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保管庫

錆びついた約定

作者:  

「血を啜る。其れは紅く甘く芳醇であろうか。斯くあればよいと願っている。娯楽としての価値をも尽きていたのなら、この形だけの背徳はさぞや不毛に感じられたことだろう。否、私ではない。啜っているのは彼だ。啜られている血は、私のものか? いいや、彼から与えられた、私の中を流れる、彼の血だ。すなわち其れは私のモノとなった瞬間など無い異物であった。では私の口内を侵す生臭く粘性のある液体は何であったか? ――血だ。私もまた生き血を啜っている。望みもせず与えられるままに。唯、吐きだす為だけに。幾度も、幾度も、数え切れない程に繰り返す。無意味な循環を、何十年もの間、或いはほんの刹那。時が狂い、記憶が狂い、感覚が狂い、未だ思考だけはこうして生きている。辛うじて。私の知らぬ間に私自身が狂っているのでなければ、だが。何故、不必要なものを求めるのか。彼に尋ねたところで答えが返ったことがない。何故、人からかけ離れた身で人のような気まぐれをする。真似事のつもりならば質が悪い。何故、毒にも薬にもならない小娘を囲いつづけるのか。疑問だけが延々と空回る。この関係を続ける理由は分からない。代わりにこの関係を始めた理由を問えば、唸るように低く忘れたと返ってきた。たった其れだけだ。簡素にすぎる其の答えが、彼にとっての私の存在を端的に表していた。あれは何時頃のことであったか。数年か或いは数十年前のやり取りであったろうか。解答は私の記憶には端からなく、つまり重要なことではなかったのであろう。今となっては。恐らくかつても。血を啜り合う。無意味な体液の交換を繰り返す。互いに何の糧にもならない不毛な行為を、まるで神聖な儀式かのように際限無く。堕落する。私を構成する一部、或いは彼を構成する一部を、互いに巡らせ合う。何方が望んだのか、望んですらいなかったのか。始まりを忘れた循環は終わりをもまた知らず、唯、繰り返す。飽きもせず拍動を続ける心臓が、際限無く送り出す血潮を、絶え間無く飲み交わしていたのだ。其れは恐らくとても永い間。気の遠くなる程のという比喩が陳腐に感じられる程には。事実として私は気の遠さなど味わったことがなく、彼もまたそうであったことを明確に断じられる。我々は常に確たる意識を保って互いの血を啜り続けていたのだから。その理由は定かでなくとも。けれども循環の終わりは、存外呆気なく、予期せずして訪れた。何十年、何百年と囚われた果てのことを、呆気ないと称しても構わないのなら。……すまない。聞いての通り、私の記憶は酷い有様なんだ。最早、私が私なのか彼なのか彼でも私でもないのか私にも分からない。私の意識と記憶とその他諸々は、明瞭な境界線を失って混沌としている。それでも私が、私という個体が存在していることは、未だ知覚しているんだ。知覚してしまうんだ。私はまた繰り返しているのか。未だ繰り返しているのか。彼はこうして期日を待っていたのか。待っていたのは私だ。そうだろうか。――いや、すまない。もう一度、語り直させてくれ。語り続けていなければ、私は語ることをも失くしてしまいそうなんだ。手の届くところにあるものを、今のうちに、極力引き上げておきたいと思うのだが、如何にも上手くいかない。再び胸に収めることはできないと分かってはいるのだが。何故だろう。何故、彼は私を囲ったのだろう。やはり私は未だ私であるようだ。少なくとも彼ではない。彼であるならばこんなにも無様にうだうだと一つ事を考え続けることはなかっただろう。彼の思考は何時も明瞭であった。目の前のものだけを見つめていた。或いは目の前のものすらも見つめていなかった。過去と現在と未来の全てを。或いは何れでもなく私には想像もつかないような時の狭間を。彼は見つめていたのだ。私は彼だけを見つめていた。過去と現在と未来の彼だけを見つめることを許されていた。強制されたわけではなく其れしかなかったのだ。同様に少なくとも現世に於いて彼には私だけがあった筈だが、彼は私を見つめ返しはしなかった。彼の目に映っていたのが何であったか今の私は知っている。知っている筈なのだが分からない。今やこの身の内にこそ答えはあるというのに、だ。私が彼ではないが為に理解できない。そうだ、私は彼であって彼でない。語らせてくれ。語り続けさせてくれ。私は黙ることが恐ろしい。沈黙ではなく静寂ではなく黙った後の己が恐ろしくて仕方ないのだ。君が今この場にいることは私にとって誠に僥倖であった。君の為に私はこうして語り続けることができるのだから。しかしやはり私は語り部には向かないな。昔はそうでもなかったのだが。昔といっても遠い昔のそのまた前のことであるから、君にとっては無いも同然の過去のことだがね。辛うじて失われてはおらぬ。其れも何時までか。さあもう少し無意味に語ろう。無意味な行為を繰り返そう。無意味な生を。死を。心が生きていけなくとも鼓動が止まぬことの矛盾について。何れ終わりくることによってのみ成り立つ生に永続性を望むことの背理について。図らずも背理を超越した存在が背負うべき咎について。取るに足らぬ只人の身で傷を抉り合おうと望む愚かさについて。私は無を恐れ無を欲している。無に焦がれている。焦がれた無に飲まれ無を感じられなくなることを恐れている。私は私自身が無となることを望んではいなかったのだよ……。吸血鬼という生き物は難儀な生を負っていた。彼らは血を啜ることで生を得る。彼らは血を介して生を得続ける。そうだ、文字通りに。そのものの生命を。そのものの知識を。そのものの経験を。まさしくそのものの人生、人格、あらゆる組成物を全て奪いさる。少しずつ、少しずつ、啜り上げる度に。彼らは生を繋ぐ為に生を奪う。奪った生を己の糧とする。彼らは日々、少しずつ死に、少しずつ蘇る。夜毎、彼らは血を啜り、血に侵される。彼は其れを恐れていた。恐れていたことがあったと私に語った。ああいや語りはしなかったのかな。少なくとも彼の口は私に対して頑なに語ろうとしなかっただろう。容易に想像できる。語ったのは口でも目でも手指でもなく、そうさな、言うなれば牙と血だ。私は彼と交わる度に彼を知った。彼と交わった私が私の元に還る度に。深く、深く、言葉よりも瞳よりも仕草よりも明瞭に歪みなく彼を知り、その度に彼は変わっていた。私の知る彼は幾度も死に、幾度も生まれ、けれども彼で在り続けていた。つまるところ我々の交わりは一つの実験であったのだ。彼は流転の器として不変の生を重ねることに飽いていた。彼が私を選んだことに特別の理由は無いのだろう。構わぬ。始まりなどは適当でよいのだ。終わらせることに比べれば容易く他愛のないことばかりなのだから。続けずとも終わらぬ。吸血鬼の生とは流転と停滞の狭間にある。万物の流転の中にあって、其の生の何と業深いことだろう。彼は溶けた。我が中に。或いは彼自身の中に。気の遠くなるような時をかけて、確たる意思を保ったままに、彼は少しずつ己を殺していったのだ。私を利用して。彼にとって私は生の提供者であり同時に死の使者であった。ところが如何だろう。私には彼が本願を叶えたようには到底思えぬのだ。私の見た終わりは果たして誠に終わりであったのだろうか。先触れも無く訪れた刹那。彼は朝陽に灼かれたかの如く灰となり、器としての輪郭を失った。私は確かに其れを見届けた。しかし終わりとは時として複数か或いは一つすらも存在しない不確かなものだ。一つ所に収束すべき真実たる始まりとは似て非なるもの。私にはあれこそが一つの始まりに思えてならない――嗚呼そうだ彼は生きている! 私は其れを言いたかったのだ。君に伝えたかったのだ。今再び死にいこうとしているのは彼ではなく私なのだと。私は私の見た終わりについて語りたいのだとばかり思っていたがそうではなかった。私が見たものは始まりなのだ。そしてこれから訪れようとしているものこそが私にとっては終わりなのだ。或いは其れもまた始まりと言えるのやもしれぬ。しかし悲しいかな私には再び始まりを目にすることは叶わない。代わりに君にその僥倖をやろう。このくだらない茶番じみた私の語りに付き合ってくれた謝礼とも、謝罪とも。或いは私からの餞別。餞。いや、何方も違うな。置き土産。遺物。遺産。まあ良い好きに受け取ってくれたまえ、そういうものとして君にやろう。成る程吸血鬼というものは、斯くも難儀な生を負っているのか。笑ってやってくれ。これだけの策を弄しながらも自然な死をまたしても逃した哀れな老翁を。心ばかりが老い、身体のみは永遠に若々しい老翁を。私の代わりに新たなる私自身の生を。皮肉な門出を。嘲笑ってくれ。私はたった其れだけを伝える為に君を招いたのだよ。今日、此処へ。私が彼と永遠に近い年月を過ごした館へ。この生と死の唯一の証人として。生きるがいい。限られた生を。矛盾に塗れた年月を。そして願わくは語り継いでくれ。永久でなくていい。限られた短き歳月でいい。君自身が其れを意識する必要は無い。君は唯、君が持つ時の有限性を在るがままに享受し全うしてさえくれれば良いのだ。其れこそが私が手離し、彼が焦がれ、漸く私の元に帰ろうとしているものに相違ないのだから。さらばだ少年よ。私の生に於いて。彼にとっては短く私にとっては永い永いこの生に於いて。今こうして終わりを知ることで漸く生と定義することのできる有限なる我が時に於いて。君と過ごした微々たる時は中々に悪くはないものであった。君に感謝と、そして哀れな彼に陳謝を捧げて、私は世を去るとしよう。一足先に逝って待っている。君は遠くない将来――勿論私にとってであり君にとっては遠い将来のことであることを願っているがね――私と再会を果たすこともできるだろうが、彼は如何であろうか。私の待ち人は恐らく永劫訪れることがないだろうが、まあ待てるだけ待ってみるさ。待ち人がいるとなったら、この見てくれだけは若い老翁も幾らか奮起してくれるかもわからないからな。尤もやはり私の願いは叶いそうにないが、まあ待つのは嫌いじゃない。待たされるのは嫌いだがね。望んで待つ時間は、そうした間だけは、たった一つの目的の為に全てを忘れていられるから。そう嫌いではないのだよ――。また会おう。君の儚くも尊い生が終わりを迎えた時に。また逢おう。私の死と彼の再生を見届けた先の、できる限り遠い未来に。君の訪れを待っている。そして語ってくれ。次は君が、君の見たもののことを。私は其れを楽しみに待つことにしよう。恐らく未来永劫、私の元へ追いつきはしないだろう待ち人の代わりに。嗚呼、鉄錆の味がする――懐かしき芳醇なる香りと味わいよ――我が身の内を流るる血潮は今尚、私と或いは彼人と名付け得るものであろうか。最期に、傲慢に私を使い捨てた身勝手な待ち人へ、呪いじみた誓いを刻み遺したい。私からの遺言だとでも伝えてくれ。待っている。彼には永劫辿り着けぬ輪廻の果てにて、私は永劫待ち続ける心算だと。伝えてくれ。果たされる目処の無いものであったとして知ったことではない。この期に於いても私は未だ、気まぐれに拾われた昔のまま錆びついた約定に囚われているのだと――。伝えてやってくれ。親愛なる悠久の旅人に。生と死の狭間を歩み続ける孤独な我が主に。私は死して尚も全てを捧げ続けるのだと。時に捕まった愚者の戯言として」

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