あの時残したはじめの一歩
「凛ちゃん、今日の放課後暇? 俺と一緒に遊ばない?」
「えー、どーしよっかなー。藤崎くん、それ女の子みんなに言ってるでしょ」
「そんなことないよー。……俺が一緒にいたいのは凛ちゃんだけだって」
「ふふっ、本当にー?」
教室のざわめきの中で聞こえてくる馬鹿みたいに甘ったるい会話。恐らくそれは私の右斜め後ろで交わされていて、相手を変えつつもう何度も同じ内容を聞かされている。そしてどうして私の耳はあの声だけ聞き逃せないんだ、と毎回思う。気を紛らわすために勉強をしようと思ったところで、目の前にある数式を眺めているまま一向に進まない。気づけば頭の中は藤崎のことで埋め尽くされてしまうのだ。
すると、ただ広げられているだけで意味を成していない私の数学の問題集に影が落ちた。
「またやってるねー、藤崎くん」
明らかに藤崎の様子を眺めて楽しんでいる声色の綾里の言う通り、1組である筈の藤崎は昼休みになると毎日飽きもせずはるばる5組までやってきて女の子を口説いている。一体何がしたいのか私には全く理解できないし、ただの嫌がらせなんじゃないかとも思う。
「それで? 佐伯優希様はどうなさるのでしょうか?」
言いながら前の席の椅子を後ろ向きにして私に向かい合ってくる。真っ白なノートを見られないようにさりげなく問題集をずらした。
「どうもこうもないでしょう」
そう顔を上げながら答えると覗き込むように視線を合わせてきて、その焦げ茶色の澄んだ瞳は心の中まで見透かされている気がして少し居心地が悪い。綾里が軽く首を傾げると、手入れの行き届いた長い髪が揺れて甘い香りを漂わせる。
「同中で小学校も一緒で家も近い。幼馴染みとの恋なんて少女漫画のテンプレよ。しかもあんなイケメンで文武両道。狙わない意味が分からない。羨ましすぎる」
「なら綾里が狙えば? どーせすぐ落ちると思うよ」
あと藤崎はイケメンで文武両道なだけじゃなく、声が良くてしかも結構優しい、というのは心の中で付け足す。奴のスペックの高さはわざわざ言われるまでもなく十分知っている。それに目つきが悪いとよく言われる私からすれば、綾里の綺麗な二重の方がよっぽど羨ましい。
「そんなこと言ってると本当に狙っちゃうよ?」
「どーぞどーぞ。……って私が許可を出すことでもないでしょう」
問題集に視線を落として答える。綾里がどんな表情をしたかなんて分からないし、興味も湧かない。
(あんなチャラ男さっさと消え去ればいいのに)
何度目か分からない台詞を心の中で呟けば、大好きな声が私を呼ぶ。
「なぁなぁ、佐伯ー。俺のために凛ちゃんを説得してくれよ。俺が誠実な男ってこと証言してくれ」
くるりと振り向けば私の予想通り藤崎は右斜め後ろにいた。
「どの口がほざいてんのー? 藤崎に誠実な付き合いなんて無理でしょうが」
最近になってやっと見慣れてきたゆるいパーマのかかっている茶髪を、探すまでもなく視界に捉える。
「なんでだよ。俺は一途なんだかんな」
不貞腐れたように言われて、その一途になっている相手は誰なんだろうと真面目に考えようとしてしまった。
「毎日のように相手を変えて口説いてる奴の言うことじゃないから。……凛ちゃん、そんな奴真面目に相手することないからね」
いつも通り。……のはずだった。
「藤崎くんは優希と付き合う気ないの?」
突然後ろから投げかけられた綾里の質問に、思わず反応しそうになる。私はきちんと平静を保てていただろうか。そう自分に問い掛けながらも、藤崎の答えを待って呼吸が止まりそうになっていた。答えは分かっている。分かっていたから藤崎の方は見ないようにした。
「俺達が恋人は無理だろー。な、佐伯?」
笑い声とともに同意を求められる。分かっていたはずなのに、懲りもせず何かを期待した私は本当にバカだ。
「当たり前でしょー。あんたみたいなチャラ男、こっちが願い下げだっつの」
表情を強張らせずに言い切る自信がなかったから、顔は逸らしたままに答えた。
もう何度目かなんて分からない。それでも辛いのは相変わらずで、一体いつになったら慣れるのか、平然と笑い飛ばせるようになるのか、誰か私に教えてほしい。