第六話【確かめたいこと】
昼休み、加藤先生に呼び出された俺は、職員室に隣接する生徒指導室に来ていた。
「赤点だ」
人世初の追試を先生に言い渡される。呼び出された時に、そんなことだろうとは思った。
テストの出来は悪かった。問題用紙に暗号でも書いてあるかのようで、俺の指が動くことはなかった。しかし、いくらなんでも通達が早過ぎはしないか。今日はまだテストの最終日だ。猶予くらい与えてくれてもいいではなかろうか。
テスト期間中は黒須と会っていない。見事なまでに出鼻を挫かれた。
眉を吊り上げて、「屋上掃除のことを踏まえて見逃してやらんこともない」と先生は言う。
「本当ですか!? ぜひ見逃してください!」
俺は身を乗り出し、面と向かう先生に懇願した。
「あまりべらべらと公言するなよ。あと見逃すのは成績に関してだけだ。追試には出ろ」
「俺、クラス委員で文化祭とか体育祭とか、クラス行事の管理を任されているんですが」
「風邪ひいて休んでも、骨が折れて登校できなくなっても、桜一人でどうにかなる」
先生の言うことはごもっともである。取ってつけたような言い訳は通じない。
どう切り抜けようか。一日でも惜しいと言うのに、追試なんて受けていられるか。
「追試、どうにかなりませんか」
「どうにかってなー。成績に支障が出ないだけ有難いと思ってくれ。学年主任に頭下げた私の気持ちにもなってくれ」
高校でここまで面倒を見てくれる教師に出会えるなんて、俺は恵まれている。教師の鏡のような加藤先生に誰が贅沢を言えよう。
追試期間は試験と同じ三日間だ。三日ほど我慢して、それからでも遅くはないと信じたい。テスト週間でも無言で会わなかったのはまずかっただろうか。不安が募る。
「追試はいつでしょうか」
「来月の中旬あたりかなー。詳しい日程は、またホームルームで連絡するから待っとれ」
一人焦っていた自分が途端に恥ずかしくなった。杞憂も杞憂。それだけ焦っていた。
「どうかしたのか?」
安堵したのが表に出ていたらしい。加藤先生の視線を受け流し、「いえ、なんでも」と答えて、この場を去ろうと椅子から立ち上がる。早く黒須に会いたい。
会って、質問攻めにしてやる。そう意気込んだ束の間、加藤先生に呼び止められる。
「おい、話はまだ終わっていない」
「追試のこと意外でなにかあるんですか。俺は何もやらかしてませんよ」
「お堅い教師どもから逃れる口実みたいなもんだからなー。追試決定した奴は他にもいるし。ほら、鈴木の隣の席の坂井も世界史で赤点取ってるぞ」
「坂井くんは頭が良いはずなんですけどね」
「なんで、うちのクラスから二人も追試行きを出さねばならん。教えるのは他の教師、覚えるのは生徒の責任。なのに、なんで担任であるだけの私が叱られなければならないんだ。あのハゲトンカツ……今に見てろ」
「担任の教師と言っても朝と帰りのホームルームくらいにしか顔を出しませんしね」
俺は愚痴を聞くために呼び出されたのだろうか。身から出た錆なので甘んじて請け負う。
坂井がテストでミスをするのは稀だった。一年の時は平均点以上を常にキープしていた。一学期はバイトに追われ、忙しかったからだろう。
しかし先生、個人情報をばらしていけないのでは。
「あのハゲトンカツ、頭に蛆でも湧いてるんじゃないかなー。今月の学年便りも私に編集押し付けやがってなー、私が学生の時から何も変わっちゃいない。そーいや、ハゲト……あぁ学年主任の富田先生なー、鈴木と坂井のこと言ってたなー。お前ら陸上やってたんだって? 夢からそんな話を聞いたことがあったけど、今はいいか。えみだよ、黒須えみ」
椅子に座りなおすと、俺はしばらく沈黙する。聞き間違いではなかろうか。
加藤先生は黒須の名前を口に出した。この学校の教師だから、一人の生徒の名前くらい知っていて当然か。だが何故、俺が黒須のことを知っているという前提で話題に出す。
先生は頬杖をついて、考え事をするように目を瞑った後、ものぐさそうに言った。
「ハトが豆鉄砲くらったような顔されてもなー。考えてもみろ、学校が一生徒に屋上の清掃を任せると思うか?」
重い溜め息まで吐いた様子から、手を焼いていることが目に見えてわかる。
「まっ、他の教師の連中に気付かれんよう苦労はしたさ。厄介者の黒須が屋上にいるなんてことが知られたら、強硬手段に出る教師がいないとも言い切れん。そうしたら黒須が何を仕出かすか……考えただけでも恐ろしい」
加藤先生は黒須について知っている。
俺は知恵のない頭を振り絞り、俺が一年生の時に別クラスの担任として加藤先生が勤めていたことを思い出す。入学式、体育館の舞台に立っていたような気がする。
そこからは簡単な発想の連鎖だった。キーワードの黒須が次々に当てはまっていく。
「黒須と笹倉さん、それに大塚さんは同じクラスにいて、そのクラスの担任教師が加藤先生だったんですね」
「あの子たちは仲が良かったさ。けど、私がそれに気付いた時には、既にその関係が崩れていたんだ。全員から、それぞれ事情を聴いて、少しでも力になってやりたいと思ったよ。そうしたらあいつら執拗に拒むんだ、自分たちでどうにかするって言って聞かないんだ。それとも時間がどうにかしてくれるとでも思っていたのかね、大馬鹿もいいところだよ」
加藤先生は陰鬱に語る。両手を組み、爪が食い込むほど力を入れて悔しがっていた。
「すまない。鈴木、お前を巻き込んだのは出来心だった。黒須のことを誰かに押し付けて、逃げたかったんだ……教師失格だな。黒須のことがあってテストもまともに受けられなかったんだろう。もう屋上掃除はしなくていいから」
「待って、待ってください。俺は黒須と会うのをやめませんよ」
「……お前、マゾか。傷つくのはお前だぞ。バラに触れる好奇心は中学生で卒業しておけ」
「他人に屋上の鍵を渡しておいて、それはないと思いますけど」
俺がそう言うと、先生は黙ってしまう。
「とにかく、先生がなんと言おうと、俺は今から黒須に会いに行きますから」
先生には感謝している。生徒指導室から出て、屋上へ向かおうと扉に手をかける。
「私は黒須に合わせる顔がない。困ったらいつでも頼ってくれ」
先生は最後にそう言ってくれた。
屋上の扉の鍵が開いていて、一抹の不安が和らいだ。いきなり屋上に行かなくなったので、黒須の機嫌が心配だった。断言はできないが屋上に入れるということは、黒須が接触を望んでいると判断できよう。
扉を半分ほど開けたところで嫌な予感が脳裏を過る。黒須は普通の女の子、そう言い聞かせてきた自分を一旦、取り払う。確かに笹倉さんのように笑うことができる黒須だが、校舎屋上から平気で飛び降りるサイコパスでもある。
飛び降りるという言葉をかき消すように、思い切り扉を開けて叫んだ。
「黒須!!」
「うわっ。ってなんだ先輩か。どうしたんですか。というか大きな声出さないでくださいよ。誰かに見つかったらどう責任とってくれるんですか」
青い空の下、フェンスの内側で黒須はちょこんと座り、『葬らんバット』を貪っていた。
肩の力が抜けて俺は落ち着いた。それにしても、旨そうに食べるやつだ。
「昼飯、作ってきてやったぞ」
「おお、マジですか。太っ腹ですね」
俺は弁当を渡し、感嘆する黒須の隣に腰を下ろす。怒っていると思っていたが、黒須がいつもどおりで安心した。
「先輩、テストどうでした?」
「赤点追試決定おめでとさん、だとよ」
黒須は「通達早いですね。おめでとです」と言って嫌らしく笑う。ひねくれ者だ。
「お前の方はどうだったんだよ」
「一年前に見聞きしている内容ですから、勉強しなくても楽ちんでしたね。一年生の最初の中間試験なんて中学校の復習みたいなものですし」
弁当箱を広げて黒須は黙々と食事に耽る。急いで食べるものだから喉につっかえたようで、俺は持参した水筒を渡した。コップに注がれた茶を、顎を上げて勢いよく飲むと黒須はまた掻き込むように弁当に食らいつく。
俺も念のために持ってきた弁当を食べ始めた。食欲旺盛な黒須を見ていれば腹も減る。
食事をする黒須を見るだけでほっこりできた。天気もよく、風が気持ちいい屋上に眠気を誘われる。テストも終わって今日の午後は暇だ。
ゆったりと流れる雲を眺め、心地いい風に難しいことを攫っていってもらう。黒須も呆けて空を見上げている。足元に置かれている弁当箱を回収した。
「ごちそうさまです。今日も美味しかったです」
「おそまつさまでした」
「テストだったのにわざわざ作ってきてもらってすいません」
「気にすんな。いまからどうする? 鉄塔でも見に行くか?」
短い髪を弄って黒須は「デートもいいですけど」とだけ言って、それ以降、返事をすることはなかった。目口を閉じ、黒須はフェンスに体を預ける。
黒須が何を考えているのか知りたい。我慢して日が沈む、別れの時間を待つ。屋上はこんなにも殺風景だと言うのに、下からは学校で昼食を済ませて、これから遊びにでも行こうとしている生徒たちの騒がしい話し声が聞こえてきた。
部活動の活を入れんとばかりの声援がやかましく思えた。体育会系のノリは嫌いではないが、もっと静かにやれないでもないだろう。
ただ過ぎていく時間になにもせず、呆けているのは得意だったはずなのに、俺は耐え切れず、パンを買いに一階まで下りた。80円の餡パンとつり銭を手に、屋上へ戻る。
黒須は仰向けになって寝ていた。フェンスを枕にして、気持ちよさそうに寝息を立てている。食べてすぐ寝ると牛になるとはよく言うが、痩せ気味の体が少しでも肥えてくれるなら嬉しい。
そっと、黒須を起こさないように気を付けながら、俺も寝ることにした。
寝る前まで意識が確かにあった。次に目を開くときには、橙色の光が辺り一面に広がり、寝ていたという事実だけが残る。未開封の餡パンの袋を摘まみあげて、おぼろげな意識で黒須の方を見た。黒須は無表情をこちらに向けている。
「食べるか?」
俺は餡パンを掲げると「餡子なんて邪道です」そう言って黒須は自分のバッグを掴み、中から『葬らんバット』を取り出す。包装を破り、艶のあるチョコレートでコーティングされた黒い棒を、一口で半分ほど食べてしまう。
「昼飯といい、本当に旨そうに食べるよな」
無表情だから、一口一口懸命にけれど勢いよく食べる仕草が似合うのだろうか。
「先輩の弁当も『葬らんバット』も美味しいんですから仕方ないじゃないですか」
「たくさん食ってもっと肉付けろよ。お前やせすぎ」
「先輩は元陸上選手にしては、もやしすぎませんかね」
「誰がもやしだ、誰が。普通こんなもんだよ、うちの陸上部見て来いって。むしろ中学だけでこれだけ体を鍛えて成長させたなら褒めてほしいくらいだ」
「だって世界陸上で見た陸上選手って、もっとこうゴツくてムキムキマッチョマンでしたよ。そりゃ大人と子どもを比べるのもどうかと思いますけど。あれホントに日本人ですか。アメコミのキャラか何かですって絶対」
「あれだよ、ほら。あの人は地球を救いに生まれてきた日本生まれのヒーローだ」
「ヒーローって……ちょっと先輩、思考が幼稚すぎません?」
後輩ではなく同年代なので、無礼講として見逃してやるとしよう。甘い物は気持ちを落ち着かせてくれる。寝起きの口を茶で洗い流し、餡パンをかじりながら黒須に聞いた。
「今日はよく喋るのな」
「決心つきましたので、気分がいいんです」
無表情は変わらない。黒須は徐に立ち上がり、俺の目の前にきた。顔を近づけてくる。
聞いてほしいのか、「どうした」と尋ねるまで黒須は口を開かなかった。
「ヒーロー……先輩にはヒーローがいますか?」
「なんだよ急に」
「恩人とかそんな感じの人です」
初めに思い浮かべたのが、夢だったことに一人苛立つ。女々しいったらありゃしない。
「いないかな。誰かに救われるほど悲劇のヒロインやってないし」
「ヒロインて……悲劇のヒロインて……ぷぷぷ」
黒須は口元を絆創膏の貼られた手のひらで隠す。
誰かをしばき倒してやりたい衝動に駆られたのは、生まれて初めてかもしれない。坂井でさえ蹴りを入れる程度、ちゃらちゃらしている陸上部の後輩にも抱いたことはない。
相手は女の子、ここは男として堪えなければ。俺が切れやすいだけだ。
「お前、ヒーローが好きなのか。この間もデパートの屋上にいたよな」
「戦隊物とか大好物っすね。桜には負けますけどね。あの子、私に影響されたのに私よりも詳しくなっていって、もうびっくりですよ」
「お前が原因だったのか」
「原因とは人聞きの悪い。あの子はヒーローオタクとしてこの星の下に生まれてくる運命だったんですよ。もしくは私と出会ってヒーローオタクになる運命を背負っていたんです」
出鱈目なことを論じる。いつまでも純粋な子どもの心を守ることはとても美しいことだと思うから、迫害するつもりは微塵もない。
ヒーローオタクではないにしろ、俺も取り戻そうとしている。たった十数年しか生きていないのに小石に躓いていては、この先の人生、どうなってしまうのだろう。
「俺にもその、なんだっけか、忍者マスク?」
「デパートでやっていたショーですよね。忍戦士マスクマン」
「俺も見るようにするよ。早起きするのは苦手だけどな」
形からでも悪くはないはずだ。先のことばかり考えていたら、鬼に笑われてしまう。
黒須にはぎょっとされてしまう。
「なんだよ、俺が何を始めようと俺の勝手だろう」
「意外でした。先輩って、頑固で面倒くさがりな人だと思っていたので」
「俺もそう思っていたよ。変わろうと思ったんだ」
俺はタイミングを見計らって立ち上がり、黒須と向き合う。
こうして黒須と話しているのは楽しい。だがこのままでは、黒須の傷跡は増えるばかり。
「黒須、聞きたいことがある」
意を決し、黒須から聞き出す。
「お前はどうして、イジメを受けている。イジメを受けなければならない」
「やっとですね。待ってました。私も先輩に――平治に伝えたいことがあったんです」
冷たい笑いを残して、黒須は俺の前からいなくなろうとする。
扉に向かう黒須に「おい!!」と怒鳴り声を上げた。
「明日の放課後、ここに来てください」
横暴だ。俺は屋上に置き去りにされる。いいように使われているようにしか思えない。
それでも俺は、餌付けされた犬のように此処へ来る。
帰宅すると母が子どものようにはしゃいでいた。聞いてほしそうな顔をしている。
「笑い過ぎるとシワが増える」
ゲンコツで頭をぶたれた。俺はおとなしく母と食卓につく。
「お父さんと稲穂ちゃんからメール。メールが届いたの」
「あの二人と連絡取れてなかったの?」
「ううん。お父さんとは何度もメールのやりとりしてるわよ。稲穂ちゃんは、今月になってから友だちと一緒にケータイを選んで買ったんだって。二人とも元気そうでなによりね」
倦怠期を知らないのか。父母は偉大らしいので、妹のことを一番に考える。
妹は笹倉さんに並ぶほどまじめでまともな人間に育ってくれた。サッカー以外の運動はからっきしだけれど、頭は良い。辺り障りのない性格もしている。
嫌われるようなことはないだろう。けれど、それと友だちが出来ることではまた別の話になる。小学生のころは弱々しく、金魚のフンのように俺の後ろに引っ付いていたから、同学年の子と遊んでいる妹を見たことがない。
学生寮で生活でき、見知らぬ環境で友だちまで作れる妹に寂しさを覚える。
「稲穂ちゃん、お兄ちゃんのこと心配してるわよ」
おまけに兄想いだ。誰にでも自慢できる妹だ。
母は箸を置いて携帯を開き、妹から届いたメールを読んだ。
「いつまでもだらけていないでね、だって」
タイムリーな問題だ。妹に言われなくても分かっている。
食器を片づけて熱い風呂に肩まで浸かり、長く細い息を吐くと体中の疲れが抜けていく。
自分の腕を摘まみ、衰えた筋肉に苦笑いする。情けない体をしていては気遣われもする。
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放課後まで待つ時間が惜しい。朝早起きして着替えをして家を出ても、通学路が普段の何十倍も長いように思える。
「風邪でもひいてるんじゃないか?」
学校に着いて、坂井と話をしていると顔色を指摘された。
「保健室、行った方がいいと思うぞ」
「緊張と不安で体調が悪いのかもしれない。陸上の大会みたいに、大勢の人の前に立つわけでもないのになんでだろうな」
「なんだよ、勿体ぶって」
「女の子に告白されるんだ」
「え、年中怠けているお前が? ありえない、ありえないって……あ、そうか……察してやれなくてごめんな。お前疲れてるんだ。ちょっと保健室行こう。肩貸してやるから、な?」
「告白ってのは悩みの告白とか、たぶんそういうのだよ」
「おいおい、じゃあ相談相手のお前がそんな調子でどうするんだよ」
「俺がその悩みを解決できるか、不安なんだ」
「その子のこと知らないけど言わせてもらう。その子はお前を信じて悩みを打ち明けることにしたんじゃないのか。なにウジウジしてんだよ。気張って受けとめてやれ」
「女子が絡むと熱くなるよな。どこからそんな活気があふれてくるのやら」
「あわよくばその子とくっついて、早くホモ疑惑を解いてくれ。今朝も他のクラスの女子に聞かれたんだよ。どうなってやがる」
「俺は無関係だからお前がどうにかしろよ。とばっちりを受けてるのは明らかに俺だろ」
黒須と付き合う、などと考えもしなかった。この問題が解決すれば自然とそういう関係に発展するのだろうか。確かに外見は好みだが、性格に一癖も二癖もある黒須が恋人になることを想像できそうにない。円満な友人関係を築いていきたいものだ。
昼休みは埃臭い屋上の扉の前に座ってぼっち飯。笹倉さんたちに誘われたが遠慮した。あのグループに男は坂井一人だけだが、むしろ坂井にとって願ったり叶ったりである。
六時限目の終業ベルが鳴り響き、ホームルームで学生の一日が締めくくられる。俺は教室を出て人混みが消えるのをトイレで待ってから、誰にも見つからないように足音を忍ばせて階段を上る。冷たいドアノブを握りしめ、一呼吸おいてから屋上に踏み出した。
屋上からの眺めはいつ見ても綺麗だ。点々と生え揃う木々に澄んだ空。綺麗に並ぶ家では母と子どもが夕食の支度をしていて、父の帰りを今か今かと待っていることだろう。
昼休みに黒須がいつも座っている地べたを先取りしておく。体を揺らしてフェンスを軋ませる。あとは黒須が来るのを待つだけだ。
扉に目を凝らし、たびたび水筒に口をつけては喉の渇きを潤した。黒須がイジメられているというのは仮定に過ぎない。もしかすれば、愛の告白かもしれない。
日が傾いていく中、家庭内暴力という懸念を振り払い、ありえない期待を胸に待ち続けた。黒須はまだ来なかった。
「……ない。お前ら…………けない」
耳をかすったその声は、真下の方から聞こえた。俺が屋上に来てから一時間ほど経つ。
振り向いて地上を覗くが誰もいない。幻聴かと思ってまた扉の方に意識を集中すると、また遠くから声が聞こえてきた。
「お前らなんかに……お前らみたいなクソどもに……」
後半はよく聞き取れなかったが、張り上げて出した声だということだけは分かる。
向かいのフェンスまで歩き、下を見下ろす。金網と校舎の狭い間、そこには三人の生徒が一人の生徒に迫っていた。膝をついている髪の短い一人の生徒は、黒須だと確認できた。
あとの三人の生徒には見覚えが無い。三人の内、一人は体格の良い男だった。
男は黒須の前に出て、足を振り上げた。繰り出された蹴りは黒須の横っ腹を捉えて、その小さな体を金網にぶつける。後方で見ていた二人の女子が男に何か話すと、三人とも黒須の前から去っていった。
金網を支えにして腹を押さえながら立ち上がる黒須を、俺は黙って見ていることしかできなかった。フェンスの痕が残った手を握りしめて黒須が来るのを待った。
扉を開けて入ってきた黒須は、まだ腹を押さえていた。
俺を見つけると黒須は薄らと笑みを作り、フェンスに背を預け、ずるずると座り込む。糸の切れた人形のようだった。
「女の子のお腹を蹴るなんて、ありえないっすよね。いたたたた……久しぶりにキツいの貰っちゃいました」
「俺に伝えたいことってのは、あれのことなのか」
「今日は派手なやつですけど、普段は小さな嫌がらせですね。階段から突き落とされたりとか、下駄箱に生ゴミ突っ込まれたりとか。生ゴミってわざわざ家庭科室から持ってきてるんですかね。鼻つまみながらせっせと仕掛けていると思うとクスッときます」
「なあ黒須。平気そうにしていられるお前が、俺には分からない」
「実際に平気なんですから、無理もありませんよ」
「平気って、怪我してるじゃねえか……暴力ふるわれて、怪我して、痛い思いして辛いとは思わないのか! 助けてほしいから、俺を此処に呼んだんじゃないのか!」
「先輩、静かにしてください」
「……知人が、あんな目にあっていたら誰でも熱くなる」
「先輩はどうして熱くなってくれるんでしょうか。知り合いを傷つけられたことに対する怒り。暴力に対する嫌悪。きっとそれらは先輩を象る正義から発せられる感情ですね」
「いつからだ。いつから、ああいう目にあっている?」
「詳しくは覚えていませんが、たぶん中学二年くらいじゃないですかね。何が発端だったのかも、どうでもよくなって忘れました。たぶん私がパシリになっていることに気付いて、反抗してからだったと思います」
「さっきの奴らはお前と同じ出身校のやつらか」
「学年は先輩と同じ二年ですね。あと三人くらいいます。いや、中三のときに中心人物が転校しましてですね、取り巻きもだいぶ大人しくなったと思ったらこれですよ。まさかこっちに戻ってきていて、同じ高校に入学していたなんて、世間は狭いもんですね」
「クラスは、名前は?」
「それを言ったら先輩は殴りに行っちゃうでしょう。困るんですよ、そういうの」
「それであいつらが逆上して、お前を襲うようなことがあったら、俺がお前の代わりになって殴られでもなんでもしてやる。俺はお前の助けになりたいんだ」
「先輩が痛い思いするだけですよ。私はそれをただ傍観しているだけ。それでも先輩は私を助けたいと、そう言うんですか?」
「嫌とは言わせない。俺は決めたんだ」
「先輩、優しいですね。けどその気持ちだけで十分です」
「気持ちだけで済ませるつもりはないからな」
「だから大丈夫ですって。先輩は私の言うことを信じてくれないんですか」
「あんなことされて、傷だらけの体で言われても説得力ない」
「分からず屋ですね。まあそんな先輩だから、こうやって今も話をしているんですが」
「あと先輩じゃなくてきっちり名前で呼んでくれ」
「前に何度か呼びましたけど、平治で構いませんね。後輩プレイがお望みならいつでも言ってくださいね」
「不快ってわけじゃないんだ。同じクラスで机を並べて勉強していたかもしれないのに」
「他意はないんで気になさらず。あいつらがいなかったら先輩とも、桜とも千尋ともずっと友達でいられたんでしょうかね。それはそれで悪い気はしないです」
「まるであんな目に合うのが嬉しい、みたいな言い方だな」
「こうして平治の強い正義に対峙する日を待っていたんです。平治の正義は私の正義を証明するのにうってつけなんですよ」
「証明って、何を証明するんだよ」
「私の正義です。私の正義は悪を挫くことができるのか、平治で試すんです。平治は私の壁となる正義です。誰かに影響されたわけでもない正義なら尚更です。私の正義を生かしている正義に勝つことができれば、正しかったことを世に知ってもらえます」
「お前は、お前の正義とやらを世間に誇示したいんだな」
「えみです。平治だけでは不公平ですからね、私のことも名前で呼んでもらいます」
「……えみ、お前の考えていることは分からないが、満足するまで付き合ってやる」
「ありがとうございます」
「あと一つだけ、聞きたいことがある」
「どうぞ、なんでも聞いてください」
「友だち少ないだろ。俺も無愛想で協調性のない性格だから少なくてな。よかったら友だちになってくれないか? いままでは先輩と後輩の関係だったから」
「私は唖然しました。先輩と後輩でも、友だちは友だちでしょう」
「先輩と後輩は先輩と後輩だろう。これだけは譲れない」
「いやいや、友だちですって。あー、先輩って陸上部でしたね。上下関係の厳しい部活だったなら仕方ないっすね」
「おい、また先輩って言ってるぞ。やめろ」
「平治が先輩先輩やかましいから。まったく、私はそれ以上の関係でもいいんですけどね」
「やめてくれ、想像できない」
「失敬な人ですね。私は友人だと思っていたのに、平治はいままで友人じゃなかったって言うし。傷つきました」
「遊んで年下の振りなんかするからだろうが」
「年下の振りをしたわけじゃありませんし、リアル後輩ですからね。紛らわしいのは確かですけど。もう日も沈んじゃいましたから、私、そろそろ帰りますね」
「一緒に帰らないのか?」
「また今度、機会があったらそうします。あぁ、忘れるところでした」
立ち上がろうとする黒須に手を貸す。蹴られた所が癒えていないようだ。
「無理するな。もうしばらく休んでいけって」
「――明日から屋上に来なくていいです」
よろよろと細い二本の足で体を支える。俺の手から黒須は離れていった。
俺はポケットに入っていた小銭を取り出して、一枚ずつ投げて渡した。
「もう私にデレデレっすね。感謝してますよ」
屋上から黒須を見送った。
身を潜めながら職員玄関前で加藤先生を待つ。携帯の電池も切れて、頼りになるのは腹時計。喉を通らず残しておいた白飯を食べていると、腹の出た中年の教員に見つかった。
いかつい顔で凄まれる。直感が警鐘を鳴らすが、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。
「21時以降、生徒が校内に残ることは禁じられているはずだが」
「す、すいません。ちょっと担任の先生に用事があって」
教員に「名前と学年を言え」と威圧される。補導や職務質問されている気分だった。
「鈴木平治か……部活動にも入らず、学生の本分を見失い、こんなところで油を売っているから赤点なんて取るんだ」
教員の言葉が耳に痛い。教員は陸上部顧問、兼学年主任の富田先生だった。
説教が始まると、阻止するかのように加藤先生が現れて富田先生を強引に押して帰す。
「根はいい人なんだけどなー。いかんせん、小うるさいんだよなー。それで、なんでこんな時間に。相談しろとは言ったが、なにも今日中に来なくても」
「黒須に屋上へ来るなって言われました。けど、屋上掃除は続けるつもりです」
「屋上掃除はもうしなくていいが、黒須は拒絶したわけじゃないんだな」
「はい。先生に聞きたいことがあるんです。黒須のいる教室はどこですか」
「んー、1年B組だよ。まさかそれだけのために学校にきたのか」
「放課後、黒須と別れてからずっと待ってましたよ。加藤先生は他の教師に勘付かれないようにしていたので、俺もそうしなければ」
「お前、面白いなー。私の事は気にしなくていいんだぞ。ほら、車で送っていってやるよ」
先生のワゴン車に乗せてもらい学校を出る。車での下校は新鮮だった。
「荒れている学校じゃなくても、問題は起こるもんだな」
「陰湿な人が集まりやすいのかもしれませんね」
「お前、黒須に母親がいないことを聞いてるか?」
「え、初耳です。父親の話は黒須から直接、聞きましたが」
「子どものころに亡くなっているんだ。母がいない、自分がしっかりしなきゃいけない。そう思っているから、あんなに強くいられるんだろうな」
「高すぎるプライドも考えものですよ」
「本人がそれで良いなら、それで良いのか。良くないよな」
適当なところで降ろしてもらった。家の食卓には冷めきった料理が並んでいて、俺は黙々と夕ご飯を食べきる。本を読みながら、ごろごろしていると、ふと本の題名が気になってしまい、本の扉まで指が戻った。