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busy  作者: 人事
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第五話【二人ぼっち】

 五月に入って初めての曇天日和だった。傘を差しての登校は気分が乗らない。家にUターンして引きこもり、屋根を打つ雨足の音を耳に入れつつ、ゲームか読書でもしていたい。温かい毛布に(くる)まって、温みに(うつつ)を抜かすのも捨てがたい。

 僅かばかりに空気が冷たく感じられる。雨雲の下を歩くのは好きではない。テレビの砂嵐に似た気味の悪い音がするから、他の事に意識を集中させていたい。考え事だけでは雨が地を打つ音を紛らわせない。

 重い足を引きずるようにして登校した。教室に着くなり、坂井に捕まってしまったので夢に話しかけられなかった。話の合間を縫って、ちらりと様子を伺う。

 内心、不安ではあった。奇跡的に致命傷を免れて病院で治療中している。そんな懸念の一端を拭いきれず、足踏みをしていたため、こうして顔が見られただけでも喜ばしい。

 笹倉さん、大塚さんと姦しくしていた夢も、同じように視線を向けてくれる。

 坂井に「どうしたんだ?」と聞かれる。饒舌(じょうぜつ)な坂井のオチが無い話を無視していた訳ではなかった。聞き流していたつもりでもなかったが、不快な思いをさせてしまったのかもしれない。

「変な顔してた?」

 頬を叩いて自分の表情を調べる。

「睨みを効かせる番犬みたいだったからさ。地獄の番犬ケルベロス」

 坂井は八重歯をむき出しにして、唸りながら両手を掲げる。可愛くはない。

「ごめん。話は聞いていたんだ」

「高橋夢のことが気になってるんだろ。見てりゃ分かるよ」

 坂井の思考と俺の思考が同じものとは限らない。

「俺は睨んでいたんじゃないのか。変なことに期待しているんだな」

「愛と憎しみは紙一重って言うだろう」

 どうにも坂井は勘違いしている。自身の境遇もあってか、他人の色恋沙汰に興味があるらしく、俺には到底理解できない。

 酔っ払っている。そんな風に見えなくもない。なんだか嬉しそうだ。

「お前って、そんなに恋バナ好きだったっけ」

 正確には他人の恋路に、だ。何気なく尋ねてみた。

「違う違う。あんまり、こんなこと言うのも何だけどさ。高校あがってから、なんつーの。そう、平治の真剣な顔を見てなかったから、ちょっと驚いた」

 口の端をそっと吊り上げ、坂井は失笑した。その笑いは誰に対しての笑いなのか。

 俺が陸上を続けなかったことに、坂井はまだ責任を感じているのだろうか。坂井が怪我を悪化させなくとも、俺は陸上を辞めていた。なるべくしてなっただけだ。

「冴えない顔で悪かったな」

「わりぃ。めんご、めんご。トイレ行ってくるわ」

 坂井は椅子を鳴らして立ち上がり、教室から出ていく。滑って転びそうになっていた。

 追おうとはしない。拳を交えてでも話し合わなければならない日は、確実に向こうからやってくる。焦らず気負わず、待っていればいい。

 昼食をどうするか考え、行き過ぎた妄想を制御する。

 下校時刻になってから夢を捕まえようとしたが、まんまと逃げられてしまう。昼の間もどこかに行っていた。なにがなんでも捕まりたくないらしい。代わりに、女子生徒に呼び止められた坂井を見つけたが、見なかったふりをするのが友人の役目だろう。

 夢を諦めきれない。あいつは俺と同じで、高所から落ちても無傷で生還できる体の持ち主らしい。信じるしかない。現実を叩きつけられ、知りたいという探究心が湧いてくる。

 不死身を体感した人間は、不思議体験に対する免疫が上昇するようだ。

 元から感情表現や協調性、感受性に乏しい性格が相乗効果を生み、鉄の心臓を生成した。

 ちょっとやそっとのことでは、俺も驚かない。

「あ、いたいた」

 黒須に愚痴を聞いてもらうため、屋上に続く階段を上っていると声が降ってきた。女の子の声に体を強張らせてしまう。鉄の心臓とは一体なんだったのか。

 屋上との境目である扉の前には、大塚さんが待ち受けていた。第一声から察するに俺を探していたらしい。

「なんで大塚さんがこんなところに」

「せんせーに頼まれてね。雨だから屋上掃除はしなくてもいいって」

 それは悪いことをさせてしまったようだ。俺が謝罪を述べると、大塚さんは「練習試合が昨日あって、今日は休みだから」と返してくれた。

「いつも掃除してるんだね」

「罰みたいなもんですから」

「なにやらかしたの。大人しそうにしているのに、過激な一面もあるのかな。そういえば桜から聞いたけど、痴漢さんを追っかけて地平線まで突っ走っちゃうような人だったね」

「笹倉さんを危ない目に合わせたから。屋上掃除が罪滅ぼしになるとは思っていないけど」

「おまけに謙虚と来たもんだ。うんうん、惚れちゃうね」

 腕を組んで頷く大塚さんに、俺は苦笑いを浮かべた。冗談でもどう反応すればいい。

 七面倒というほどでもないが、夢に似ている大塚さんと話すのはあまり得意ではない。

「あれ、帰らないの? なら、私と桜と夢で勉強会をするんだけど良かったら一緒にどう?」

 大塚さんは俺と入れ替わるように階段を下りて行ったが、途中で立ち止まる。

 魅力的なお誘いだ。それでも俺はドアノブから手を外さない。

「外に置いてある清掃用具を片付けないとね」

「それくらいなら私も手伝うよ」

「待たせたのに、そこまでさせるわけにはいかないですよ」

「……ははーん。勉強会に参加したくないんだね。ずっこいな。じゃあ頭の悪い私は二人の家庭教師に扱かれてきますよ」

 納得してくれたようで、ぴょんぴょん跳ねながら今度こそ帰って行った。ちろちろと跳ねる後ろ髪が、小さくなるまで見届けた。

 できれば、夢と会いたくない。逃げるなら勝手に逃げろ。勉強をしたくないとか、笹倉さんに手取り足取り教えてもらうとか、下種な考えは雀の涙ほども持ち合わせていない。

 清掃用具入れのロッカーには、やはり清掃用具はない。ロッカーから引っ張り出した長靴を履いて、冷たいドアノブを捻って屋上に出た。雨足は弱まっていたので、傘を差さずに済んだ。



 屋上一帯に薄く張られた水は、すす汚れた絨毯のようだった。歩くたびに水の膜が破れて、灰色のくすんだ波紋を生む。まだまだ掃除は続きそうだ。

 デッキブラシとバケツを持って扉の方を向くと、貯水タンクの影に黒須を見つける。

 俺は湿った掃除用具を放り捨て、黒須の細くて折れそうな腕を掴んで屋内に連れ込んだ。黒須の体は、頭から足元までぐしょぐしょに濡れていた。

 雨が弱まったのは、俺が夢を取り逃がして校舎に渋々と戻ってきた、つい先ほど。

「なにやってんだよ。保健室からタオル借りてくるから待ってろ」

 扉に寄りかかって座る黒須に怒鳴り声を上げた。自分でも驚くほど、大きな声だった。

 長靴も掃除用具と同じ要領で脱ぎ捨て、俺は階段を駆け降りる。三階から面倒臭くなって階段と階段の僅かな隙間から下を覗き、人がいないことを確認してから飛び降りた。衝撃は軽い。廊下は滑り易く、足に穿いているのは靴下だけということもあって、保健室から四階にたどり着くまでに五回ほど転倒した。

 階段は自力で上らなければならない。ありえない高度までジャンプすることができれば、落ちても無傷でいられる能力も有効活用できる。

「服、脱ぐんで、あっち向いていてください」

 タオルを渡した黒須にジト目で言われ、俺は煩悩を払うため、階段に腰を掛けて珍妙な自身の能力を考察することにした。

 水滴湿り気のある服が肌から離れ、乾いたタオルと肌の擦れ合う音が背中から聞こえる。変に意識し、想像してしまう。(みず)(まと)う華奢な体に柔い布地が宛がわれ、ゆっくりと白い素肌は拭われていく。

 地に落ち、破裂する水滴がイマジネーショオンを加速させた。黒須は裸だ。下着も外したかもしれない。しかし、それがなんだ。衣服と体が濡れたから、裸になって体を拭いているだけではないか。いかがわしい想像をしてしまう俺は畜生以下だ。

 替えの絆創膏を持ってきてやれば良かった。それが最後の良心だった。

「もう大丈夫です」

 その言葉を信じて振り向く。絞ってしおれた制服を着て、黒須は艶っぽい髪を弄っていた。髪が濡れていると、デコの広さがよく分かる。

「先輩になら襲われても良かったんですけど」

 冗談が言えるくらいなら、精神面上の心配は不要か。

 俺は制服を脱いで、ワイシャツ一枚になる。手に持った制服を投げつけて着せさせた。

「変なことを言うな、変なことを」

「鼻の下、伸びてますよ」

「お前のような容姿の子に惚れようと、お前に惚れることはありえない」

「私はこんなにアイラヴューなのに」

 それは初耳だった。俺はタオルを奪い、黒須の頭を思い切り拭いた。呻き声が漏れているが止めない。妹が一人増えた気分だ。世話がかかる。

「待ってるなら傘くらいさしてろよ。風邪ひかれたら先輩として立つ瀬がない」

「屋内で待っていたら千尋が来たから、急いで外に出たんです。めっちゃ寒かったです」

 千尋と言われて、誰の事をいっているのか理解できなかった。今さっき屋上の扉の前に立っていたのは大塚さんだ。不可解な矛盾は後に回し、連想して結びつける。

 人が来たから隠れた。特定人物に対した反応ではなく、誰が来ても黒須は逃げ出しただろう。状況を整理する。それではなぜ後輩のこいつが大塚さんの名前を知っている。

 ご近所さんなのだろうか。出身校が同じとも考えられる。黒須相手では下手に聞けない。

「ありゃ、千尋はなにも言ってないんですね」

 俺は腰に手を当てて渋い顔をしていた。黒須の誘導に成功する。純粋な心は泥で汚し、人間関係に怯え、計算高くなったものだ。

 人間だれしも無知に怯えているはず。卑怯と罵られても、開き直ろう。

「笹倉さんとも知り合いなんだよな。付き合い長いのか?」

「別になんでもないっすよ」

 含みのある否定だった。タオルの隙間に潜む瞳が、大きく見開かれる。

 黒須は下心を見抜いてきた。湿ったタオルを俺に押し付け、「チッ……」と聞こえるように舌打ちをした。勘の鋭いやつだ。

「先輩のこと段々と理解してきました。なんで先輩みたいな人が……ああ、いいです。そんなに知りたいなら話しますよ、私に落ち目はありませんし」

「嫌なら話さなくても」

「そういう申し訳ない程度の偽善、やめてもらえませんか。人じゃない、おぞましいものと話している感じがします。端的に申しますとウザッ」

 今のは全面的に俺が悪いと言えよう。謝罪を述べず沈黙して待つ。

 返事を待っていたのか、それとも他の意味があったのか、重い口を開くように溜めを作ってから、黒須は息を細めて静かに言った。

「私は平治と同い年です。留年したんですよ、留年」

 度肝を抜かれる。素っ頓狂に「は?」と声を上げていた。聞き返すつもりは微塵もなかったが、俺の中の黒須という存在を一から作り直す時間が欲しい。

「隠すつもりもなかったんですけど。立場上は上下関係となるので、これからも先輩と呼ばせてもらいます。皮肉とかじゃないんで気にしないでください。進級しなかった私が悪いんで」

「ややこしいから、まずその先輩って呼び方やめてくれ」

「立場上、一年と二年、後輩と先輩です。社会と同じようなものです。年下が上司でも逆らうことはできないでしょう」

 黒須は(かたく)なに呼び名を変えない。口調も荒くなり、憤りが見え隠れする。

 半月の間、偉そうに先輩として接してきた。上下関係に繊細な面も俺の悪い所だろうか。

 黒須がそう呼べというのなら、それに従おう。疑問が山積み状態なのだから、揉めて話の腰を折りたくない。

「お前は去年、入学して俺と同じ学年にいて、留年してもう一度、一年生をしている。そう言いたいわけだな」

 事実は小説よりも奇なり。詩人の残した言葉を軽んじていた自分が恥ずかしい。

「だいたい、そんな感じです……クシュンッ」

 可愛げのあるくしゃみだった。黒須は自分の肩を抱いて身を縮めている。

「家まで送る。だから今日はもう帰れ」

 鼻のすすりを了承と受け取り、先に階段を下りた。足音を重ねるように黒須は後ろから着いてくる。校内の自動販売機で温かいココアを買ってやると「熱くて甘い物、苦手です」そう、怪訝(けげん)な顔をされたので、強く押し付ける。

 どんよりとした天気は晴れる素振りを見せてくれないが、鬱陶しい雨は途絶えていた。いつもの帰路に着くため校門を出る。

「お前の家どこだ」

「西門から出た方が早いですよ。着いてきてください」

 忘れていた。缶をカイロにし、黒須は暖を取りながら踵を返した。

 道の作りは、東門に繋がる通学路と同じだった。なだらかな坂道だ。平地からは車の交通量の多い道を沿い、何度も歩道橋を渡って進んでいく。

「だいぶ歩くのな。自転車通学すればいいじゃないか」

「壊れちゃったんで」

「……壊れたなら仕方ないな」

 街中の一角。住宅街に建てられた神社を跨いだところに黒須の家はあった。敷地内にワゴン車のある、ごく普通な一軒屋の前で黒須は足を止める。

 帰宅途中で黒須が倒れる危険性を考慮していた。足取りも軽やかで、何事もなく家まで送り届けられたことに、ほっとした。立つ鳥跡を濁さずの精神で来た道を戻る。

「待ってください。折角だから上がっていってください。茶と茶菓子くらいだしますよ」

「礼をしてもらうために送ったんじゃない」

「茶に毒を盛るほど先輩が憎くありません。あと、先輩は他人の純粋な好意を蔑ろにする人じゃないですよね」

 ニヒルな笑み浮かべた黒須に逆らうように、家に上がらせてもらう。特色は見られず、かと言って見劣りするほどボロ屋でもない。綺麗に磨かれた廊下を行き、階段を上って黒須の部屋まで案内された。

 黒須の部屋も目立つ物のない、落ち着いた配色を施されていた。部屋の戸を開けて直ぐ左手にはクローゼットが置いてあり、部屋の中央にある木質のテーブルの下には、白いカーペットが敷かれている。右手奥には壁に面して本棚と勉強机が設置されていた。

 漫画でも読んで座って待っているように言われ、座布団を貰った。濡れたから風呂に入ってくるらしい。

 うぐいす色のカーテンや少年漫画と少女漫画の並ぶ本棚。女子の部屋の様子に目を配る。

 どっち付かずの中性的な部屋だ。寝具には敷き布団を使っていて、年頃の女子の部屋にしては華のない、そして無臭な空気が漂う。黒須らしい。

 本棚に伸ばした手を引っ込め、大人しくしている。変な気を起こすつもりもないが、じっとしていられなくなって携帯を開いた。

 未読メールが八通ほど溜まっていた。俺の携帯にしては随分と溜めこんでくれるではないか。坂井と笹倉さんと夢の名前が見られた。最初のメールは下校時刻直後に坂井から届いている。

〈どこ行ってんだ。加藤先生が呼んでるぞ〉

 屋上の件は大塚さんから聞いた。メールを順番に開いていく。次に開いた夢のメールの文末には、癪に障る顔文字が添えられている。

〈どやぁ……〉

 勝利宣言でもしたつもりだろうか。驕り高ぶるのも今の内だ。明日にでも、ぎゃふんと言わせてやる。次は笹倉さんのメールを開く。

〈千尋ちゃんと夢ちゃんと集まってテスト勉強するのですが一緒にどうですか?〉

 これも大塚さんに返事をした。残り五通も流し読みする。着信順はあまり変わらない。

〈後輩に告られた。断ったらホモ扱いされた。どうやらお前が原因らしい。なにこれ〉

 俺が知るか。返信するのも面倒くさい。

〈桜ちゃんの作ったパウンドケーキうまうま〉

〈大事な話があるんですけど今から会えませんか?〉〈来ないでください! 来なくていいです!〉〈違います違うんです。夢ちゃんと千尋ちゃんが勝手に送ったんですごめんなさい〉

 なにが起きていたというのだ。最後の笹倉さんのメールには、もはや原型を留めていない顔文字が羅列していた。勉強会とは名ばかりのお茶会ではないか。姦しいの「姦」という字が、二人の女子が一人の女子を胴上げしているように見えてしまう。

 三人の仲が良いに越したことはない。俺が横槍を入れて台無しにしないよう、細心の注意を払わなければ。手作りパウンドケーキは食べてみたいが我慢する。

〈また誘ってくれると嬉しいです〉

 返信を簡単に済ませた。相も変わらず愛想がない。

「なんすかそれ。彼女すか?」

 驚き、メールの内容を書き直す前に送信ボタンを押してしまった。無言で振り向く。

 黒須が突如として背後に現れる。扉の開く音は一切しなかった。両手が二人分の湯飲みと、茶請けで埋まっているのに器用極まりない。

 シャワーで済ませたのだろうか。カラスの行水並の入浴時間だったが、火照った肌をしている。温かそうなパーカーを着ている黒須は、茶と菓子を並べて俺の正面に座った。黒須の体調は良好そうだ。

「どうぞ食べてください」

「煎餅を食べさせるために家に上がらせたのか」

「『葬らんバット』もあるじゃないですか。で、さっきのメールは誰に送っていたんですか?」

 その準チョコレート菓子を食べさせるために招いたのか。目で意思疎通を図るが、無表情に気圧される。黒須の企みが読めない。

 俺は遠慮なく煎餅の袋を破って口に咥えた。癖になる固さと醤油の塩味をお茶で流し込み、気を落ち着けてから話す。

「笹倉さんに送ったんだ。お前が脅かすもんだから、単調な返事を送っちゃったんだよ」

「付き合ってるんすか」

 そうくるとは思っていた。知り合いだから興味を抱くのは当然か。

「付き合ってないよ。彼女にとって俺は知人程度の存在だからな」

「私以外には敬語なんですか。先輩にとって私は特別な存在?」

「お堅い性格なんだ、察してくれ」

 黒須は適当に相槌を打ちながら、ばくばくと『葬らんバット』を食していく。食欲旺盛な姿に当てられて俺も『葬らんバット』を取ろうとする。だが横取りされて無残にも空を切った。

「……で、なに。俺を家に上がらせてどうしたいの」

「送ってもらったのに、そのまま帰すのもどうかと思いまして」

「俺は気にしないけどな。お前が気にするならゆっくりさせてもらうよ」

 親切心に甘えたものの、他人様の部屋で横になれるほど、おこがましくありたくない。

 茶を飲んで黒須をちら見する。よくよく考えれば意外ではあった。

 黒須に友人がいることに、疑問を持つべきなのだ。体に傷を負っているのだから、あの優しい笹倉さんが心配にならないのも奇妙な話だ。

「私なら大丈夫です。数時間、雨に打たれたくらいで風邪なんか引きませんから」

 好奇心は猫をもうんたらかんたら。

「そうか。ならいいんだ」

 俺は口を閉じて、目蓋を閉じて浅い眠りについた。他人様の部屋で寝ることに抵抗は感じなかった。疲れている。黒須の許しは得たのだから、いいではないか。

 目を閉じて分かったことがあった。黒須の部屋には余分なものがない。ちらかっているわけでも、綺麗に整頓されているわけでもない。無駄なことを考えずにいられる。

 赤いペンキと白いペンキをぶちまけるだけの夢を見た。脈絡のない話で、それぞれバケツに入った二色のペンキを幾枚もの風景写真にかけていく。

 ぼやける視界を瞬きで戻し、黒須に時間を尋ねると、一時間ほど寝ていたことを知った。

「まぶたが重たくなる部屋だな」

「桜もそう言ってくれました。失礼だとは思わないんですかね」

「良い意味で言ったつもりだけど。時間的にもそろそろ、お暇するよ」

 背を伸ばして立ち上がる。節々の鳴る音が気持ちいい。

 煎餅を貰おうとした手に細い指が絡まる。黒須は睨んできた。

「知りたくはないんですか。聞きたいんじゃないんですか」

「お前は意味深な言葉を残し過ぎだ。馬鹿でも感付く。聞いて貰いたいなら素直に言え」

「そうですよ。先輩が聞きたくなるように仕向けていたんですよ」

 自発的に吐き出せば、負けたことになるのだろう。

「お生憎様、やる気がないんだ。無気力バンザイ。熱くなれない性分なんでね」

「……期待して、舞い上がっていたんですけどね。私の思い過ごしだったんですね」

 力なく解ける黒須の手がテーブルに落ちる。

 磨きのかかった無表情に見送られて、黒須の家を後にした。これでいい。



 帰り道、偶然にも坂井と遭遇した。テスト期間に入るからバイト先に顔を出して挨拶していたそうだ。

「シフトは先月に出したけど、一応な」

 すかしているのに、マメなやつだ。

 コンビニで『葬らんバット』を奢って貰い、近くの公園で時間を潰した。テストから逃げ出したい気持ちは合致する。

「あー、湿っている椅子に座るんじゃなかった」

 黙ってはいたが、やはり濡れていたようだ。帰ろうと立ち上がった坂井は文句を垂れる。

「じゃあな坂井、また明日」

 てっきり、帰ると思っていたので「あ、まて」と呼び止められたときは反射的に立ち止まってしまう。話題が尽き、その場の流れで解散になったはずだが。

 振り向けば、坂井は神妙な面持ちをしていた。バイト先で何かやらかしたのだろうか。それとも後輩の告白を断ったことに悔いているのだろうか。取るに足らない話をだらだらと続けていたのは、テストから逃げたいだけではなかったらしい。

 俺は先に口を開いた。

「人間関係、難しく考えすぎるなよ」

「……お前はどうなんだ」

 意外な返答に、頭の中で警鐘が鳴り響く。坂井は俺にとって都合の悪い事を言った。

「お前はどうなんだ。俺に気を使ってるのか? それとも俺への当てつけか?」

「急にどうしたんだよ」

「急なんかじゃねえよ。俺、陸上また始めることにしたんだ」

 坂井はもう走れないと思っていたので素直に驚いた。律義な坂井のことだ。一年間世話になったバイト先に恩返しのつもりで労働時間を増やしていたわけか。

「腰が治ったのか。復帰おめでとう」

 祝いの言葉を坂井は受け取らず、もの悲しい顔をする。

「治ってないけど始める。決めたんだ。だからお前も……」

「おいおい、ふざけるなよ。筋トレと走り込みの毎日なんて真っ平ごめんだ。応援するけど無茶はするなよ」

「……あぁ、ありがとう。考えが変わったら、いつでも相談してくれ」

「気を使ってるわけでも、当てつけでもない。安心しろって。俺は俺の都合でやめたんだ」

 家に帰るなり、『亜鵜屠』の文字が書かれた『葬らんバット』の包装を捨てて、俺はベッドに倒れた。歯軋りをするかのようにベッドが唸った。

 立ち上がりたくない。鬱な気分が頭から体に浸透していく。

 坂井が陸上を再開することには賛成だ。友人として喜ぶべきことでもある。

 黒須の家にお邪魔したから今日は疲れた。そう言い訳して、俺は夕ご飯も食べずに寝る。

 翌日、坂井は学校を欠席した。



 好きなことが見つからなくなった。興味を持てない。

 俺は今、そんな生活をしている。楽だった。陸上の経験もあってか、ギャップによって苦しい事よりも、疲れないでいることの方が魅力的に思えた。やる気が出ないのだから、どうしようもない。怠惰という言葉の響きが心地よく、横になることを体が望んでいる。

 がんばるって何だろう。幼い子供のように考え込んだ。

 努力しても失敗すれば、それで終わり。なら最初から触れなければいい。

 好きな子に認めてもらいたくてがんばっても、その恋が実るとは限らない。

 陸上だってそうだった。がんばって練習しても成果が出なければ意味が無い。坂井がいい例だ。人一倍がんばっても怪我をすればそれで終わりだ。

 自分のためにやる。綺麗事を並べられる奴が羨ましい。

 そうして俺はまた寝る。本を片手に寝て、夢を見て全部なかったことにする。

 黒須えみ。高橋夢。坂井翔。全員のことがどうでもよくなっていった。


     +


 テスト週間に入る前の最後のホームルームがあり、放課後は笹倉さんと作業に勤しむ。

 投票の結果、簡単なゲームコーナー、アトラクションが第一候補になった。ブーイングをしている生徒の意見をどう採用したものか。

「文化祭、楽しみだね」

「その前にテストがありますけどね」

 ノートにまとめることがそう多くはないので、教室に長居することもなかった。

 笹倉さんと二人きりで帰宅する。可愛い子の隣を歩くだけで心が癒された。

「勉強、捗ってますか? よかったらその、今からわたしの家で勉強したりなんて」

「迷惑じゃないですか」

「め、迷惑なんて思ってたら誘いませんっ」

「善意だけ受け取らせていただきます。一人で勉強したい気分なので」

 苛めているつもりはないのだが、しょぼんと笹倉さんの肩が落ちたように見えた。

 遊びたいのだろうか。笹倉さんだって人間だ。息抜きの一つや二つしたいだろう。

 俺は勉強をサボるわけにもいかない。集中できなくとも、テストの日は刻々と近づく。

 笹倉さんの家の前まで着いていった。今日も無事に送り届けることが出来た。痴漢の話題も耳にしなくなったから、お役ご免の日も近い。

 夕飯の話で盛り上がり、良い雰囲気のまま去ることができたのに、笹倉さんは俺を呼び止める。まだ話したりないと言ってくれるのなら、嬉しい限りだ。

「えみちゃん……あの子は元気ですか?」

 何かと思えば黒須のことだった。

「最近は顔を合わせていないんだ。けど俺といる時は元気でしたよ」

「よかった。あのっ、えみちゃんのこと宜しくお願いします。あの子、良い子ですから平治くんも好きになりますよ……あ! ちがっ、好きになるってとと、友だちとしてです。女の子とかそういうのじゃなくてですね、あのその」

 墓穴を掘って慌てだす。こういうところが初心でかわいいと思う。

「夢にでも任せれば、黒須の悩みも一発解決ですよ。笹倉さんも大船に乗ったつもりでいればいいんじゃないかな」

 俺は一人で笑っていた。笹倉さんとの温度差には驚く。

 クマにでも出くわしたかのように、笹倉さんは目を見開いている。

「すいません。軽々しく言うようなことではありませんね」

「平治くんは、えみちゃんのこと、どこまで知っているんですか?」

「ほとんど知りません。黒須さん自身、話そうとしないんです」

「気にならないんですか?」

「藪蛇ですよ。話したくない相手を刺激してどうするんですか。笹倉さんもそうなんじゃないんですか。正直、黒須が笹倉さんを友人に持っているのにも関わらず、悩みを抱えていること自体、おかしな話です」

「わたしは、わたしはいいんです。平治くんには、えみちゃんの傍に居てほしいんです」

「いくら笹倉さんのお願いと言えど、黒須のお守は任されたくないかな」

 押しつけが過ぎはしないか。自分が仲違いをしているから、人に任せようとしているのではなかろうか。黒須の世話をずっとするなんて真っ平ご免だ。

 黒須が飽きれば、俺も用済みになる。情を移すだけ無駄だ。

「そう、だよね……無理言ってごめんなさい」

 震える声で笹倉さんは言った。きつく言い過ぎたか。何か一つ声をかけようとしたが、すんでのところで止まる。

 笹倉さんは目を細めて笑っていた。強張っているようには見られない、自然な笑い。


     +


 土日を挟んだテスト三日前。ここ最近、坂井や黒須とはあまり口をきいていない。顔を合わせても挨拶をする程度だ。笹倉さんたちに勉強会に誘われることもあったが、断って一人で勉強していた。

 勉強が身に入らない。人並みには勉強が出来る方だと自負しているので、こうも集中できないと不安になってくる。

 放課後に夢が話しかけてきた。真っ先に教室から消えるため、追いかけることすら諦めていた。今は自分の身で精一杯だ。素っ気ない態度をとる。

 俺の心情を知らずに、夢は腕を掴んできた。抵抗することすらどうでもいい。

「元気ないじゃん。どったの?」 

 夢に連れられて道を歩いていく。

「テスト前に元気でいられるやつがどこにいる」

「そっかあ。そうだよね。じゃあ元気を出すために遊ぼうか」

 滅茶苦茶なやつだが、ここまで吹っ飛んでいると返って清々する。だからと言って遊ぶ気にはなれない。

「一人で勉強していたいんだ」

「一人じゃ無理だよ。一人じゃ何も解決しないよ。だから別のことしよう」

 おかしな理屈だ。夢の強引さにはいつになっても敵わない。

 しばらく歩き、俺は夢の秘密基地に案内された。起伏の激しい道を進んで砂利道を越え、山道を登った場所には、建設の中止された鉄塔が高くそびえる。

 学校の高さを約15mとして、八階建てのデパートが倍のおよそ30m。鉄塔はデパートの三、四倍近くはあるように見える。

 立ち入り禁止の看板を無視して夢と俺は鉄塔内部に侵入した。建設が中止されてから長い月日が経っているが錆の一つも見られない。エレベーターは作動しておらず、階段で上へ向かう。

「こっちに戻ってきたときにね、ちょっと辺りの地域を探索していたら、ここのこと思い出して探索しに来たんだ。誰もいないから秘密基地には持ってこいだね」

「誰かに見つかったら大目玉喰らうだろうな」

 四階の広いスペースで腰を落ち着けた。上層は危険と踏んだのだろう。鉄塔にはいくつかの階が存在した。階段を使えば、作りかけの頂上部のところまでいけるらしい。

 辺りを見回すと、本当にただ建てられただけの塔にしか見えない。送電塔でも、電波塔でもない。街を賑わわせることをコンセプトに造られた建設物。黒須の言った通り、塔内部から見渡せる景色だけは賞賛できよう。

 四階と言えど、侮れない高さに位置する。学校の屋上とはまた違う夕焼けが拝められた。街並みに沈んでいく太陽は儚く、胸を締め付ける。藍色の空が近くにあるように感じた。

 お互い、端に並べてある木椅子を持ってきて座る。

「上に行ってみたことはあるんだけど、高い所ってあまり好きじゃないんだ」

「しかも壁一つないからな。あとでガラス張りにでもする予定だったのかね。本当に、景色だけは一丁前らしいからな」

「だよね。綺麗な眺めでも見ながらまったりしようよ。私も勉強三昧で疲れたんだよお」

 まだテストは終わっていないのだけれど、水を差すのも悪い。俺は古文の教科書を取り出してテスト範囲のページを開き、虚ろな頭で黙読した。

 離れたところで勉強する俺に、夢は近寄ってきてブーイングの声を上げる。

「テストなんか忘れて、のんびりしようよ」

「俺はお前と違って凡才なんだ。綺麗な景色に(うつつ)を抜かすほど余裕が無いんだ」

「そういえば、ヘージ君はここに来たことあるの?」

 俺が「なんで」と聞けば、夢は難しい顔をする。

「ここから見えるこの風景が綺麗だって、誰かから聞いたような言い回しだったから」

「知り合いから聞いたんだ。鉄塔から一望できるこの街の景色には脱帽したってな」

 緑が多いわけでも、山に囲まれているわけでも、ましてや海が見えるわけでもないのに、自分の育った広く大きな街がちっぽけに見えるだけで、感動を覚える。

 黒須は幼少の頃に体験し、理解していた。つっけんどんな態度をしているのはその為か。目上に対して敬意を払っているものの、強気であることを隠さない。

「その子って、屋上にいた子?」

「……そうだが」

 夢からデパートの日のことを口に出すとは予想外だ。

 触れられたくない事情だと思って俺は自粛していた。話す気になったのか。

「そっか。そっか、そのようすじゃ、その子とはまだ仲良くなってないんだね」

「どういう意味だ? お前まで黒須のことを知ってるなんて言うなよ」

「ヘージ君なら、仲良しの友だちを私に紹介してくると思ったから」

 夢は離れていき、広い空間の端に立つ。飛び降りるかのように手を十字に広げ、くるりとこちらに体を向けた。

「さくらちゃんから聞いたよ。友だち少ないんだってね」

「大きなお世話だ。俺は一人でいる方が好きなんだ」

「はははっ。ヘージくんって私と似てるよね。嘘が下手すぎて、すぐ分かっちゃうよ」

「嘘だったらなんだっていうんだよ」

 嘘も方便と言うではないか。第一、俺が出しゃばったところでどうなるというのだ。疲れるだけと分かっているのに、人に深く干渉する意味が分からない。

 黒須にも坂井にも、俺は不必要。クールな俺かっこいい、なんて風に思ったことはないが、やる気のない奴が関わっても邪魔になるだけだろう。誰か他に的役がいる。黒須で言えば笹倉さんとか夢とか、とにかく俺でない誰かだ。

 疲れたのだから、もう適当でいいじゃないか。楽にさせてくれ。

「私みたいに損するから、やめた方がいいよって言いたいの。私も嘘を吐くのを止めるから、ヘージ君もやめてくれるかな」

「好きにすればいいじゃないか」

「じゃあ、キミの知っている私という嘘を取っ払って、本当の私のことを話すね。手始めにキミと私の能力について説明するよ。これから言うことは全て、嘘偽りのない正真正銘の真実」

 興味は薄れていた。今の俺にとってどうでもいいことだが聞くだけ聞く。

「誰にでも得られる権利と可能性がある能力が、この高所から落下しても無傷でいられる能力。何度か実験を重ねて、私は『バーンアウト』と呼称することにしたの。『バーンアウト』の効力は大きく分けて二つ。一つは高所から落ちても物理的衝撃を遮断する効力。もう一つは人から人へ感染する効力なんだ」

「感染だなんて、オカルトもいいところだよな。で、それが」

 そこで俺は思わず口を閉じた。夢は実験と言った。

 落ちても平気でいられることを確認する実験。つまり人体実験だ。前者の効力は自分の身で確かめればいい。だが後者は、他者がいなければ証明されない。

 逆光で夢の表情が読み取れない。

「私はこの力に目覚めてから、実験のために人間を殺してきました」

 夢は何を暴露している。何を言いたい。俺は口を開くことができなかった。

 もはや興味以前の問題ではないか。

 場の空気を読まず、強い風が背中から吹いてきた。俺は咄嗟に椅子から立ち上がる。バランスを崩して落ちそうになった夢を掴んで引き寄せた。

「ありがと。けど、私、落ちても死なないよ」

「なんで人を殺した。人を殺してまで、お前はなにが知りたかったんだ」

「逆に聞くけど、なんで人を殺しちゃいけないの? ヘージ君にとっても他人じゃん」

 他人がどうなろうが知ったことではない。だが、生死に関わるなら俺はどうする。

 それでも知らない振りをするだろう。黒須に対してはそう振る舞ってきた。

 夢に言及できる立場ではないのに、憤りを感じた自分が憎い。

「いや、流されないぞ。その落ちても生きていられる能力」

「『バーンアウト』」

 そう呼ばせたいらしい。夢は体を寄せ、背中に手を回してくる。

 俺は力ずくで腕をほどいて一歩距離を置いた。

「……『バーンアウト』が感染するなら、被験者は生きていられるじゃないか」

「だと良かったけどね。物理的衝撃の遮断には高度の限界が存在したんだよ。私たちは制限以上の高さから落下した場合、非感染者と同じように怪我をする。その際、飛び降りた高さと制限された高さとの差が感染者の本来の落下だと仮定して、一年くらい前に私自身で検証してみたんだ。制限高度はおよそ50m。50m以上の高度の上昇に比例して、衝撃が強くなっていった」

 身の毛がよだつことを、夢はさらりと言ってのける。

「感染する方法は単純。感染者による高所からの着地を非感染者が視認するだけ。最初の被験者は路地裏に住むおっさんだったよ。私が初めて飛んだ時に見ていたらしいから、私はそのおっさんを気絶させて、試しに私が飛んだ高さより少し低い所から落としてみた。実験は成功し、感染は証明されたよ。次に何人か同じように試したけれど、どれも実験は成功。五人目くらいに、初めて変化が見られたの。その人は父さんの会社の社員で、辞表を残して飛び降り自殺をしようとしていたところを見つけて、被験者になってもらったんだけど」

「……なんでそんなことをしたんだ」

 嘘を吐かない話から始まったとは思えないくらい、狂気に満ちていておぞましい。

 俺の知らない夢はまだ他にもいた。違う。俺の前に立っているのは誰だ。

 心を見透かしたかのように、悲しそうな声が返ってくる。

「私、引っ越してからずっと一人だったから。キミと、キミたちとの繋がりを確認するためにはそれを続けるしかなかったの。キミたちとの思い出を失くさないようにするためにはそうするしかなかったの」

 俺は息を呑んで、静かに耳を傾けた。

「ひょろいその人は打ち所が悪かったのか、首の骨を折っていて即死だった。初めは個人差があるかと思って新たに別の人を用意したけど、その人は無傷で着地。記憶を掘り返して被験者の行動の違いを探り、ひょろい男は私が地上に着地した瞬間を見ていないことに気付いたから、もう五人ほど見繕って再度実験を始めて、今の証明に至る」

 他にも、駅のホームから飛び降りて電車と衝突し、あらゆる方向からの衝撃の遮断に成功、また遮断時間には着地から十秒ほどの余裕があるようだ。

 落ちても生きていられることをいいことに、狂ったように飛び降りを繰り返す人間は何人かいたそうだ。最終的に全員、亡くなって、夢はそこから高度の制限は共通しているということを特定したらしい。

「この鉄塔の天辺から落ちたら、五点接地を駆使しようとしても死んじゃうかも。制限高度さえなければ、紐無しバンジーとかパラシュート無しスカイダイビングとか、一緒に楽しめたのにね」

 なぜ笑っていられる。夢のやってきたことは道理の通らないおかしなことだ。理由はどうあれ人を殺めてしまったのだ。許されて良いわけが無い。

「嘘だろ。人殺しなんてお前にできるわけがない」

「いま喋ったことは全て本当だって。キミの知らない私だよ。もし、こうして話してなかったら、キミは知らず知らずの内に人殺しと友だちになっていたわけだ。怖いよね」

「怖い云々の話じゃ済まねえよ……お前は、人を」

「結果としてそうなっちゃったんだから仕方ないでしょ。私が生きていくためには、そうするしかなかったんだよ……キミから感染した『バーンアウト』だけが、私の心の支えだった! それを追求して深く触れることで、忘れないよう頭の中に刻み込んだ!」

 夢は涙を零しながら叫んだ。堪えていたものを吐き出すかのように、涙の一滴一滴が頬をなぞり緩やかに落ちていく。消えようとする夕日の残光に当てられ、涙は宝石の様に煌めいた。

 必死な姿を見て、俺の頭は冷静を取り戻す。夢は俺に何を知ってもらいたい。

「お前は俺に、なにを伝えたいんだ。人殺しである自分を許してほしいのか」

「私はキミに嫌われてもいい。嫌われても仕方がないことを散々してきた。許してほしいなんて、これっぽっちも思ってない。慰めてもらいたいなんて思ってない。怖くないからこうして、本当の自分を話すことが出来た」

 目の端から零れる涙を強く弾いて拭い、夢はまた力強く言う。

「素を隠して人と接する。それは悪い事じゃない。ケースバイケースに則るのは寧ろ良いことだよ。素を出すことによって波が立って荒れるくらいなら、誰でも隠していたいもの」

「俺のことを言ってるのか」

「うん。というか皆のこと。けどそれは臆病者とも取れる。人間関係にひびが入ることを恐れている、弱い臆病者の考えだよ。私はキミに、昔の自分を思い出してほしいんだ」

「それは、俺たちがまだ小学生だったころの俺か? お前の知ってる俺ってやつか?」

「言い訳して逃げてるダメ人間じゃないキミだよ」

 簡単に言ってくれる。ことの発端を辿れば、昔の純粋な俺は夢に殺されたようなものだ。

「お前が転校するとき、俺はお前に嫌われたかと思った。告白の返事をしないまま遠く離れた場所に行ってしまって辛かった。それから俺は嘘を吐くようになった。変に出しゃばっても自分が痛い目を見るだけだから」

 我ながら女々しい考えをお持ちのようで、次々と出てくる言葉には反吐が出そうだ。

 けれど、夢との別れが原因の一つであることに間違いはない。そこから拍車をかけるように、なし崩しに俺は無気力症の泥沼に嵌っていった。熱心に取り組んでいたはずの陸上をやめ、嘘を吐くことに快感さえ覚えた。

「だからもう、嘘を吐くのは終わりにしてほしいんだよ。私がキミに、嘘を吐いて生きるよう仕向けてしまったから。臆病者にさせてしまったから。キミには私の様になってほしくない。私の我が儘だね。けど絶対悔いるから、経験者からの助言だよ」

 夢は笑みを作って、俺に告げる。その笑顔に胸が締め付けられる。

 つまり夢は嘘を吐いて俺を傷つけた、そういうことになる。いつ嘘を吐いたなんて考えなくても分かってしまった。

「俺の嘘は、他人を傷つけているだけだと、そう言いたいのか」

「嘘偽りは誰も傷つかないけど誰も幸せになれないだけだよ。単純にキミには嘘が似合わない。やる気ない振りして、ちゃっかり追いかけてくれたり、人の話は聞いて信じてくれたりしちゃうんだもん。かっわいー」

 湿っぽい空気をはぐらかすように、夢は飛びついてきた。抱きつかれて、ほっとしてしまう自分が情けなく思える。

 夢を引き離して椅子に座るなり、大きく息を吐いた。

「人体実験って本当のことなのか?」

「本当のことだよ。私の前でたくさんの人間が弾けて飛び散った。けど、そうすることで遠く離れたところにいるキミと繋がっているんだって実感できた。一人でいるのが怖かったんだよ」

「夢……向こうで、何があったんだ」

「『バーンアウト』でキミに救われた、それ以上に話すことなんて何もないよ。それに、ゴールデンウィーク中に私を捕まえてごらんなさ~いオホホホ鬼ごっこで、キミは既に負けているじゃありませんか」

「……だよな。聞いたところで、人を殺めたお前を許せそうにない」

 嘘を吐く場合、「許す」と安易に口にしていたことだろう。

「うん、それでいいんだよ。それが本当のキミで、私の望んでいるカッコいいキミだよ。キミの見るべき人は私じゃない、黒須って子だよ」

 夢の鋭い勘だろうか。声からは読み取れない。

「逃げるために、こっちに戻ってきたのか」

「そんなところかな。父さんのところに残ろうと思えば、残れたし」

 会話の熱が冷めて、夢に向けていた視線が自然と背景に移っていく。日は沈みきり、藍色の夜空に星がちりばめられていた。きっと朝や真昼の風景も見惚れるほど美しいはずだ。

 黒須が何時、どのような風景をこの鉄塔から見たのか気になった。


     +


 俺は携帯を開いて電話をした。電話相手は中学時代からの友人、坂井翔だ。

 ぎこちない声で、坂井は俺にどうかしたのか尋ねてきた。緊張しているのは俺も同じだ。

 夢に言われたことを鵜呑みにするわけではない。聞きたい、見たい、知りたい、助けたい。あらゆる欲を埋めるために俺は自分の意思で、昔の自分に戻る。

「前に言ったよな。身投げした子を助ける行為は、本当に助けたことになるのかって」

 携帯電話の向こう側で、疑問符を浮かべる坂井が容易に想像できた。

「勉強中だ。要件なら早く言ってくれ」

「やっぱり、俺は助けたことになると思う。少なくとも、相談相手が一人出来たことになるからな」

「……そっか、そりゃそうだ。どっちも生きていなきゃならないっていう前提がおかしいけど、嫌いじゃない答えだ」

 盛大に笑われ、「また明日」と挨拶を交わし、俺は電話を切った。いつも生活している自室の空間なのに程良い緊張を感じる。

「『バーンアウト』……」

 ノートの空白部分にその名前を書き綴る。なんとも皮肉な名前を付けられたものだ。

 俺も知らず知らずの内に、誰かが飛び降りるところを見て感染していたのかもしれない。

 目を瞑って一年前から今日までの日々を思い返す。何にも興味を持たず、持ってもすぐに飽きてやめてしまった。ぐうたらと寝転がって本を読み、ゲームをしては他のことを見つけようとも思わなかった。

 黒須と出会っても、黒須が会おうとしてくれなければ、俺から関わろうとは思わなかっただろう。夢と再会しても昔の想いを確かめられず、適当な距離を作っていた。

 夢が同じ奇妙な力を持っていたことに俺は喜んだ。共通点を見つけ、きっと夢も堕落した生活を送っているのだろうと決めつけた。俺は自分のような人間を見つけて、安心感を得ようとしていた。卑怯で汚いやつだ。結局、捕まえられず、面倒臭くなって諦めもした。

 俺の中で夢は良くも悪くも特別な存在だ。彼女に気付かされたという事実は否めない。夢は自己犠牲を払ってまで、俺に教えようとしてくれた。

 夢は気付いているだろうか。夢が思い出してほしいと言っていた俺は、夢みたいになろうとあがいていて俺だということに。

 なら夢に任せれば。そう一瞬でも考えてしまった自分が恥ずかしい。

 目を開けてノートと向き合い、ペンを走らせた。

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