踏み出した一歩
卒業アルバムの写真の下に書かれた"藤崎達央"の文字を指でそっとなぞる。カメラを向けられるのに慣れていないのか、写真の中の藤崎はぎこちなく笑っている。この頃はもう野球部を引退していて髪が少し伸び始めているけれど、記憶には残っている坊主頭姿を懐かしく思い出した。
中学の卒業式の日。二人で帰った最後の日。あの時に言えなかった言葉は、閉じ込められたままもうすぐ半年が過ぎる。
本当はこうなるはずじゃなかった。
藤崎とは小学校から9年間ほぼ毎日登下校を共にして、きっと友達の誰よりも一番近くにいた。ただでさえカッコいいのにその上優しくしておいて、好きになるななんてそんなの無理だ。だから自分の恋心を自覚するまでそう長くはかからなかった。そして中学を卒業するのを節目に恋人になるんだ、って。……藤崎も同じだと思ってた。本当は両想いで、気まずくなるのが怖くて言葉にできないだけなんだと思ってた。
けれど現実はそんなに甘くなくて、そう思っていたのは私だけだった。私の勝手な妄想だった。
『ほら、一緒に帰ってると勘違いされるだろ。……お互い好きでもないのに、付き合ってるとか思われたりしてさ』
卒業式からの帰り道、不意に投げかけられた藤崎の言葉に、告白をしようなんていう私の甘い想像は消え去った。今でも耳に残っている。言い出しづらそうな、気まずそうな、申し訳なさそうな藤崎の声。自惚れた私への罰だったんだと思う。
「早く言ってくれれば良かったのに……」
鬱陶しいんだ、って。煩わしいんだ、って。そうしたら恋人になりたいなんて図々しいことを思わずに、家が近いだけのただの幼馴染みでちゃんと我慢できたのに。
あの日、家に帰ってからはそれまで堪えていた涙が止まらなくて、けれど嗚咽混じりに藤崎を責めるように呟いてみたところで現実は何も変わらない。……ただの幼馴染みで我慢したなんて、そんなの嘘だ。
失恋してからやっと自分の気持ちの重さを思い知る。陳腐なセリフだけれど、でも本当にこんなに好きだったなんて知らなかった。
だって私にとっては隣にいるのが当たり前の存在で、きっと勝手に恋人のように思っていた。そう、勝手に。
「おはよ、佐伯」
「……」
「無視かよー。冷たいなー佐伯は。前はもっと可愛かったのになー」
学校に着き靴を履き替えていると、顔を覗き込むように話しかけられた。
顔を見るたびに辛くなる私の気持ちにはお構い無しで、待ち伏せしているかのように毎日絡んでくるこいつは何だ。着崩した制服もパーマのかかった茶髪も間延びした喋り方も、全部私の知ってる藤崎じゃない。チャラチャラしていて嫌だ。……そう思っているはずなのに、話しかけられる度に速まる鼓動は何なんだ。姿を見かけるだけで胸が締まるのは何なんだ。
「……藤崎」
何かを考えるよりも先に名前を呼んでいた。
分かり切っていることから目を逸らすのは終わりにしよう。
もう逃げない。
見た目が変わっても本当は全然変わっていない藤崎が好きで、中学の頃よりもきっともっと好きになっていて。もう周りの誰も見えなくなるくらい藤崎に惹かれている。
諦められないことはこの半年で思い知った。
(何もしないままで初恋を終わらせてたまるか)
「……久しぶりに一緒に帰ってもいい?」
藤崎の方は見ず、何気ないように呟いた、つもり。
力強く決意した心の中とは正反対に、私が発した声は小さく、いつの間にか手も冷たくなって震えている。
「え……」
困った顔をしているんだろうなぁ、なんて。顔を上げて見るまでもなく、声色だけで容易に想像できる。
「別に嫌だったらいいんだ。忘れて」
そう口早に言い捨てながら歩き始めた。
好きになってほしいからもっと距離を縮めたい。ずっとそばにいたい。でも鬱陶しいって嫌われるのは嫌。恋愛というものは矛盾だらけだ。
「嫌じゃない」
何もなかったかのようにして通り過ぎようと思ったのに、痛いくらいに手首を掴まれてそうもいかない。
「その……。あまりに想定外で驚いたっていうか……」
私とは目を合わせようともせず、ぶつぶつと何かを小声で呟いている。
振り向けば言い訳し出すし、耳は真っ赤だし、恥ずかしそうに頭掻くし。……また勘違いしそうになる。
「じゃあ放課後に下駄箱でね」
女の子を口説いているときとは一転した様子の藤崎に、耐え切れなくなったのは私。
「分かった!!」
再び歩き始めると珍しくテンパっている藤崎の声が追いかけてきた。
……もう逃がさないよ、達央。