海の向こう側②
翌朝、何事もなく起床時間に目覚めた。首をゆっくり横に回せば、天道が加賀美を蹴り起こしておる。如何やら、調子を取り戻した様だ。
反対側に目を遣れば、バッキーが未だ熟睡中のクリントに悪戯を仕掛けておるところを目撃。この光景も平和な証拠だと思い、再び視線を動かせば、他の者も銘々起き始めておる。ただ、スコットだけ見当たらん。
(あいつ、こんな時でも欠かせねぇのか。ご苦労なこった)
彼の事であるから、普段通り朝の鍛錬に勤しんでおるのであろうと推測。さりとて見習う気なんぞ、それ程ない。朝食は何であろうかと想像しながら、士は布団から這い出た。
(そういやぁ、あんま気にしてなかったけど、ここのスタッフたちは大丈夫なのか?)
安価品を薄めて広範囲に撒いたとはいえ、悪魔謹製のポーションで強制的に意識を奪ってしまったからな。生徒や教員達と同様、施設の従業員達の肉体や精神に何等かの悪影響が表出ておらんか些か心配である。
(まぁ、そのへんは沢渡さんたちが上手いことフォローしてくれてんだろ)
宿舎内外の全員が急に眠ってしまった事を神の所為にした故、後始末を始めとする諸々の作業は彼女達がやってくれた筈だ。何せ、沢渡達は神託を受けて此処に来たのであるから、それ位は職務の範疇であろう。
(クリントとスコットも多少の後片付けはしてたらしいし……いつかは分かんねぇけど。まぁ問題ねぇだろ。多分)
思考を終えた士はバッキーを注意し、クリントを叩き起こしてから部屋を出た。
(あー、なんかあいつらのせいで全然乗らねぇな)
折角の臨海学校であるというのに、あの魚人共の御蔭で気分は全く晴れぬ。だが、何時までも引き摺っておっては台無しだ。この憂鬱を払拭する為にも、今日は心行くまで楽しもう。そう思った矢先、とある一団に遭遇した士は、その異様な雰囲気に戦慄した。
(なっ……?! なんだ……っ!?)
現実には数人が目の前を通っただけであり、士も吃驚した程度で、少し誇張した表現にもなった。だが思わずそう感じてしまう程に、此方の気持ちまで下がってしまう様な空気をその者達は身に纏っておった。
「あぁ、補習組のヤツらだな。皆、酷い顔をしている」
暫し立ち尽くす士に、後ろからそう声が掛けられた。其方を振り向けば、タオルで髪の毛を拭いておる真っ最中のスコットが居った。
「補習ってだけであんな風になるか?」
「皆が遊んでいる最中、自分たちだけ勉強漬けにされているんだ。やつれもするさ。自業自得とはいえ、な」
「飯と風呂ん時ぐらいか。一息つけんのは」
彼等を見送りつつ、昨晩の事を振り返った士はこう感じた。
(俺らなんかより、あいつらの方がよっぽどしんどいだろ。ちゃんと勉強しよ)
これからも補習を受けずに済む様に、士はより一層勉学に励む事を誓った。
「まぁ、アイツらの分もオレたちが楽しみゃイイんだよ」
「そうそ。昨日のこともあるし、今日は思う存分あそぼうよ」
漸く脳が覚醒したクリントと、彼に頭を押さえ付けられておるバッキーも廊下に出て来て、二人にそう言った。その後方から、快調そうな天道と若干寝惚けておる加賀美も歩いて来る。
「今日は海に入れそうだ!」
「やめとけって。どうなっても知らねぇぞ」
「大丈夫だ! 体がそう主張している!」
好調になった天道が、数年振りに可能になったかも知れん海水浴に興奮しておる。
「本当に大丈夫なんだろうな? 溺れてるお前を助けに行くハメになんのだけはゴメンだぞ」
そんな彼の様子を見た加賀美がやんわりと忠告する。
(まぁ、元気になって何よりだ)
二人が交わす遣り取りに、士の心が安らいでいく。同時に少々呆けてしまい、知らぬ間に一人だけ出遅れ、皆は先を行っておった。
「オイ、朝礼に遅れるぞ」
五人の内、一番後ろを歩くスコットが此方を振り向き、早く来いと促す。これに遅刻すると、朝餉が抜きになりかねん為、士は急いで彼等の後を追った。
(これでやっと、心置きなく楽しめそうだ)
その言葉通り、士は誰にも邪魔される事なく、この臨海学校を最後まで満喫した。その中でも特に印象深かったのは、昨日とは違う種類の水着を着た女性陣の肢体を観賞できた事である。ふと思ったのだが、最近の女子は海水浴に水着を二着も持って来るのかね。男としては、異なる二つの魅力的な姿が見られて嬉しい限りであるが。
○●○●○
予定されておった全日程の滞在を終え、士達は帰路に就いた。
「よっ……と。ん?」
バスに乗り込み、昨夜の分まで寝ようかとボンヤリ考えながら、席に腰を下ろした。その時、マナーモードに設定しておいた携帯電話が震えた。車中である為、声を落としてそれに出る。聞こえてきたのは女性の声だ。
―『もう臨海学校は終わった?』―
相手は美咲であった。正に今、帰宅しようとしておったところに掛かってきた故、やや不気味に感じつつも士はその問いに答える。
「え、ええ、いま終わりましたよ」
―『そう、じゃあちょうど良かったわね。君、パスポート持ってる?』―
更なる質問の意図を図りかねたが、士は素直に『持っていない』と返す。
―『チッ、やっぱり持ってないか。となると一週間はかかるのねぇ……』―
舌打ちして、何かブツブツと独り言を呟いておる美咲。パスポートを要求されるという事は、海を渡ると解釈して良いのであろうか。そう推察しておると、彼女から要請があった。
―『なら帰って来たら……はさすがに無理か。じゃ明日申請して来なさい』―
かなり急ぎの用事らしい。僅かに残っておる疲労も明日になれば完全に消えておる筈なので、士も断る心算はない。ただ、せめて訳を知りたい。
「あのー、美咲さん……それは別にイイんですけど、なんでそんな急にパスポートが必要なんですか? 理由くらい教えてくださいよ」
―『えー? そんなの何となく察しなさいよ』―
「そんな無茶な……」
―『フン、まぁイイわ。カンの鈍い君に特別に教えてあげる』―
美咲は勿体振って、士にパスポートを取りに行かせる事由を告げる。
―『来週、アメリカに行くから』―
「へぇ、そうなんですか。気を付けてくださいね」
―『なに言ってんの。君も行くのよ』―
話の文脈から、そうであろう事は想像に難くなかった。
「なんで俺まで?」
―『あのねぇ、アメリカは日本なんか比べ物にならないくらい危険な国なのよ? そんな所に私みたいな魅力が溢れまくってる美女が行ったらどんな目に遭うか分かったモンじゃないわ。そうよね!?』―
強い口調で同意を求められ、その迫力に圧倒された士は肯定するしかなかった。
「は、はい……」
―『だから君はボディガード、動く壁として一緒に来なさい。以上』―
彼女から言い渡された理由は、想定の埒内であった。先の懸念も、美咲であればその様な状況に陥っても自分で何とかしそうな気もするが、それでも女性である。万が一の事があってはならん為、士は即答する。
「分かりました」
―『そう。まぁ当然よね。この私が自分から誘ってあげたんだから。普通ならむしろ君から土下座して一緒に来てくださいって頼み込むくらいのことしないと有り得ないわよ。それをワザワザこうして手ずから電話してあげてるんだから感謝しなさい』―
それから、士が一体どれだけ幸福なのかという事を長々と説明する美咲。事実その通りなので反論はせぬが、車内での長話はあまり歓迎されん。その為、適当なところで切り上げる。
「ハイハイありがとうございます。ところで、何しに行かれるんですか? 同行するんだから聞いといておきたいんですけど……」
―『旅行よ』―
食い気味に返された。何か大事な用でもあるのかと思えば、ただの観光目的か。
(いやでも……公務員の貴重な休暇を使っての海外旅行。それに俺を連れて行こうとしてる。しかもかなり強めに。これは……別の意味で誘われてる?!)
彼女からの招致をポジティブに受け止める士。この年頃の男子が、こういう志向の願望を抱くのは自然な事である。だが正直に言えば、此奴が期待しておる様な事態にはならんと思う。態々(わざわざ)、指摘はせぬが。
―『じゃパスポートが受領できたら連絡ちょうだい』―
「はい。一週間で出来るんですよね?」
―『ええ、そのくらいかかるわね。あ! 旅費の心配はしなくてイイから』―
「え?! あ、はい……分かりました」
―『じゃそういうことで』―
美咲はその言葉を最後に、一方的に通話を断った。士も電話を切り、無意識に窓の外に視線が向く。バスは既に動き出しており、景色が絶え間なく後方に流れておる。
「う~ん、タダで海外旅行か……」
車外の風景を呆然と眺め、士は独り言を漏らした。もう一つ付け加えると、それには美女が同伴する。これを上回る好条件はそうそうない。
「士クン、旅行に行くの?」
先程の会話を思い返しておると、隣に座っておる美輝がそう尋ねてきた。
「ああ、美咲さんとアメリカに行くんだ」
「へぇ、イイね! 楽しそう」
羨ましそうな声を上げる美輝。それを見て、士は勇気を出して彼女も誘う。
「なら光も来るか? 美咲さんなら快くイイって言ってくれると思うぞ」
だが、途中で致命的な過ちを犯してしまった事に気が付いた。もしも、美咲が自分を男として招いたのであれば、別の女性を伴っての旅行なんぞ許容する筈がない。美輝とて、愉快ではなかろう。ただ、これが士の独り善がりな妄想、甚だしい勘違いだと思わなくもないが。
「ありがとう。でも私、家の用事があるから」
しかし、それ等の推理は全部杞憂であった。
「用事?」
「うん、その……“あっち”関連の」
美輝は声量を下げ、魔術師として所用があるという事を暗に示した。音量を低くしたのも、あまり周囲に聞かれたくはない内容であるからだ。
「そうか。そりゃ残念だな」
士がそう言うと、美輝は『それが終わったらどこか遊びに行こうね』と社交辞令を述べ、通路を挟んで座っておる白木と風白との会話に加わった。男ならば誰もが憧れる両手に花の夢は潰えたが、仕方がない。また何れ、好機が訪れよう。
(そういやぁ、弾避けに俺を連れてくって言ってたけど、神城さんは行かねぇのかな?)
(それは無かろう。単純に壁をもう一枚増やしたかっただけでは?)
(まぁ、そういうことなんだろうな。さすがに二人っきりは無理か)
その様な状況、美咲本人は兎も角、神城が容認せぬであろうな。
(身の回りの世話はいつも通り神城さんがして、それ以外を俺にさせようってハラだろ。どうせ)
大方、荷物持ちや使い走りをさせる魂胆であろうよ。
(ま、タダで連れてってもらうんだし、そんぐらい当たり前だけどな。それに美人の御供だし、これ以上求めたらバチが当たるってモンだ。ただでさえ贅沢なんだから)
珍しく健気な事を思った士は、どんな場所に赴くのか、其処に何があるのか等を夢想し始めた。持参品や、持ち込んで良い物と駄目な物、それ等を持ち込む為に必要な措置等についても、把握しておる限りの知識の中で模索する。
(あ!)
その最中、とある考えに至った。
(スコットに返したアレ! もうイッペン借りらんねぇかな?)
多分、翻訳機能を有するイヤリングの事を言っておる。確かに、英語圏での活動に於いて、あのアイテムがあれば随分と助かるであろう。是非とも借り受けたい。
(彼なら頼めば貸してくれるのではないか?)
(だよな。じゃ早速……)
一旦は仕舞った携帯電話を再び手に取り、士はスコットに先述の件をメールに認めて送信した。電話だと周りに迷惑が掛かる故に。
「さっきの電話、女の人か?」
携帯電話をポケットに入れた瞬間、前の席に座っておる加賀美が上から身を乗り出してそう訊いてきた。
「ああ。バイト先の上司だよ」
厳密には違うが、説明が面倒なのでそういう事にしておく。
「こっちに来てまだ四ヶ月も経ってないのに、もう一緒に旅行に行く関係になったのか?」
「なんだよ、聞いてたのかよ」
「いや音が漏れまくってんだよ」
どうも電話の音量調整に誤りがあった様だ。
「わりぃ、うるさかったか?」
「いや、おもしれぇモンが聞けたからむしろ良かった」
加賀美はそう言ってニヤリと笑った。
「あーそうかい。それより天道は?」
士は彼の隣に座る天道の様子を上から肉眼で確認。あまり調子は良くなさそうである。
「だからやめとけっつったのに。言わんこっちゃねぇ」
あの時、天道は海に入った。最初は問題ない様に見えたが、暫くしたら不調を訴え、遂には浜辺で横になる始末であった。
「でもまぁ、いちおう自分で動けたし、大丈夫だろ」
「まぁ、お前がそう言うんなら」
「そりゃそうと、アメリカに行くんならお土産よろしくな」
「へぇへぇ分かってるっての」
その会話を終えて以降、加賀美が話し掛けてくる事はなかった。彼も疲労には勝てず、眠りに落ちてしまったからである。
それから数分後、スコットから返信のメールが送られてきた。例のイヤリングを貸してくれるそうだ。まだ文章に続きがあった為、更に下にスクロールするとこう書かれておった。
―『ただし、条件がある。帰省した時、タチウオとタコを土産に買って来てくれ』―
(あいつまだ言ってんのか! どんだけ魚食いたいんだよ! あんなことがあったせいでこっちは魚なんか見たくもないってーの!)
(それ程までに食べたいのか、魚介を)
スコットの食への好奇心と神経の図太さに、開いた口が塞がらん。取り敢えず了解の返事をする。
(うおっ?!)
スコットのメールに気を取られておる間に、美輝が此方の肩に頭を乗せて眠っておった。白木と風白も仲良く船を漕いでおる。
(さっきから静かだと思ったら……)
嬉し過ぎる事態に吃驚し、鼓動が速くなる士。彼女が此処に座っただけで心臓が破裂寸前であったのに、いきなりこの状態に置かれては混乱と歓喜で脳が正常に働かん。だが、下手に身動きすれば彼女を起こしてしまう。緊張から生まれる体の震えを、必死で最小限に抑える。
(あークソ……全然寝てねぇから今んなって……)
すると、そうしておる内に睡魔が襲って来た。至福の時間を夢の中で過ごしたくはないが、今は性欲よりも睡眠浴の方が強い。それならば、せめて彼女の温もりを感じながら、士も学校に着くまで熟睡した。




