壇にちゃんと手を合わせてえらいねぇ」

「ふふふ」

 得意げに笑う声。パタパタと走る小さな足音。それが近づいてきたかと思うと障子の穴から黒くて丸い目がこちらを見ていた。


「うわっ、トカゲだ!」

「そりゃトカゲじゃねぇよ。ヤモリだ。ヤモリの五郎だ」


 たま子はガタガタと建てつけの悪い障子を開けるとしわがれた声で言う。今日はたま子の孫一家がやってくる日だ。ひ孫は小学校に上がる前といったところか。あまりに私をジロジロと見るので私も見返してやる。しかし、すぐに母親の元へ駆け寄るとその首にしがみついた。

「ママ、怖い」

「毒とかあるのかな」

 母親もまた嫌そうな顔でこちらを見ている。都会暮らしでヤモリを見たことがないのか、失礼なものだ。

「潤太くん、ヤモリは怖くねぇよ。毒もねぇしな。それに五郎はおおばあちゃんがちっさい時から、この家を守ってくれてんだ」

 なまりながら優しく言うと、それを聞いていた孫が笑った。

「ばあちゃんが小さい時からって、五郎はそんなに長生きしないだろ。懐かしいなぁ。俺も小さな頃よく五郎を捕まえようとしてばあちゃんに怒られたっけ。さすがにあの時の五郎とはちがうよな」

 

 あのやんちゃな悪ガキが今では父親とは時の流れは早いものだ。いつも隠れている私を引っ張り出そうとしてたま子に怒られていたことが懐かしい。たま子もまた同じ気持ちなのだろう。小さな目が皺で隠れるほど笑った。

「五郎はずっと五郎だよな」

 たま子はそう言って障子を閉めた。障子とガラス戸の間はまるで自分の部屋のようでとても居心地がいい。


 私はたま子がこの家で産声をあげた時からずっとこの家に住んでいる。私のことを「五郎」と名付けたのは幼い日のたま子だ。それは飼っていた犬が四郎だったからという簡単な理由だったが、私は四郎よりもずっと長生きをしてたま子とこの家を守っている。


 たま子は小さなころから変わった人間だった。窓に張り付く私を何時間も見つめては「きれい」と言った。そしてその日にあった良いこと悪いこと、様々な話をまるで友に話すように私に語りかけた。年頃になるとそれも少しずつ減っていき、たまに思い出した時だけ障子を開けて私がいるか確認をした。

 そして大人になったたま子は嫁に行き、この家を出た。たま子がいなくなったこの家に私のことを気に留める者などいない。しかし私はこの先誰に見られることもなくひっそりと一生を終えようとも、別に構わなかった。

「ただいま、五郎……」

 やつれたたま子が障子を開けて微笑む。たま子は10年もしないうちに子どもを二人連れて戻って来た。

「この家は五郎が守ってくれていたんだねぇ」

 そう言って仏壇に兵隊姿の夫の写真を飾ると線香をあげてリーンという音を鳴らした。たま子の傍らにはまだ幼い兄弟が彼女と一緒に目をつむり手を合わせている。

 

 たま子の夫は戦争で亡くなった。たま子もまた空襲で家を焼かれ命だけは助かったが、家と夫を失ったたま子は実家へと戻るしかなかった。たま子の子どもたちは、よほど怖い思いをしたのだろう。しばらくの間おびえて母親から離れようとしなかった。そんな子どもたちをたま子は涙をこらえ、何度も優しく抱きしめていた。

「この家は五郎がいるから大丈夫だ。もう爆弾なんて落ちてこねぇぞ」

 子どもたちは私を見て目を輝かせた。そして戦争が終わり、安心して暮らせるようになっても未亡人のたま子の苦労は終わらなかった。彼女は昼も夜も働き、年老いた両親の面倒を見ながら子ども二人を立派に育てあげたのだ。


 たま子の子どもたちが自立し家を出て行ていくと、彼女に待っていたのは両親の介護だった。長い介護の末に父親が亡くなり、しばらくして母親も亡くなった。リーンリーンリーンと鳴る音が仏壇の写真の数だけ増えていく。

 そうしてこの家にひとりきりになったたま子だったが、家には時折、それぞれ世帯を持った子どもたちが家族を連れてやってきた。子どもたちが帰ってくる日はいつもよりそわそわとして落ち着きがない。外で車が止まる音がするとたま子は障子を開けて頬を緩ませた。


「ああ、孫たちが来た! あんなに大きくなってなぁ! 五郎は隠れていた方がいいかもしんねぞ。孫たちは息子たちよりやんちゃだからな。お前を見たら捕まえたくなるにちがいねぇ」


 私はたま子の言う通り、彼女の孫たちに見つからないよう障子の影に身をひそめていた。その間は高く幼い声とたま子の声が楽しそうに遊ぶのを聴いた。思い返せばあの時が一番にぎやかだった。

 しかし、不幸なことにたま子は息子たちの最期も見送らなければならない運命だった。二人の息子は時をおかずに病に倒れた。そして黒い額に入った写真となってたま子の元へと戻って来た。笑顔で並ぶ子どもたちの写真は中年男性と言えど逝くにはまだ若々しい。たま子はリーンと5度鳴らし、ため息をつく。


「息子たちが先立っちまったら私のは誰が鳴らすんだよなぁ? なぁ、五郎」


 たま子はそんなことをこぼすようになった。そして現在、たま子の元を訪れるのは孫一家だけだった。まだ若いこの孫は長男の息子で責任感が強い。だから時折、たま子の様子を見に家族を連れてやってくる。一人で来ないのはたま子と二人きりでいても間がもたないからだろう。

「ほら潤太、おばあちゃんのところに行きな」

 孫の声の後にたま子の柔らかな声が響く。

「潤太くん、おおばあちゃんと『のんのんさん』しようか」

「うん」

 ひ孫は聞きなれない言葉に興味を持ったのか、大きな声で返事をした。二つの足音が床を伝い壁を伝って私に振動する。その奥では今日の夕飯はどこに食べに行くだの、明日は朝が早いだのそんな話し声が聞こえていた。


 ひ孫がたま子に慣れた頃、いつも孫一家は帰り支度を始める。

「じゃあね、おばあちゃん。また来るから。困ったらいつでも電話してよ」

「ありがとう」

 たま子は孫一家を見送りに外へ出た。

「バイバイ、おおばあちゃん!」

 窓を開けて手をブンブン振るひ孫に、たま子は曲がった腰を伸ばして笑いながら手を振り返す。たま子は車が見えなくなるまでずっと手を振っていた。


 たま子が家に戻ると間もなく「リーンリーンリーンリーンリーン」と鳴る。再び静けさが戻った家に響く音は普段よりも大きく聞こえた。たま子はきっと私の元にも来るのだろう。しばらくすると予想通りたま子は障子を開けた。


「五郎、潤太くんに捕まらなくて良かったね。蛾でもよってくるようにここの明かりはつけておいてやろうね」

 たま子はそうやって時々、明かりをつけガラス戸を少し開けておいてくれる。そうすると私は満足がいくほど獲物を捕まえることができた。それはいつもと何ら変わらないたま子の優しさだった。


 しかし、それからたま子が障子を開けることはなくなった。ガラス戸も開いたまま朝夕聞こえる仏壇のリーンという音も聞こえない。障子の穴をのぞくと薄暗い中に布団が一式目に入った。その掛け布団は中心が小さく膨らんでいる。穴から部屋へと入り布団にのぼると中ではたま子が目をつぶっていた。白いまつ毛も乾いた口元も微動だにしない。


「たま子」

 それは低く、老齢の男の声だった。その声が自分の奥底から響く。自分が話をできるなど思ってもみなかったが、目の前で動かないたま子の姿を見て自然と声が出ていたのだ。


 名を呼ばれたたま子のまぶたがピクリと動き、薄く目を開けた。

「五郎か」

 たま子が小さな声で言った。

「驚かないのか」

 その問いかけにたま子はしわくちゃの顔で笑った。きっとろくな食事もとっていないのだろう。たま子の顔は頬がこけやせ細っている。

「見ての通り死に際だ。驚くことなんてない」

「孫に連絡して来てもらえばいいだろ。歩けないなら私がなんとかしてやる」

 するとたま子は枕の上で首を振った。

「いい、いい。わしはここがいいんだよ」

 皺の中から覗く灰色の瞳には、大きな目のついた平たい顔が映っている。


「それにしてもなぁ、五郎が来てくれるなんてなぁ。思いが通じたみたいで嬉しいわなぁ」

「なんだ。それは」

 たま子は障子を指さした。

「布団の中からお前さんの姿が見えていたんだよ。開けた窓からいつ出ていくだろうと思ってなぁ。でも明るくなるとお前さんの影が障子に映し出されるのが嬉しくて……そりゃあすごくきれいだったよ」

 たま子の瞳は少女のようにキラキラと輝いていた。たま子は昔から何も変わっていない。

「俺はこの家の家守だ。出ていくわけがない。それにきれいっていうのはヤモリに使う言葉じゃないだろ」

「照れているのか?」

 くすくすとかすれた笑い声が静かな家に響く。しかし笑い声はため息とともに消えていく。たま子は古びた木目の天井を見た。この年輪の刻まれた木材をたま子はどんな思いで見上げてきたのだろうか。


「この家をずっと守ってくれたお前さんには礼を言わなきゃいけないな」

「礼なんていい。だがひとつ叶えてほしいことがある」

 たま子は「なんだい?」と聞いた。

「たま子の手に乗せてくれないか?」

 長い間ずっと近くにいたのに、たま子に触れたことがない。私はその温かな色をした彼女の肌に触れてみたかった。


 たま子はゆっくりと布団から手を出す。その手はゴツゴツとして皺だらけだった。ぺたぺたと手に乗るとそこは日差しで温まった窓辺のようにほんのりと温かい。

「五郎は冷たくて気持ちがいいなぁ。わしがいなくなったらこの家もどうなるかわかんねぇ。五郎には悪いことしちまうな」

「死に際の人間が、たかがヤモリ1匹を心配するなんて他に気にすることがあるだろ」

 たま子は少し間を置いてポツリと言う。

「それが、もうないんだわ」


 たま子の手のひらに顔を置くと、手の血管を通る血の流れが少しずつ遅くなり、その時が近づいているのを感じた。白い手には青い筋が鮮やかに浮かび、複雑な模様を形作る。

「たま子の手はきれいだ」

「こんなばあさんの手がか? 嘘でもうれしいもんだ」

「嘘じゃない。たま子の目も髪も、そして心もとてもきれいだ」


 たま子は恥ずかしそうに私を見た。私もしっかりとその目でたま子のことを見る。やはりたま子は何よりきれいだった。ガラス戸の向こう側に見えた、まばゆく光る朝露もこぼれおちそうな星空も、色とりどりの花々だってたま子には及ばない。たま子は私のすべてだった。


「私がこの家を守り続けたのは、お前さんが最期を迎えるその時に一緒にいてやりたかったからだ」


 たま子の瞳から透明な涙があふれた。涙は深い皺の中を穏やかな川がなれるように静かに落ちていく。

「そうか……ありがとうな、五郎」

 そう言うとたま子は涙を拭かず、そのまま目を閉じた。


 そうして、たま子はやっと家族に会いにいけたのだった。台所ではけたたましく電話が鳴っている。でももうそれを取る者はいない。私はたま子の温かい手のひらでゆっくりと眠りに落ちていた。




「パパ、五郎がいた! おおばあちゃんと眠っているよ」

 潤太は曾祖母の手のひらに1匹のヤモリを見つけた。そのヤモリはもう動くことはない。電話に出ない祖母を心配してやってきた孫夫婦は言葉を失った。

 

リーンリーン リーンリーンリーン リンリーン


 家の中を高く澄んだ音が鳴り響く。潤太は仏壇の前に座り、小さな手を合わせていた。

「潤太、何しているんだ?」

「『のんのんさん』だよ。こうすると大事な人が喜んでくれるんだって。おおばあちゃん寝てるから僕が代わりにしてあげたの」 

 潤太は褒めてもらえると思ったのか得意げだった。

「そうだな、おおばあちゃんとっても嬉しそうだ」

「うん、それになんだか……きれいね」

 

 頬に涙の筋が残るその亡骸は、手のひらのヤモリに向かって幸せそうに微笑みかけていた。


 




お読み頂きありがとうございます。


仏壇にお参りするのを「のんのんさんしようね」ってうちの母が小さな子どもに対してよく使うので普通だと思っていましたがどこかの方言なんですかね。一応調べてみたら地方によって様々みたいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 私が異常にヤモリが好きすぎるっていうのもあるんですけど、五郎みたいなヤモリとともにあんな風に暮らせたらと夢見てしまいます。 ヤモリが「きれい」だっていうの二とても共感したりして。 でも実際は…
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