第七話【バーンアウト】
1年の教室がある二階は、四階よりも五月蠅くはない。だが、自分が1年生のころよりもやかましいかもしれない。中間テストの開放感もあるだろう。六月下旬に待ち構える文化祭に期待をしてくれているなら、先輩としてそれ以上に嬉しいことはない。
1年生は店を出さないが、店を構える苦労は来年の楽しみと取っておいてもらって、ぜひ見て食べて遊んでいってほしい。
去年の文化祭は、休もうとしていたところを無理やり坂井に引っ張られた。それでも楽しめたとは言えないが、周りの人たちの盛り上がりようには、今では嫉妬すら覚える。
ドアの開いている1年B組の教室を覗くと、楽しそうに友だちと話をしている人、部活の早朝練習に疲れて机に伏している人や弁当を食べている人がいる。こういったところはどの学年も同じか。黒須の姿は見えないが、まだ登校していないのだろうか。
出入り口に近い席で勉強に励む女子生徒に、教室の外から声をかけた。
「あの、すいません」
「はい……? なんでしょうか」
女子生徒は二度見し、ノートを閉じてわざわざ席を立ってくれた。礼儀正しい子だ。
「黒須えみって人、このクラスにいるかな」
「えみさんならこのクラスですけど、今日はまだ来てませんね。もしかして、えみさんの友だちですか?」
「友だちですね。いつも授業には顔を出してるんですかね」
「はい、一日も休んでないはずですけど。あのっ、えみさんの……傷って、貴方が」
「俺じゃない俺じゃない。勉強の邪魔してすいません。ありがと」
俺は1年生の教室を後にして、屋上を見に行ったが黒須はいなかった。軽く掃除をして教室に戻る。
弁当を持って昼も屋上に赴く。もしかしたら、黒須がいるかもしれない。
一人で昼食を済ませて、掃除をしながら黒須を待つ。黒須が来るよりも先に昼休みが終了してしまう。五時限目、六時限目と授業中はずっと考え事をしていた。
かれこれ一か月になる。一日一日が濃く、騒がしい一か月だった。夕日は今日も眩しすぎるくらい明るい。ブラシで掃除をしながら遠くを眺める。
たまには他の本でも読むか。気分転換に一階の図書室によって本を見繕い、勉強で忙しい生徒の邪魔をしないよう離れた場所に座った。
集中して一冊読み終わる頃には、図書室の電気が点いていて外は薄暗かった。
校門を出ると、坂井とばったり出くわした。坂井は見るからに疲労していた。どことなく砂埃臭い。
「もう部活始めてるのか」
「入部テストで終わるかと思っていたんだけどな。終わったら即練習参加」
そう言うと一層、げんなりとした顔になる。部活初日だが、かなり扱かれたらしい。
「入部おめでとう。前にも言ったけど、あまり無茶するなよ」
「おう。コルセットはしてるからな。ところでお前はこんな時間までなにしてたんだ?」
「屋上の掃除、あと暇だったから図書室によってた」
「まだ掃除やってんのな。手伝おうか?」
「いいよ、お前は部活で忙しいだろ」
「水臭いこと言うなよ。もうすぐ文化祭の準備で忙しくなるんだから、二人でやった方が文化祭にも力を入れられるじゃねえか」
「……じゃあ困ったら言うよ」
久しぶりにゲーセンで坂井とホッケー勝負をした。坂井は疲れていた。だが、俺は手を抜くなんてことをせず、あくまで紳士的に全力を尽くして勝利を取りにいった。
+
笹倉さんはメモを取りながら皆に言った。
「現在の第一候補はアトラクションコーナーを設けることです。えっと、どんなアトラクションを作りたいのか、また他にも候補として挙げられている模擬店や喫茶店についても、近くの人たちと相談してください」
七時限目にて文化祭の話し合いが行われる。いくつかのグループに分かれ、どこからか剣呑な空気が流れてきたところで、教卓後ろに立つ俺は夢を名指しし、どんなことがやりたいのか聞いた。クラス全員の意見は聞いたが、転校してきた夢の案は聞いていない。
女子グループの輪に入り、夢はわれ関せずと他人の話に耳を貸していた。まさか祭り事が嫌いになったのでは、と思ってしまう。
男女問わずクラス全員が夢に注目した。
「うーん……例えば、アニマル擬人化コスプレ喫茶とかどうですか?」
喋っている内容は本性だが、他の人の前で敬語を喋ることをすっかり忘れていた。
「「「おおお!!」」」
「大胆に水着エプロン喫茶なんてのも捨てがたいですよね!」
「「「おおおおお!!」」」
「ねぇ奥さん……今夜は寝かせませんよ……プレイができる人妻喫茶も――」
「謝る。謝るから黙って。お前らも喝采とかいらないから」
熱気に笹倉さんが怯えている。クラスに馴染むどころか侵食している夢には困り果てた。
女子の声も混ざっていたが、聞かなかったことにしておこう。意見として嫌いではない。
「ヘージ君は頭が堅いですね」
「ダメだ、とは言っていない。喫茶店をやるとしても普通の喫茶店になるだろう。衣装代に回すほどのお金は支給されていないからな。飲食店を開くにしても足りないから、皆からある程度は徴収すると思う」
「そうですか。じゃあ全部まとめてしまいましょう」
「模擬店と喫茶店とアトラクションを?」
「模擬店は喫茶店に含むとして、アトラクション、ゲームでも楽しんでもらいましょうよ。例えばしっぽ取りゲーム。来店してくれた人にのみ、校内を徘徊している尻尾をつけた生徒を見つけてもらって、その尻尾を取ってきてもらった人に景品としてお菓子の小包をプレゼントする、というのはどうでしょうか? 何にせよ、みんなで楽しめる文化祭にしましょうよ」
夢の案を柱にして満場一致で喫茶店を出すことに決まった。これから一緒に準備していくことになるのだから、息の詰まるような雰囲気で作業を進めたくない。
個人、特定の集団ではなく参加している全員が楽しめなければ意味がないことに、夢の一言で気付いてくれたのだろう。俺たちのクラスは文武両道で優秀な人たちが集まっているが、熱すぎて目的を見失いやすいらしい。
大衆の上に立つ夢の才能は色褪せていなかった。頼もしい奴だ。10月の体育祭も夢にはクラスの中心となって一肌脱いでほしい。
七時限目中に喫茶店のアイディアをまとめることができた。
屋上に向かおうとしていたところを笹倉さんに呼び止められた。一緒に掃除をすると言って聞かない。信念を持った眼差しに負け、手伝ってもらうことにした。
お互い離れたところでブラシを使い、綺麗にしていく。屋上に黒須はいなかった。
「すいません。わたしのせいで、こんなことをさせてしまって」
「元を辿れば、鍵を閉め忘れた俺が悪かったんです」
「わたしがあの時、平治くんに見つかってなければ……ううう」
「そう言わないでください。それに、ここで黒須さんと話すことができたので」
「え……? えみちゃん、と?」
「黒須さん、放課後は此処にずっといたんですけど、知らなかったんですか」
「この学校にいるんですか!?」
手からブラシを放して駆け寄ってくる。ややこしい事情を持っているようだが、今の黒須については何も知らないようだ。辞めた、と思っていたのだろうか。
「えぇ。1年の教室に通ってますよ」
「……よかった……また、会えるんですね……」
笹倉さんは泣き出してしまった。泣いている女の子に誰が事情を聞けよう。落ち着くまで傍にいてから、もう家へ帰るように提案した。
彼女たちの関係が気になりはしたが、笹倉さんの前を無言で歩く。家が見える十字路で笹倉さんと別れようとした。
「屋上の掃除、手伝ってくれてありがとう。じゃあ、明日また学校で」
「平治くん、待ってください。お話ししたいことがあります」
うつむいていた笹倉さんは赤く眼元を腫らしていた。涙の痕を手でふき取る。
「黒須さんのことですか」
「はい。えみちゃんから聞いているかもしれませんが、私たち、一年前は同じクラスの生徒だったんです。友だちでも、ありました。友だちだったと信じたいです」
「黒須さんがイジメられていたことも含めて知ってます」
「……イジメに気付いたのは、友だちになってからしばらくのことでした。体育祭が始まろうとしていた10月に、えみちゃんは傷だらけの体で教室に入ってきたんです。聞いても何も話してくれませんでした。友だちだと思っていたのは、わたしの方だけだったのかもしれません。それからえみちゃんは学校に来ることが少なくなって、話す機会も減っていったんです」
一本筋の通った黒須の性格によって信憑性が増す。生々しい傷を隠し、澄ました顔をしている黒須の勇ましい姿が、肉眼に焼き付いて離れない。
「それで、退学したと思っていたんですか」
「進級したときに各クラス名簿を確認しました。どうすればよかったんですかね……もっと強かったら、夢ちゃん、平治くんみたいに強かったらどうにかなったんでしょうか」
「黒須も頑固ですからね。それは分かりません」
「わたしにはできませんでした。日に日に傷が増えていくえみちゃんを見て、怖いと思ってしまったんです。関わらなくてもいいんじゃないかって、思ってしまったんです」
笹倉さんは震える声で言った。
「やっと言えました。平治くんには知ってほしかったんです。汚くて最低なやつだって知ってもらって、それで――」
「今日はもう休んだ方がいいですよ。また明日、誰にも聞かれない屋上で話しましょう」
俺も家に帰宅して本の続きを読んだ。本の内容がこれっぽっちも理解できていないので、頭を空っぽにして読み切ることにした。つい、うとうとして寝てしまう。
寒いくらいの夜風に目を覚まし、バイブしている携帯電話を手に取った。夢からの電話に俺は低い声で唸った。
「あはは、熊みたーい」
「なんの用だよ。というかお前、教室から飛び出していったけど、放課後なにか用事でもあったのか?」
「たまには空気を読んで二人きりにさせてあげないとね。お邪魔ムシは退散したわけです」
「そういう気遣いはするな。自分を卑下しすぎるなよ」
「んー……まあいいや。私、鉄塔に居るんだけど今から来れる?」
「俺の自転車、壊れてるから歩いていくけど」
「待ってるよ。暇なんだよ、退屈なんだよ。お腹すいたー」
「腹が減ったなら、お前がうちに来いよ」
「ヘージ君のお母さんのご飯は食べたいけど、迷惑はかけたくないんだよね」
「遠慮は毒だぞ」
「じゃあ、そっちに行こうかな」
「あぁ、待ってろ。迎えに行くから」
「さらっとかっこいい台詞を言っちゃうヘージ君であった」
「いいから待ってろよ。不審者もとい変質者が出たら洒落にならない。母さんから自転車借りて急いでいくよ」
鉄塔までの道のりはうろ覚えだった。それでも目印は、天を突かんばかりの勢いで山から伸びているので、迷うことはない。道を進んでいくと車の音や電灯が徐々に絶えていく。
さざめく木々に囲まれ、月の光に照らし出された鉄塔の、内部へと侵入した。階段を上り、夢のいる四階の広い空間にやってくる。夢は携帯を弄り、時間を潰していたようだ。
俺も木椅子に座って足を休ませる。
「一人で家にいるより、開放的な此処の方がくつろげるんだよね」
「こんなでかい建築物をまさか放置しておくわけがないだろうから、市役所の人間が誰か見回りに来るかもな。見つかって、どやされても俺は助けないからな」
「隠れてやり過ごすから大丈夫だよ。逃げ切る自身はあるし、それにもしもの時は口封じに塔の天辺から落っことしちゃえばいいんだし」
「お前が言うと笑えないんだけど」
「ははは。前に聞いたよね、なんで人を殺しちゃいけないの? 今生きている人間の先祖は何十回何万回と人を殺してきたんだよ。人殺しの血を引いてるんだから私たちが殺し合っても理に適ってるとは思わない?」
「今と昔とでは環境が違う。他人を傷つけるとしよう。その他人は傷を負う。自分だって同じことをされれば傷を負い、痛みを感じる。他人は自分と同じ生きている人間だ。人形じゃない」
「私にとって他人なんてどうでもいい。大切な人以外はどうでもいい」
「だからその他人にも大切な人がいるんだ。その他人だって死んでしまったら大切な人に会えなくて悲しむ。その他人の大切な人だって悲しむ。仮に、お前が誰か知らない他人に殺されたら、俺は泣く」
「泣いてくれるのは嬉しいよ。けど分からない。私は私で、他人は他人なんだから……」
「……俺まで分からなくなってくるから、あんまり悲しいこと言うなよ。やめだ、やめ。こんなの高校生がする話じゃない。法で抑制されている、お前の場合それで納得してくれ」
「シリアルキラーじゃないんだけどね。ヘージくんは『バーンアウト』が気になったりしないのかなって。私みたいに実験、やらなかったの?」
「高い所から落ちても、楽しいと思わなくなってからは気にも留めてなかったよ。アメコミのヒーローみたいに強大な能力を持っていれば、また違ったかもしれないが、こんな地味で未完成な能力を何に使えと」
「そっか。ヘージくんが落下中毒者にならなくて安心したよ」
「制限された高さってなんだよ。もしかしたら五体満足で生きていられなかった、なんて考えたら肝が冷える」
「死ぬってなんだろうね」
「大切な人と離れ離れになる。それは辛いことだ。頭の良いお前にも分からないんだから、詳しいことが俺に分かるわけない」
「ごめんね」
「謝る意味が分からない」
「よしっ、ご飯食べに行こう。さあエスコートしたまえ」
母には夢が来ることを伝えてあった。女性二人の賑やかな夕食になる。
食後も楽しそうに喋っているものだから、俺は邪魔をしないように二階へと上がる。母と居間でくつろいでいたはずの夢が俺の部屋に押しかけてきたのは、俺が本を開いて三十分くらい経った後のことだった。
ベッドで横になって本を読んでいるとベットが軋み、生暖かい温もりを背中に感じた。夢は寄り添うようにベッドへ乗ってくる。
「ぐへへへへ、恋人プレイ」
「嬉しいけど離れてください。痴漢で訴えます」
「つれないなあ。なんの本読んでるの?」
「分からないんだ。読み始めたのは去年くらいからだけどタイトルもつい最近、知ったばかりからさ、内容が頭に残っていないんだ」
本を閉じて起き上がり、夢の方を向く。
夢は憐れむような眼差しを向けていた。人を小馬鹿にしたような目だ。
「ううう、現実から逃げてしまうくらい病んでいたんだね。もっと早くこっちに戻ってあげればよかったね、ごめんね……」
「同情する意味が不明である。飯食ったなら帰れ、帰れ」
「お母さん泊まってってもいいって」
年頃の男女が一つ屋根の下にいていいと思っているのか。俺の貞操が危うい。
夢は「あー、うん。帰るから平気だよ。しつこいとウザったいだけだもんね」と気まずそうに言った。後ろめたさを感じるのなら言わなければいいのに、なぜ言った。
「嫌われてもいいって言ってたよな」
「なんで細かいことにねちねちこだわるのかなあ……昔の方がかわいかったなあ」
「夢のことが好きだった俺も、陸上に一所懸命だった俺も、友だちも作れず怠けた生活をしていた俺も、全部俺だからな。積み重なれば、細かい事にもこだわるようになる」
「さりげなく告白された」
「したんだよ」
二足歩行の猫を見つけたかのように夢は「えっ……?」と口を開けた。
「嘘だ。だから早く帰れ。振り回されるのは一人で十分だ」
玄関に連れて行けば、一人では寂しいとぐずるものだから、自転車の後ろに乗せて送っていった。誰もいない夜道を通って風を切りながら夢の家を目指した。自転車に乗っているときの夢は静かだ。乗り物恐怖症なのだろうか、事情を尋ねる。
「だって、うそつかれた」
へそを曲げているだけだった。生活感のない静かな家に着くと、夢は自転車から降りる。
「じゃあね」
「あぁ、まってくれ。お前に紹介したい人がいるんだ」
「ん、誰? もしかして屋上の子?」
「まだ時間がかかるかもしれないけど、お前とウマが合うやつだと思う。よかったら仲良くしてやってくれ」
「うん、楽しみに待っているよ」
俺は自分の家に帰り、宿題もそっちのけで頭を悩ませる。例え黒須が悲劇を望んでいたとしても、最後まで見届けるもしくは手を差し伸べる心構えはしていた。
話の流れは読めてきた。頑固な黒須と慎重な笹倉さん、仲の良い二人を引き裂くように介入してきた忌々しい環境が鬱陶しい。ぼやけて抽象的だった決心が焦点を定める。長引かせれば長引かせるほど黒須と笹倉さんの溝は深まるばかりだ。
短気は損気。いつか誰かに言われたことを思い返し、醜い貧乏ゆすりを止めた。
+
登校前に捕まえてしまう手段に出る。朝早く黒須の家を訪ねたのだが、どうやら入れ違いになってしまったようだ。家の呼び鈴を鳴らしても誰一人として出てこない。
近所の人の気配を探ってから一度だけ大きな声を出した。家からの反応は皆無で、仕方なく登校することにした。登校中も黒須の影らしき影を見つけられなかった。
四階に行く前に一年の教室を覗くと、昨日の礼儀正しい女子が此方に気付いた。
「おはようございます。先日は失礼な態度を取ってしまって、すいませんでした。友だちに教えてもらったのですが、先輩だったんですね」
「失礼だなんてとんでもない。黒須は今日もいないみたいですね」
その子も教室を見渡す。教室の端にある空席をしばらく見つめて浮かない顔になる。
俺はその子と別れて、屋上に向かった。人に見つからないよう忍び足で階段を上る。
朝の時間帯に屋上に立ち入ることはいままでなかった。早起きは苦手だ。
扉の鍵は開いていて、期待に胸を膨らませるよりも先に体が動いた。強く吹きつける風で細めた目を、黒須の定位置に持っていく。小柄な少女にどんな文句をぶつけてやろうかと、まずは溜めを作るが、そこにいる少女は黒須よりも肉付きの良い少女だった。
俺は歩みを止めた。少女は立ち上がり、冷たい眼差しを此方に向けてくる。それは普段、明るい彼女からは想像もできない眼差しだった。
黒須、笹倉さん、そして目の前の少女を入れて三人、仲の良い関係を築いていたらしい。
「なんだ、鈴木君か」
少女はにこやかな笑みを浮かべた。切り替わる表情に俺は畏怖してしまう。
「……丁度いい、貴女にも聞きたいことがあったんです。大塚さん」
黒須を見つけ次第、笹倉さんと話をさせるつもりだったが、大塚さんのことを忘れているわけではなかった。俺にとって大塚さんは黒須並に謎の多い人だ。
「その話はやめておこう。気安く私たちの邪魔をしないことだ。私たちはこれでいいんだ。今の関係が一番幸せなんだ」
「貴女一人が決めることじゃない」
「鈴木君は関係ないよね。横から入ってきてごちゃごちゃ言わないで」
「俺は笹倉さんと黒須の友人だ。知ろうとして何が悪い。それとも聞かれて都合の悪いことでもあるのか」
「知ってどうするの」
「ここで見逃したら俺は怠けた生活を送っているクズ人間になるから、俺は俺でやれることをやるだけ。性格に一癖あるお前らが仲良くなれるよう、いくらでもお節介を焼く」
「見上げた熱血根性だぁね」
「そういう大塚さんは、ひどく冷めているのな」
「分かったよ、話したげる。放課後、桜と会うんでしょ? 私も立ち会ってあげるよ」
「笹倉さんから聞いたのか」
「悩んでいると顔に出やすい子だ。嬉しいことがあると口は軽くなるのにね」
黒須と同じように遠くを眺めていて、大塚さんはそこから動こうとしない。授業に出席することもなく、日が暮れるのを屋上で待っていたようだ。
笹倉さんは大塚さんがいることに戸惑っている。去ろうとする笹倉さんを大塚さんが呼び止める形となった。ここでいなくなられては俺としても困る。
俺を睨む大塚さんの目は恐ろしいものだ。笹倉さんに向けた丸みを帯びる眼差しなどでは断じて無く、親の仇でも打つのではないか、そう錯覚してしまう。
「それで私はなにを話そうか。聞きたければなんでも話すよ。言ったことが全て真実とは限らないけどね」
「黒須は来ませんね」
「えみが来ないから、こうやって集まっているんじゃないの?」
「あいつがいれば腹割って話してそれでおしまいですけどね」
「だからそれができないから、こうやって集まっているって……ああ、調子狂うなぁ。やっぱり鈴木君は嫌いだ」
大塚さんが態度を変えてくれることはなかった。
空気は冷め切っている。屋上に来てから口を閉じたままでいる笹倉さんに俺は聞いた。
「笹倉さん、どうして貴方が黒須を見捨てることが出来たのか、気になったんだ。まじめな貴方がどうしてイジメを受けている友人から離れようとする」
「平治くんが思うほど、わたしはまじめではないんです」
「それなら夢のことも嫌いになっているはず。親友だった俺たちに何も告げず、転校していったアイツを嫌っていてもおかしくない。けど嫌うどころか、一緒に下校して、買い物して、勉強して、俺の家の留守番までしている。長い間、口をきいていなかった俺にも、親切に接した」
「私は言ったじゃないですか。怖かったんです」
金網が耳障りな音を鳴らす。大塚さんが揺らしたであろう金網には目もくれず、尋ねた。
「慎重な笹倉さんが、黒須の傷を見ただけで逃げようとするのは考えにくい。本当に怖いだけならしつこく付きまとって、事情を聴きだして自分に害がないことを確かめてからでも遅くはない。笹倉さんはたまに押しが強いですから」
「怖かったんです。理由なんて他に何もありません。わたしは弱くて最低な人間です」
「黒須の前でも、そう言い切れますか。私は弱い人間だから貴方とは一緒に居られない、そう言って逃げようとするんですか。貴女にそんな勇気はない。憶病で怖いから踏み入り押し付けようとする貴女に、俺と同じように裏切られる怖さを知る貴女に友を裏切る勇気はない」
「わたしは弱いんです! なにもできなかったんです! あんな、あんな傷だらけのえみちゃんになにもしてあげられなかった!」
声を荒げる笹倉さんに心が痛む。同情の眼差しに気付いたのか、我に返った。
「平治君、わたしを嫌ってください……お願いします。じゃないと、わたし……もうどうすればいいか、分からないんです」
「嫌われて、自分も黒須みたいになろうって算段ですか。笹倉さんらしい」
笹倉さんを攻めているつもりはない。彼女に悪気はない。黒須のことを見放さざるを得ない境地に立たされていたのだ。推測が正しければ、ここに大塚さんが関わってくる。
でかい釣り針だった。真実を聞き出せないなら吐き出させるしか他はない。
大塚さんは俺の肩を掴み、これ以上やめるようにと睨んでくる。悔しそうに見て取れた。怒鳴りながら殴ってくるものだとばかり思っていたので、取りこし苦労だったようだ。
「やめて、その子は悪くない」
苦しむ笹倉さんが見るに堪えなくなったのか。必要悪を気取るつもりはないが、無意味に他人を傷つけるほど俺も馬鹿ではない。
「良し悪しの話はしてない。円滑に話を進めたいだけだ。早く黒須を見つけてきて、仲直りしてもらいたいんだ。ここまで巻き込まれて、誰が引き返せるか」
「……大胆だね。桜、あんたの友だちってまともなやつがいない。一番不幸なのは桜だよ」
予測でしかなかったとはいえ、俺にはそれ以上、考えの付きようがなかった。黒須と笹倉さんが仲違いするときに、大塚さんは何をしていたのか。大塚さんは白状してくれる。
「話してあげるとは言ったしね。いいよ、私の負けだ」
「黒須に笹倉さんから離れるように、もしくは笹倉さんに黒須から身を引くように、大塚さんは言ったんですね」
「頭回るんだね。いつも腑抜けているからさ、意外だよ。鈴木君の推理に間違いはない。私は桜に、えみから離れるように言ったんだ」
「どうしてか、なんて聞かない。俺もそこまで非道じゃない」
「黙って帰るのも癪だよ。私はね、桜のことが大好きなんだ。私の実家は遠い所にあるんだけどね、近辺にソフトボール部が有名な高校がなかったから、寮生活を親に許可してもらって高校に入学したんだ。右を向けば見慣れない街、左を向けば知らない顔、ソフトが上手いからとはいえ、不安だらけ。いままで通り人との繋がりを作れないまま、卒業していくんだなって諦めていたところに、桜が声をかけてくれたんだ」
大塚さんは笹倉さんを守りたかったのだ。華やかな学園生活を送るために、黒須を犠牲にしなければならなかった。明るい性格は、笹倉さんを付けるためだろうか。
「大塚さんにとって黒須はどうでもいいんだな」
「桜と比べたら、天と地ほどの差だよ。桜には悪いけど仕方のない事だったんだ」
仕方のないこと。それは耳障りで厄介な言葉だった。
「大塚さんが笹倉さんと黒須を引き離したと、そういうことでいいのか」
「黒須を虐げるクズどもに触れさせないためだよ。私一人の責任さ」
なぜ彼女たちは皆、責任を背負おうとするのか。信頼できる友人がいるというのに手を借りようとしない、ひねくれ者ばかりだ。
「あんたらは難しく考えすぎてるんじゃないか。誰かを悪者にしないと気が済まないのか。もっと気楽に生きろよ」
「腑抜けの鈴木君に言われたくはないなあ」
「もう腑抜けでも無気力主義でもない。決めたんだ。絶対に元の関係に戻してやる」
喧嘩をしている場合ではないことは重々承知している。
昔の関係に戻ることくらい簡単なことだということを、ただ三人に伝えたい。もう一度、三人そろって話をするべきではないのか。
いくらでも盾になってやる。俺はそう言い出せずにいた。黒須のように嬲られ続ける毎日を過ごすことが、どれほど辛いことか。畏怖を感じていた。
いがみ合っていると笹倉さんが割って入ってきた。
「千尋ちゃん。千尋ちゃんに言われなくても、えみちゃんから離れていったから」
「鈴木君の言った通り、優しくて憶病なあんたには無理だよ。だから私は一年前に、桜が言っていた頼れる人間を探したんだよ。けどそいつは半分死んだような人間で、どうしようもないくらい腑抜けていたよ」
大塚さんは冷めた目を向けてくる。その言い分に違和感を覚える。
なぜ、俺を探していたのだろう。探そうとする理由が大塚さんにはないはずだ。
「やっぱり頼れるのは己の身だけだよ」
「千尋ちゃんが、えみちゃんから離れていったとき、わたしはどうしたらいいのか分からなかったんです。昨日まで一緒に話していたのに、急に口を聞いてくれなくなって、わたしがどうにかしなきゃいけなかったんです。それなのに」
「あんたも、もう悩む必要なんてないんだ。黒須も私も、今の関係を望んでいる。あんたもそれを望めばいい」
強要され、笹倉さんは目を伏せる。
二人とも自己犠牲の精神が強い、人を思いやれる優しい人間だ。彼女たちが仲良くなれないのは不公平ではないだろうか。知ってしまったからには、一肌脱いでやりたい。
軽く失笑して、俺は笹倉さんの前に一歩踏み出す。肩を掴み、陰りの差す顔を起こした。
「黒須と仲直りしたいんですよね」
言葉はなく、小さくだが笹倉さんは確かに頷いて見せた。大塚さんは「桜!」と怒鳴る。
諸共せず、笹倉さんに話をした。
「俺が代わりに黒須をかばおうとしても、笹倉さんは満足しないんだろうね」
「……はい。えみちゃんにも平治くんにも、千尋ちゃんにも傷ついてもらいたくはないです。けど今なら、わたしはえみちゃんの代わりになっても良いと、そう思ってます。あのとき、見放してしまいましたから、どんな仕打ちでもうけます」
「そうなると俺は大塚さんにどんな仕打ちを受けることやら」
「キミをバット代わりにして桜を泣かす連中をぶん殴ってやる」
涙が出るほど頼もしい人だった。
俺は笹倉さんから離れて、後ろのフェンスまで歩く。これから黒須を連れてこなければならない。日は沈みかけている。
「笹倉さん、大塚さん。俺はもう大丈夫。頼ってもらえるくらいには立ち直れている」
自分が情けない。怠けていなければ、彼女たちの溝もここまで深まっていなかった。
「こんなひ弱な男の手一つでも、塵を払う箒くらいには役に立つだろう」
「期待してないってーの」
段々と口が悪くなっていく大塚さんだった。
「とりあえず、会えなかったのなら連れてくる。それが俺にできる最大限の助けで、あとは三人で解決するべきことだ」
先生が手を差し伸べても見向きもしなかった人たちだ。
屋上で待っているように言って、フェンスをよじ登り、目を見開く二人を尻目に屋上から地上に落ちた。一分一秒も惜しい。
加藤先生に会いに職員室を尋ねた。先生の受け持つ天文部は週一でしか活動していないこともあり、話をすることは容易だった。先生に、黒須が誰に虐げられているのか聞いた。
「一生徒を疑うのは教師にあるまじき行為だ。私はこの学校が好きだ。この学校に通う生徒が好きだ。私は、お前の肩を持つことができないかもしれない。それでも、お前は聞こうとするのか?」
黙って頷く。生徒の名前とクラス、所属している部活を聞いて手当たり次第に奔走した。学校に残っている人間だけでも五人はいた。そいつらと話を済ませ、黒須探しに戻る。
正面から正々堂々と、その知らない人たちから黒須への暴行に対する事情を聴いた。自分でも、どうかしていると思う。
聴いて、説得してすんなりと止めてくれるなら、とっくに暴行は終わっている。理由も「あの面が気に食わない」という、取るに足らないものだった。惰性だ。根本となる出来事は、イジメている側も覚えておらず、気に食わないことが積み重なっていって、ずるずるとイジメという作業を引きずっているだけだった。
初対面の人間に暴言を吐いたのは初めてだ。次々と汚い言葉が出てきたことに驚いて、倒れるまで自分が殴られていたことに気が付けていなかった。俺を殴った生徒は唾を吐くと、どこかへ行ってしまう。
このまま、黄金色の空を眺めてはいられない。壁を支えに立ち上がり、黒須探しに戻る。
黒須のいる場所と言えば、一つしか思い浮かばない。そこしか知らないのだから、当たり前だ。屋上で待つことをやめて、こちらから会いに行かなければならない。屋上には、黒須にとって大切な人たちが俺に代わって待ってくれている。
家に戻って自転車をとってこようか。黒須は自分の家にいるのではないか。走っている最中で幾つか頭を過った疑問だったが、すぐに捨てた。
信号機で荒げた呼吸を整え、街道を抜けて山道に差し掛かると、俺は思いがけない人物と遭遇した。酸素が不足した脳が、その正体不明の人物と記憶にいる人物とを重ねるまでに、多少なりとも時間を喰った。
その判断の遅さに、その人物は駆けだした。見つかって駆けだすほど、その人物はまずいことをしてきたのだ。ロングコートを翻し、振り向き様にマスクを取って、人気のない木々の奥へかけていった。
幸いにもその人物――痴漢の逃げていく方向は俺の目的の場所と繋がっていた。物のついでで追いかけていると、痴漢は鉄塔に逃げていることが直に分かった。
都合がいいのか悪いのか。痴漢と一緒に塔を囲う開けた場所に出る。まるで塔の入り口を塞ぎ、俺を阻むように痴漢はこちらを向いて立ち止まった。
マスクがとれて、さらけ出された口元や頬、顎から女性だと認識できる。
「随分とぼろぼろだね。そうなってまで、キミはなんでここにきたの?」
「お前はどうして……いいや、俺はどうしても会いたい人がここにいるんだ」
「私はキミを確かめたかったんだ。変わらず、元気にやっているかってことを、キミなら彼女の力になれるかってことを」
「サングラスとれよ。それからならいくらでも話を聞いてやる。悪いが急いでいるんだ」
俺は痴漢の横を抜けて、塔の内部へ入っていった。
鉄の階段を踏み鳴らして上っていく。辺りはすっかり暗くなっていて、階段から眺める夜景も乙なものだった。半分くらい上ったところで、一息入れてまた走り出した。
筋肉の悲鳴など、とうの昔に絶えた。息苦しさも忘れ、死に物狂いで走る。
頂上が見えてきた頃には、手すりを持って無様にも歩いていた。這ってでも頂上を目指すつもりだ。歩けていただけ、褒めてもらいたい。
天井が作られていないだけで、鉄塔頂上部は下層部と同じ造りになっている。夜の空に煌めく星は、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離にある。
黒須くらいの体なら吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほど、強い風が吹いている。窓も壁もなく、開け放たれている頂上部に足が震えそうになった。
汗を拭く気力すら、この場に立っていることへとつぎ込む。横になるには早い。
頂上には黒須がいた。細い足で淵に立ち、よく通る声で黒須は言った。
「やっと来てくれましたね」
三日三晩、待っていたとでも言わんばかりの言い草だ。
「久しぶりだな。三日ぶりか」
「家には戻ってましたよ。父に余計な心配は欠けたくありませんから。それにしても、その顔どうしたんですか。平治は馬鹿ですね」
黒須は『葬らんバット』をポケットから取り出して、齧りついた。
呆れられてしまう。赤く腫れた頬を吊り上げ、俺は笑って言った。
「もうお前一人の問題じゃなくなったな。いや、前からお前一人の問題じゃなかったか」
「喧嘩してきたんですか、私のために」
「お前に心配してもらえただけで、殴られた甲斐があるってもんだよ」
「余計なことを……明日から平治も大変かもしれませんよ」
「お前らが楽しくやっていければいいよ。かと言って、犠牲になるつもりもないから落ち込んでたら慰めてくれよ」
「私は桜から平治のことを聞いて、期待して待ってた。けど平治はなんで、私にかまってくれるようになったんですか? 私は望んでいたけど、平治には義理が無い」
「友だちの一人から怠けるなって言われたけど、怠けていることが悪いことだなんて思えない。むしろお前と一緒にこれからも屋上でゆっくり昼寝でもしたい。けど、お前と授業をばっくれるにしても、お前のことをもっと知っておかないといけないんじゃないか。何も知らずにお前の隣にいても寝るに寝られない。あぁ、何言ってるのか自分でも分からなくなってきた」
「平治は私と居て、楽しいですか」
「楽しいというか、安心するんだよ。怠けて生きてきたことが間違いじゃなかったって実感できるからだろうな」
「失礼ですね、悪い気はしませんが。平治といい、桜といい、友人は選ぶべきです」
「お前さ、笹倉さんと大塚さんを傷つけないために、お前から拒絶していっただろ。もうその必要もなくなった。二人は今、学校の屋上でお前のことを待ってるから話をつけに行ってこい」
伝えることは伝えた。あとは黒須の気持ちに委ねる。それでも駄目なら話し合おう。
黒須は『葬らんバット』を食べきり、ポケットからもう一袋、取り出して食べだした。
「平治が汚れ役を買って出るんですか」
「そうは言っていない。俺はお前みたいに強くないから、なにかあったら助けてくれ」
「頼りになるのか、ならないのか分かったもんじゃないですね」
「お前らは一人で背負い過ぎているんだよ。それで失敗して、仲違いして、面倒臭い関係になってるんだろうが。笹倉さんはお前を助けられなかったことを悔やんで、大塚さんは笹倉さんとお前の仲を裂いたことを悔やんで、お前は意図的に二人から離れて一人で苦しんで。小学校のときに助け合いの心を学ばなかったのか」
「我関せずだった平治に言われましても。人は簡単には変われない。一度決心したことを捻じ曲げることは、生きていることを否定するも同然だから」
黒須は手に持った『葬らんバット』を食べ続ける。それが使命であるかのように、乾いているであろう喉を鳴らして呑み込む。
「千尋はなんて言ってました? あの子のことだからどうせ、笹倉桜を黒須えみから離したのは自分だー、とかなんとか言ったんじゃないですか」
「ああ、確かにそう言った」
「桜を遠ざけるよう、私がお願いしたんですよ。一番最初に担任の教師に呼び出されたとき、千尋が中学の頃にイジメを受けていたことを聞いたんです。千尋も始めは私の助けになろうとしてくれたけど、桜のことを頼んだら引き受けてくれましたよ。あまり千尋を攻めないでくださいね」
もうため息も出ない。眩しすぎて、嫉妬心を抱くほど羨ましい関係だ。
「いいから、行くぞ。二人が待ってる」
「あの子たちは優しいですよ。けど私には、やらなければならないことがありますから、あの子たちに縋りはしません。私は私の正義を証明しなければなりません」
俺が手を差出しても、黒須はその場から離れようとせず、『葬らんバット』を貪っている。
「前にも言っていたな。正義とはなんだ」
友人よりも優先しなければならない証明らしいが、どれほどのものか。
黒須は手に残った包み紙をポケットに戻して一呼吸おく。淡い光の宿る目を見開くと、黒須は風に靡く短い髪を押さえながら言った。
「私がしなければならないことです。私の正義で、私を虐げるクズどもに分からせてやるんですよ、自分たちのしていたことがいかに愚かで恥ずべきことだったということを」
「おい、お前こそ馬鹿なことを考えてるんじゃないだろうな」
「馬鹿じゃありません。私の正義の証明は私と同じ境遇の人間を救います。私はそのために生まれてきたんです。そのために、酷い仕打ちを受けてきたんです」
「お前はどうなるんだ」
「どうなるかをいまから決めるんです」
俺の言いたいことはそうではなかった。黒須がその正義を証明するとして、黒須は救われるのかどうかということを聞きたかった。聞く前に黒須は話を進める。
「私はここから落ちます。それが正義の証明です」
俺が歩み寄ろうとすると、合わせるように黒須は片足の踵が地から離れるところまで後ろに下がっていった。黒須に肝が冷えたのはこれで何度目か。
喉まで出かかった怒鳴り声を呑みこみ、黒須へと近づく足を止める。
「平治は学校の屋上から落ちても怪我をせず気を失うだけです。ここは学校の屋上よりも三倍近い高所になります。さすがの平治でもここから落ちれば、気絶だけでは済みません」
今から飛び降りて見せるから助けて見せろ、ということだ。
黒須はなにも分かっていない。
「えみ、お前は逃げているだけじゃないのか」
「逃げる? なにから?」
「虐げられてることに怯えて、友人が傷つくことを恐れて、都合のいい正義をこじつけて、お前はお前自身から逃げているように見える」
イジメに負けない奴だと思っていたが、黒須は耐え切れなくなっただけではないのか。
黒須の顔色は変わらない。平然といつもの無表情を顔に張り付けている。
「平治がなにを言っているのか、私には分かりかねますね」
「都合のいい正義をこじつけて、イジメを受けている惨めな自分から逃げようとしているんじゃないか。見解の一つだから真面目にとらえて貰えなくてもいい」
「……へえ。痛いところを突いてくれるじゃないですか」
「それでも、お前は強いから、もう少しだけ頑張ってみたらどうだ。加藤先生、笹倉さん、大塚さん、それに俺だっている。お前が相手にするのはお前の言うクズ共じゃなくて、自分じゃないのか。正義の証明なんてどうでもいい。俺らはお前に幸せになってほしいんだ」
「正義の証明こそ、私の幸せです」
「その幸せは誰の幸せだ。お前が死んで実現する幸せは、お前にとっての幸せじゃない。お前はその幸せを噛みしめるための感情を、命と一緒に投げ捨てている。お前には何も残らない」
「違う。正義の証明を後の世にばら撒くことこそが、私の幸せです」
「同じことだろう。ばら撒けたかどうかなんて、お前には確認できないじゃないか」
「平治が見届けてくださいよ」
「二度目だ。俺たちはお前に幸せになってほしい」
「平治は頑固です。困りました。私の意見なんて聞いちゃいない」
「軽々しく命を捨てるな。人との別れは辛い。お前だって分かるだろう。死別なら尚更だ」
「私は平治たちの心の中で生き続けます、私の正義の証明とともに。それじゃダメですか」
「だめだから説得している」
「なにがなんでも私に飛び降りてほしくないみたいですね」
「正義の証明云々は否定しない。それの代償がお前の命だなんてどうかしている。証明するにしても、お前が生きていることを正義の証明にはできないのか」
「平治は私の思い付かないことをぽんぽんと思い付く。羨ましいです。だからこそ、平治を相手にすることで証明できるんです。私がしていることが正しいのか否か、はっきりと分かるんですから」
黒須は『葬らんバット』をポケットから取り出した。一頭身のねこのイラストが描かれた袋を破り、準チョコレートの棒菓子を力強く齧る。
「私、甘い物きらいなんですよ。鉄塔建設の反対運動に参加していた母がここから飛び降りて死んでしまったあの日、父は責任を感じて退職しました。菓子会社に再就職してからは、毎日のようにこれを持ってきてくれて、私に気を使ってくれる父が私は好きだったので、嫌いとは言い出せなかったんです」
残り半分の『葬らんバット』を外に投げ捨て、黒須はその細い体で追いかけるようにして後ろへ倒れていった。
飛び降りという行為に耐性がついてきていた。おかげで動揺せずにいられた。
俺はすかさず走った。バランスを崩して倒れそうになる足をふんばらせて、わずか10mほどの距離を詰めていく。足場を大きく鳴らし、落ちていく黒須に飛びかかる。体を半分ほど外に投げ出す。
黒須の手首を掴むと、落下の勢いに体を引っ張られ、胸部から下の体を床に強打した。衝撃と鈍痛で息が切れ、むせ返る。
痛みを堪え、掴んだ手だけは離さない。悪い病気にでもかかっているのではないかと思うほど、黒須の腕は細く、体は綿のように軽い。
風で吹き飛ばされてしまいそうだ。俺は開いたもう片方の腕を床に付けて支えを作る。
「なにやってんだ、馬鹿野郎」
それでも俺の体はずるずると引きずられていく。
宙ぶらりんの黒須に、自力でも上がる様に催促してから引き上げる。俺は安堵混じりの息を吐いた。間に合わなければ、俺の手は空を切り、黒須は真っ逆さまに落ちていったことだろう。
隣に座る黒須はどうでも良さそうに言う。
「私の負けなんですかね」
俺は手のひらを振りかぶった。目をつむる黒須を見て、寸前で叩くのを止める。その細い体は震えていた。
「お前は俺に負けたんじゃない。お前は周りの人間に優しくできるのに、肝心なところを見誤る。お前がいなくなれば、誰が悲しむか分かるだろう。お前は自分に負けたんだ」
「私は私を知らなさすぎたとでも? そんなわけない」
「個のお前を知っていたとしても、集団の中のお前を知らなさすぎていたんだ」
「平治は私にどうしても生きてほしいんですか。平治は私のことを苛められて可哀想だと思っているのに、その可哀想な人生をこれからも過ごせと言うんですか」
「何のための友だちだ。辛いことが会ったら相談しろ。お前らは一人で解決しようとするから、面倒臭いことになっているんだろ。一人でどうにかしようとして進展することなく溝だけが深くなっていって、目も当てられないな。それに可哀想な人生だなんて思っていない。友人に恵まれてるじゃないか。羨ましいくらいだよ」
「平治ならどうします」
「俺は言うことを言って、お前の選択肢の一つを潰したんだ。もうなにも言えない。押し付けは嫌いなんだ。お前らの前では、お前らの仲を元に戻して見せる、なんて啖呵を切ったけど、俺の立場は正直言えば、微妙なんだ。関わろうと思えば関われて、無視しようと思えばいくらでも無視できる。勝手な立場だよ」
「平治はバカですね。平治も桜も千尋もみんなバカですよ。誰かのために傷つくことなんてないのに。そんなに痛いのが好きなら、私みたいに落ちればいいのに」
「お前が俺の立場なら同じことをするだろ」
「さあ、分かりませんよ。逃げるかも知れません」
「それはない。それだけはないな」
軽口を言っても黒須が笑うようなことはなかった。黒須は真剣に考えだす。
俺は一人で立ち上がった。物音たてずその場から去ろうとする。
黒須にもう一度だけ伝えた。重要なことだ。
「二人は学校の屋上でお前を待っている。いいか、伝えたからな」
数分前の出来事が脳裏を過り、今になって足が震えだした。情けない。
早く去ろうとするが、黒須は俺を呼び止める。何の意図があって呼び止めたのだろう。
黒須には悪いが一緒に屋上へはいけない。三人で話し合うべきだ。三人で話し合うだけで済むのだから、蛇足を断ち、腹を割って話し合えばいい。
「平治、ありがとう」
黒須から礼を述べられるだけで、俺は幸せ者だ。
後ろ髪を引かれる思いで先に階段へと足を運ぶ。帰って夕食にありつこう。夢のやつを呼んでやろう。
ぎぃ、という金属の軋みの音が耳を掠める。腹の音とは聞き間違えようがない。階段も随分と古びている。錆びついた手すりが俺の体重に耐え切れず、鳴いたのだろう。
目線を手元に落とす。俺の手は、階段の手すりに僅かに届かず、空ぶっていた。手から鉄の感触が伝わってこない。
不快な金属音は連続して頭の中を木霊する。大きくなるにつれて、足を伝いに聞こえてきていることが分かっていってしまう。誰かが「振り向くな」と叫んだ。
なけなしの勇気を振り絞って黒須の方へ首を回す。反射的に足を伸ばす。足場は傾いていた。足場の丁度、中央あたりに亀裂が入っている。
さきほどと同じ要領で俺は飛んだ。伸ばされた黒須の手に飛びかかり、その小さくて弱々しい体を抱き寄せる。傾きを得た足場を立ち上がるのは困難だった。
足場は地面と垂直になり、俺たちは足掻くことすらままならず、地面へと落ちていく。風を切り、無力を嘆く暇もない。慈悲など与えらない。鉄塔の頂上から落とされた。
偶然にも、突き出した左腕が鉄塔に引っ掛かった。その瞬間の映像だけが切り抜かれ、無残にも目蓋の裏に焼き付く。腕を走る激痛に目を瞑ることを強いられた。
腕は弾かれた。肘から向こうが燃え滾る炎で炙ったかのように熱い。肩も外れただろう。地面がすぐそこに迫る。もう片方の腕で抱いている黒須を離さないことだけを考えた。
人を抱えて飛ぶのはこれで二度目だ。相手も同じ。唯一、落ちる高さだけが違う中、半ば諦めて、落下に身を委ねた。学校の屋上から跳び降りても打ち所が悪ければ気を失う。鉄塔はその学校の何倍もの高さなのだから、どうなってしまうことくらい予想が付いた。
間違いなく、柔い人間の体では耐えられない。背から落ちれば、背骨は「く」の字に折れ曲がり、肋骨が内側から肉を裂き、臓物を外へとぶちまける。逆ならば、顔面は原型を留めず、折れた肋骨が横脇から飛び出し、やはり即死だろう。
黒須を抱きかかえているのだから、選択は一つだけだ。背中から落ちず、どう彼女を救う。
震えている黒須を見ると、目の端に涙を溜めていた。泣くのなら、なぜ身投げを計った。
背中から落ちようと、黒須が助かる保証は満に一つもない。俺の骨が凶器となって黒須を襲うかもしれない。『バーンアウト』は、俺をクッションにもさせてくれないようだ。
高度制限――。鵜呑みにしていた夢の言葉が憎い。何も知らずに落ちていけば、余計な心配をしなくても良かった。黒須を抱きかかえて地面に激突するだけで終わっていた。
とても冷たい風だった。鎌の様に鋭く、今にも命を奪おうと耳を欠く風切音。
子どものころに工作した風車が風と擦れる音を思い返した。夢と笹倉さんと妹で、駄菓子屋の婆さんに作ってもらった風車だ。笹倉さんがこけて風車を壊してしまうと、夢は自分の風車を笹倉さんに握りしめさせて、泣いていた笹倉さんの背中を押して走らせた。風車は笹倉さんの手で回り、二人で楽しそうに笑う様子を、遠くから羨ましそうに眺める。
また三人で、とは言わない。皆で集まって遊びたい。夢と笹倉さんと大塚さんと、稲穂と坂井と黒須と一緒に遊びたい。落ちていく中で儚い希望に縋る。
そろそろだろう。鉄塔の頂上が遠く離れて小さくなってしまっていた。
黒須はぎゅっと身を縮めている。黒須は俺以外に縋るものがないらしい。俺みたいにユメでも見てればよかったものを、まだ生きていたいとごねるか。
二度と、こんな場所に来るべきではない。黒須の居場所は別の所にある。
俺は咄嗟に塔の方に首をひねった。俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
塔の一階に人間を捉えた。夢だ。彼女はいつもの階に居て、こちらを眺めている。夢がどんな表情をしていたのかまでは確認できなかった。塔との距離もだいぶ離れている。内の一階を通り過ぎるのはあっという間だ。
俺は黒須を抱きかかえながら落ちている。何度も自分の状況を確かめた。手も足も出ない、落下して地面にぶつかって弾け飛ぶ未来しか見えていなかった。
糸で操られるかのように、俺の腕は動いた。腕に抱えていた黒須を斜め上に投げた。投げた方向は適当だった。どこでもいい。投げると言う行為に意味があるのだ。
黒須は一度、俺の落下を見ている。夢の理論が正しければ、黒須は『バーンアウト』に感染したことになる。完全なる二択だった。
どちらにしろ、このままでは二人とも無駄死にだ。夢を信じてみる。俺はどこまでも女々しいやつだった。人の根本はなかなか変わろうとしない。俺は夢が好きらしい。
認めたくないが、最後に信じたのが自分ではなく夢であったことに間違いはない。
黒須は目を見開いて俺から離れていく。こちらに伸ばされている細い手は何が起ころうと届かない。黒須は俺から落ちた。黒須は助かる。
そう思えただけで胸のつっかえが、すっと消えて楽になった。
自己犠牲のつもりはない。俺だってまだ皆と一緒に居たい。
意識が戻ると、折れている手とは反対の方の手を夢が握っていた。まだ俺は生きている。目蓋は震えて、細く開けるだけで精一杯だ。手足は思うように動かない。
倒れたまま抵抗もできず、寄り添う夢に手を握られた。温もりが感じられず、握られているという行為だけが情報として頭へ送られる。
「おつかれさま」
優しく笑む夢に俺は返事をする。舌は回り、声もちゃんと出る。
「黒須は……」
首も動かないから目で探すしか他ない。だが夢以外の人の姿を見つけられなかった。俺が聞くと夢は表情を崩さず答えてくれた。
夢の言葉を理解する前に、黒須が無事であることが分かる。
「あの子も感染しているから無事だったよ。咄嗟の判断にしては利口だったね」
「黒須は学校にいったのか」
「今さっき向かったよ。キミの側から離れないって言って愚図るから、大変だったんだよ」
「お前ら、見てないで救急車くらい呼んでくれよ」
「『バーンアウト』にはね、まだ秘密があるんだよ」
「なんだよ、まだなにか隠していたのか」
「言っても変わらない、どうでもいいことだから、雑念の元になるくらいなら教えない方がいいかなって。『バーンアウト』の感染には、完全感染と不完全感染が存在しているの。完全と不完全の違いはとっても単純で、落下時の衝撃が外面に影響するか、内面に影響するかだけ」
「肉体か、精神かってことでいいのか」
「不完全は前者、完全は後者だね。だから『バーンアウト』なんだよ。過負荷で不完全感染者は粉々に飛び散り、完全感染者は廃人になる」
「なんだよ、それ。どっちも不完全じゃねえか」
「それでも、飛び降りようとする人を少しでも救おうとしたんだろうね」
「……馬鹿馬鹿しい。眠くなってきた。俺は寝る」
「あはは。おやすみ、ヘージ君。私はいつでもキミの側に居るから、キミがいつ目を覚ましてもいいようにずっと側に居るから。そのために戻ってきたんだから」
閉じようとする目蓋の隙間から、きらりと光る夢の涙が落ちるのを見た。