そして繰り返す
「けど、これからどうする? 一応、世間一般には今日夏休み最終日みたいだし、教室に居てもしょうがないと思うんだよね」
口元に手を当てながら、どうしたものかと困惑した様子で眉尻を下げる紫雨。
時折、窓の外から運動部のものらしき掛け声が耳に入ってくる。
どうやら部活をやっているのだろう、夏休みならばよくある光景だ。
「だよねー、外で普通に部活やってるし、先生も多分教室来ないよね。ってか、ずっと教室に居たら見回りの先生に怒られそうな気がするし」
う~ん、と小さく唸りながら窓の外をチラリと一瞥する雫結。
彼女の意見の尤もだと同意しつつ、これからどうするべきか誰しもが考えあぐねているようであった。
不意に教室を包み込む静寂。
暫く沈黙が辺りを支配していたが、突如ポツリと放たれた玖音の声が静寂を打ち破った。
「……明日は、どうなるのかしら?」
「え…?」
「31日が終われば次には1日がやってくる。…まぁ、本来1日の筈なのに今日は32日だけれど…。けれど、32日が終われば次は何日がやってくるのかしら?」
玖音の言葉に括目していた一同は、まさに世界の理と言っても過言ではない当たり前すぎて見失ってしまいそうな一つの真実にハッと目を見開く。
──そうだ、何をこんな単純な事に気づけなかったのだろう、自分は。
「あ、そういやそうだよね。もしかして、フツーに明日は9月1日になるかも! もーくーちゃんあったまいい~!」
「頭良いというか…冷静に考えれば至極当然、当たり前の事よ」
きゃっきゃとはしゃぎながら玖音を褒めちぎる雫結に、相変わらず冷めた口調で切り捨てるものの雫結にべた褒めされて満更でもない様子の玖音。
一方、紫雨といえば若干肩すかしを食らったような、何処か拍子抜けしたような表情を浮かべると、
「なーんだ、考えてみれば全然大した事無かったね。つまんなーい」
「…何勝手に楽しんでんだてめぇは。ったく、ふざけた真似しやがって冗談じゃねぇ」
飛鷺は吐き捨てるようにそう呟くと、不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せながらそっぽを向いてしまった。
そもそも、32日という有り得ない日が訪れている時点で大した事は大ありなのだが、そこはあえて追究しない事にしておこう。
「良かった~、これで来週発売のゲームも買えるね!」
「…喜ぶ所そこなの? 他に色々あるでしょうに」
「え? あー…あとは9月に好きな作家さんの新刊が…!」
「もういいわ。聞いた私が馬鹿だった」
ぐっと握り拳を作りながら顔を輝かせる雫結の発言を心底冷めきった眼差しで聞きつつ、最後は呆れきった溜息を零す玖音。
「じゃあ、此処にもう用は無いわね。雫結、帰りましょう」
「そうだね。…あ、くーちゃん帰りにファミレス寄ってこ!」
「ええ、分かったわ。…璃月君と雪凪君も、また明日」
「うんっ、2人共じゃあね~」
雫結と玖音は飛鷺、紫雨に軽く会釈をしてから教室を立ち去って行った。
後に残されたのは飛鷺と紫雨ばかり。紫雨は猫のようにぐっと伸びをしてから、飛鷺に向き直った。
「うんにゃ~、何か大した事してないけど疲れちゃったね。僕達もかえろっか。…あ、帰りにどっか寄ってかない?」
「俺はいい」
「何でさ~いいじゃん別に。今家帰ったって多分碌な事無いし」
「……、しょうがねぇな。何処行くんだよ」
「わぁいやったー! ん~どうしよっかなぁ…」
紫雨は一瞬にしてパッと花が咲いたように顔色を明るくすれば、飛鷺の腕を引いて足取りも軽く教室をさっさと出て行く。
わいわいとはしゃぐ紫雨を尻目に、飛鷺の胸の内を支配するのは得体の知れない焦燥感。
──本当にこれで終わりなのか? こんなあっけない幕切れなのか…?
「……? 飛鷺、どーしたの? 何か顔色悪いよ?」
「…別に何でもねぇよ」
いつの間にか思考の深淵に呑み込まれていたが、紫雨の心配そうな声に漸く我に帰れたらしい飛鷺。
煩いくらいの蝉の鳴き声を背中に受けつつ、2人は学び舎を後にした。
◆◇◆
遠くからセットしたアラームの音が聞こえる。
一度のアラームでは目を覚まさなかったらしく、何度目かのスヌーズ機能で漸く気怠そうに瞼を押し上げる。
手を伸ばしてベッドの傍に置いた携帯のボタンを押しアラームを消去。
それから程なくしてもぞもぞと身動ぎしてからゆっくりと上体を起こした。
ふとカーテンを開ければ窓から差し込んでくるのはうんざりしそうなくらいの強烈な日差し。
まだ7時代だというのに太陽は張り切って地上にぎらついた日差しを注ぎ込み、外だけでなく室内の気温までじりじり押し上げていきそうだ。
じわじわと吹き出してくる汗を拭いつつ、手早く制服に着替えてから鞄を乱暴に拾い上げた。
携帯のディスプレイに映し出されているであろう今日の日付はまだ見ていない。
早く確認しなければ、という気持ちともし望み通りの現実を手に入れられなかったら…という気持ちが錯綜して判断を鈍らせているのだろう。
雑念を全て頭の奥へ押し込むと、無心で家の階段を駆け下りていく。
日付なんかわざわざ確認しなくていい…どうせ階段を下りて居間へ通りがかれば、叔母と従弟がいつも通りの朝を迎えているに違いないのだから。
そしていつも通り自分の存在に気づくと疎ましい眼差しを向けてくる。そうに違いない。
飛鷺はそう確信すると、居間やキッチンへと続く廊下を無表情のまま通り過ぎようとした。
「何あんた、もう起きてたの? 相変わらず無愛想な子ね」
扉が開けっ放しになったリビングの向こうから、叔母の嫌味たっぷりの声が飛来する。
そういえば、昨日も同じような言葉を浴びせられたような気がする。
けれど叔母からの嫌味攻撃など飛鷺には日常茶飯事なのか、特に気にする素振りも無くそのまま無言で歩を進めようとする。
いつも通りの叔母の嫌味。どうか、いつも通りの日常に戻らん事を…。
人知れず心の中でそう祈りながら洗面所に向かおうとした飛鷺に、さらなる叔母の襲撃がやってくる。
「何よあんたその格好。学校でも行くつもり?」
──ドクン。
飛鷺の心臓が、大きく脈打つ。
それは彼自身の動揺を表しているのか、彼の胸中に迫り来るは言いようのない焦燥感。
動悸が激しくなるのを感じつつ、それでも何とか平静を保とうと努めながらそっけなく口を開く。
「当たり前だろ。新学期に学校行くのはよ」
「あははっ、本当あんた馬鹿ねぇ。今日は8月32日に決まってるじゃない」
「──!」
叔母の声が耳に入った刹那、飛鷺の背中を何かがゾクリと通り抜けていくのを感じた。
まるでナイフの切っ先でも突き付けられるようで。
狂った時間は今日も繰り返すというのか。
メビウスの輪のように、進んでも進んでも元の道へ戻されるというのか。
飛鷺の心に恐怖を植え付けられたのは、再び同じ日を繰り返しているという事実だけでは無かった。
彼は確かに、先程からの叔母の言葉に聞き覚えを感じていたからだ。
──コイツ…昨日も同じ事言ってたじゃねぇか。自分の言葉覚えてねぇのか?
──バカみてぇに同じ言葉繰り返して、頭おかしいんじゃねぇのか? 壊れたロボットかよコイツ。
──今日も…明日も明後日も、コイツら同じ事言い続けて何の疑問も持たねぇのか?
──どうなってやがる。気色悪いんだよコイツらもこの訳分かんねぇ状況も…!
様々な感情でぐちゃぐちゃになっているせいか、リビングで昨日と同じように繰り返される親子の会話などまるで飛鷺の耳には届かない。
──黙れ…黙れ黙れ黙れ。
「煩ぇんだよ黙れッ!」
心の中で膨れ上がった様々な感情が入り乱れ、飛鷺をヒステリックに叫ばせる。
一方、普段通りの会話をしていると信じて疑わない親子は飛鷺の怒鳴り声に気圧されたのか、訳が分からず呆然とするばかり。
「何なのよアンタ、何様のつもり!?」
飛鷺に怒鳴られた事で苛立ちを覚えたのか、ガタンとヒステリックに立ち上がると鬼のような形相で怒鳴り返す叔母。
しかし、それでも飛鷺の耳には届かない。
この異質な歪んだ空間から逃げ出したくて、飛鷺は無言で家から飛び出して行ってしまった。