第三話【表と裏】
昼休みになると転入生の席は、女子の溜まり場と化した。
肩身が狭くなった男子は窓際や前へ押しやられる。俺と坂井も例外ではない。
俺たちは空席に腰かけて、転入生の席の辺りを傍観していた。
「かわいいっつうより、美人だな。綺麗だ」
坂井の意見には賛同せざるを得ない。
ドレスや着物を着て、どこぞのお嬢様などと言われても、信じてしまう。
非の打ちどころがない美人だ。その美人は高橋夢と名乗った。
俺の初恋の相手と同じ名前だが、記憶上の高橋夢はもっと落ち着きがない。昼休みに外へ飛び出し、男子の集まりに混ざってドッジボールをする短髪の少女だった。
丁度今、転入生の手を引っ張り、笹倉さんのところまで連れて行った大塚さんみたいな。
転入生と笹倉さんは、楽しそうに話を始めた。
「委員長と知り合いなのかねえ」
「俺も知っているかもしれない」
「最近はよくジョークを言うのな。ハマってんの?」
坂井は煽りの天才かもしれない。
「席に戻ろうか。他人の席を汚しちゃいけない」
「んーそうだな」
大塚さんが転入生を連れ出したお蔭で、後ろに溜まっていた女子たちも解散した。
坂井は他人の席に零したパン屑を拾ってから、俺も食べ終わった弁当を持って席を立つ。
「鈴木平治君?」
肩を突っつかれ、「はい。なんですか」と振り向けば、話題の転入生が目と鼻の先に居た。
紙一重でお互いの鼻がぶつからずに済んだ。俺は思わずひっくり返る。
転入生に笑われながら、坂井の手を借りて立ち上がった。
「鈴木平治君だよね。私だよ、小学校が同じだった高橋夢、覚えてる?」
転入生は自分の大きな胸を指差してほほ笑んだ。
なんとなくだが、子ども頃の面影がある。笑っているときなんて、特にそうだ。
「お久しぶりです高橋さん」
「あはは、なんで敬語なの。昔みたいに、夢でいいよ」
笹倉さんも気にしていたな。女性は名前で呼ばれる方が分かりやすいのだろうか。
黒須も名前で呼んであげた方がいいのだろう。
「ゆ、夢――さん」
「おしいですね。あと、キミが敬語なら私も敬語にします」
「俺はそれで構わないのですが……」
夢さんは「むかー」と擬音を口にする。頬を膨らませてリスみたいになる。
喋ってみると確かに高橋夢だった。けれど離れ離れになってから何年も経過した相手に再会していきなり、昔の様に親しく接することが、俺にはできそうにない。
「俺は坂井翔。よろしく、高橋さん」
「はい。平治君のお友だちですね」
坂井はちゃっかり挨拶を済ませる。まさか狙っているんじゃなかろうな。
「ところで、彼氏とかいる? 遠距離恋愛中だったり。もし良かったら彼氏候補に立候補しちゃおうかな」
「失礼だろ。そこのホッチキスで鼻の穴増やしてやろうか」
「バッシングに脈絡がない……目が本気なんだけど……」
「好きな人はいます。平治君です」
騒がしくしていた教室が一転、静まり返り、空気が凍ったような気がした。気がするだけでよかったのに、察してしまう。
女子からは期待の眼差しが向けられる。男子の視線は、先ほど俺が坂井に向けたものだ。
「どの口が誰の鼻に穴を開けるだって?」
坂井に肩を掴まれる。指がめり込んで痛い。
一番驚いているのは俺だ。夢とアイコンタクトを図るが、素知らぬ顔で首を傾げられた。
知っていて無視してくる。 夢は、わざと俺を貶めた。
外見は成長しているが、内面は何一つ変わっていない。
恋バナに飢えた女子と冷徹な男子が蔓延る空間に耐え切れず、俺は教室から脱出した。
夢は鼻で笑っているに違いない。
「それで、なんで屋上にくるんですか。リア充自慢なら墓場まで持って行ってください」
屋上で黒須に一部始終を話した。黒須のメガネはまだ修理中らしい。
今日みたいに青空を眺めるには最適の場所だが、昼間は屋上へ来ない方がいいようだ。昼の黒須は沸点が低い。
「幼馴染持ちは将来安泰でご満悦ってところですかね。先輩はこの学校をギャルゲーの舞台にでも仕立てあげる気ですか。あぁ納得しました、私も攻略可能ヒロインの一人なんですね。飛ぼうかな。飛んで、先輩に一生償うことのできない重石を背負わせようかな」
能面みたいな顔して、えげつない思考回路をしている。
想像を膨らませるのは結構だ。それを口に出してくれれば、なお良し。黒須の澄んだ声は聞いていて、飽きがこない。人を惹きつける、坂井と同じような話し方をする。
俺は少しでも夢のことから離れていたかった。
「交友関係が広くて羨ましい限りです。私の周りには人っ子一人いませんので。ハーレム作りをしているなら、私はこの命を賭してでも阻止しましょう」
「夢は……あいつは昔馴染みなだけで、やましいことなんて何もない」
恋心を抱いていたのは小学生の頃だけだ。夢が転校してから誰かに恋をしたことはない。
我ながら、やかましい。他人に心を見透かされれば、「女々しいやつ」と嘲笑されよう。
「私の中で先輩の株は下落する一方です。愛をくだされば騰貴します」
俺が与えられるのは『葬らんバット』だけだ。
「愚痴を聞いてくれてありがとう。テンパっていたんだ……最近いろいろあって」
黒須に、痴漢に、転入生の高橋夢。春は出会いの季節だと聞くが、衝撃的な出会いの連続が多すぎはしないか。
「どうでもいいです。ほら早く」
心の内の疑問は一蹴される。絆創膏の貼られている手を伸ばして、黒須は『葬らんバット』を要求してきた。
黒須の足元には、サッカーボール台に膨らんだポリ袋が放置されている。『葬らんバット』の包装が、半透明の袋に詰め込まれていた。
どれだけ食べたのだ。中毒性が強い食べ物でもない。十本も食べれば、腹もそこそこ膨れ、甘ったるいチョコレートとパンに水分を奪われてしまい、くどくなる。
「見ての通り手ぶらで。放課後になったら渡すよ」
黒須はむき出しの反骨精神で、また一つ、包装がをポリ袋に詰め込む。
「『亜鵜屠』。今日はいいことがありません。先輩はつまらないし。そうだ、ちょっと飛び降りてみてくださいよ」
包装のくじはハズレだったらしい。だが機嫌を損ねている理由は、他にもあるようだ。
黒須の体には、いつものように傷の手当が施されている。身体に変化は見られない。
「心から望んでいるなら飛び降りるよ」
「遠回しのプロポーズですね。ちなみに私はストレートな言葉に弱いです」
艶っぽい声を出して、黒須は頬を紅潮させた。芸達者なやつだ。
心なしか無表情から発せられる、こっちに寄ってくるなオーラが以前よりも弱まった気がする。俺は寄りかかっていた金網から背を離す。
「戻るんですか?」
「転校生に会いたくはないけど、授業には出ないといけないだろ」
「先輩は優等生ですね。私と一緒にサボりましょうよ」
もしかして、いつも授業をさぼっているのか。
「そんな目しないでくださいよ。体調が優れないだけで、いつもは出席しています」
他人を卑下するような目を向けていたらしい。ほんの一瞬だけ躊躇ったが、黒須だからといって特別扱いするのも気が引けた。
「学校生活、辛いのか」
「体調が優れないだけって言ったじゃないですか」
黒須は口を尖らせた。
これ以上は踏み込めない。俺は自分の中で簡単な線引きをする。
「それとも詮索ですか」
「ストレートな言葉に弱いって言っただろ」
「性悪……そういう意味で言ったんじゃないんですけど」
黒須が考えを改めなおせば、俺もここにくる必要もなくなるが、それを強制させるべきか否か、など答えは出ている。黒須には黒須の自由がある。
俺の自由など誰にでもくれてやる。飛んでも死なないことだけしか取り柄のない俺の時間を使って、人が生きようとしてくれるのなら悪い気はしない。
「ははっ。ごめん。じゃあまた屋上で……いや、屋上以外では会えないか」
「屋上で待ってます」
ムスッとした黒須に一言謝り、屋上を後にする。都合ならいくらでも合わせる。
放課後は黒須と過ごした。コンビニを走り回って買ってきた『葬らんバット』はお気に召してくれたようで、山積みにした100本の内、黒須は半分を平らげ、半分をバッグに移していた。華奢な体に大量の菓子が収められていく様は奇妙奇天烈。
女の子がお菓子で出来ているのなら合点がいく。甘い匂いとかするから、あながち間違いではないのかもしれない。
黒須を子どものように無邪気に笑わせる『葬らんバット』の魅力について考え、校外の電灯を目指して東門前まで歩いた。
月明かりの下、人影を見た。門の傍に誰かがいる。
人影の横を通り過ぎようとすると声をかけられた。
「やっほ」
人影の正体は転入生の高橋夢だ。長い髪を揺らして口元を緩めた。その笑みは空に浮かぶ月みたいに妖艶で、気付けば目を奪われていた。電灯の明かりに照らされようと、色あせることを知らない。
それでもだ。美人になった、なんて口が裂けても言うものか。夢は、俺に告白された翌日に転校した。仲が良かったはずの笹倉さんにも事前に知らせはなく、クラスで簡単なお別れ会をしてから、この街を去っていった。
マセたガキの告白に、いまだ返事はない。俺は黒須の様に感情のない声で言った。
「部活でも見て回っていたのか」
「屋上の掃除をしてるって加藤先生に聞いたから、ずっと待ってたよ。授業終わったらいなくなっちゃうんだもん」
「だもん、じゃねーよ。高校生にもなってかわい子ぶりっ子は無えよ」
「うわっ、乱暴な口調。そっちが本性なのかな」
「裏表なんてない。相手に会わせて適当に振る舞っているだけ」
「じゃあどれもキミじゃないんだ。困ったちゃんだねヘージ君。私が待っていたヘージ君はどこに行ってしまったの」
夢は夢だった。なにも変わってない。安心と哀しみが腹の中で渦巻く。
俺はなんて卑しいのだ。昔のことなんか忘れてやればいい。こちらが膝を折り、妥協すれば仲の良い関係を築けるじゃないか。こんなの俺じゃない。
落ち着くために、大きく息を吸った。乾いた空気が喉を通過し、肺を満たしてくれる。
「はあぁ……夢は誰かと待ち合わせでもしているのか」
名前で呼んだからか、夢の笑顔の純度が増した。
「ヘージ君、キミを待っていたんだよ。うたがっているのかしら」
「冗談じゃなかったのか」
意外だった。てっきり嘘だと思っていた。
夢から数歩距離を置いて緩やかな坂を下りていく。滑らかに流れる夢の後ろ髪は、腰辺りで切り揃えられていた。
静かな夜道。夢は前を向いたまま、声を張り上げる。
「元気してたー?」
慣れない雰囲気で勉強をしたり、見ず知らずの人と会話をしたり、転入早々忙しそうにしていたが疲れてはいないようだ。
「元気だったよ。お前こそどうなんだよ」
「見れば分かるっしょ。ちょー元気だよ」
お淑やかな夢はどこへやら。容姿に似合わないものだから、夢ではない誰かと話している錯覚に陥る。外見の大切さと固定観念の恐ろしさを学ばせてもらった。
元気であることくらい見て分かる。逆に、俺は元気に見えないということか。
「それはよかった。お互い、連絡の取りようがなかったからな」
「そうだね。いやぁ、けどこうやって無事に再会できたわけだから、仲良くしてくれると嬉しいな」
湿っぽい雰囲気を、夢は望んでいなかった。
もうガキじゃない。対立は何も生まない。発展もしない。理解を求めてどうする。
矮小なプライドを捨てて、夢の隣を歩くことにした。夢は満面の笑みで腕に抱きついてくる。たわわに実った胸部に、腕が挟まれた。
「やめろっ。離してくれ。無駄にでかいんだよ、お前の乳」
夢の体が震えていなければ、迷わず引き剥がしていた。すすり泣きに、歩みを止める。
「少しだけだから……お願い……」
「どうしたんだよ」
「なんでもない……から…………すぐ、元気になる」
雲が上空を漂い、何度も月光を隠す。長い時間が流れた。
耳を澄ませば、野球部の威勢いい掛け声が聞こえてくる。辺りには誰もいない。
泣きたいなら、もっと思いっきり泣けばいい。夢の頭を軽く叩き、慰めた。
夢は転校してきたんだ。五年前と同じ、やむを得ない親の事情で、転校せざるをえなかったのだろう。こいつのことだ、友だちはたくさんいた筈だ。
それなのに俺は意固地になって、きつく当たってしまった。
「ごめん。昔の事は、もう忘れる」
「いいの……忘れないで……。覚えていてくれてありがと……」
「ブランコからすっ飛んだ時以来だ、夢が泣くところを見たのは」
「ははっ……死んじゃうんじゃないかって、びっくりしたんだから」
絡まる腕がゆっくりと離れていき、夢は駆け出した。
「おい待てっ」
「充電完了っ。えへへ~」
下着が見えそうで見えないスカートから目を反らし、夢を追いかけた。平地の信号機に捕まってランニングを終えた。皆で通っていた小学校まで歩くことにした。
電灯に照らしだされた町に、夢は興奮して目を光らせていた。
もっと明るい時に来ればいいと提案したが、夢に拒否される。
小学校の桜の木は青葉を茂らせている。ここら一帯の桜は散ってしまっていた。夜桜が月明かりに透かされ、舞い散っていく絶景を拝みたかった。さながら桜の星だ。春先に坂井と二人でした花見が恋しい。
桜の木の下に寝転がって夢と一緒に花見をするのは、来年になりそうだ。
「卒業までいるのか? また転校とかしないよな」
「お母さんとお父さん次第かな。もしかして、私がいなくなったら寂しい?」
前の転校も親が原因だと、夢が転校してから知った。身内の事情には触れない方がいい。
「そりゃな。笹倉さんだって、きっと悲しむ。今生の別れではないにせよ、直接会って話せなくなるんだから」
「キミたちみたいな友だちに恵まれて私は幸せ者だよ」
夜の小学校の体育館では、バスケクラブが活動していた。ボールの弾む音が校外にも響き渡る。開け放たれていた門から侵入して、遊具広場のブランコに腰を落ち着ける。
「懐かしいな。さくらちゃんと遊んだり、ヘージ君を泣かしたり」
昔は広いと体感していたはずの運動場も、成長した俺たちには窮屈に思えてしまう。トラック一周で200mしかない。狭くも感じるはずだった。
「遠足とか運動会とか学年発表会とか、もっと楽しい思い出を語れよ」
「女の子に泣かされているんじゃ、男の子の風上にも置けないからね」
「今はそんなことないからな」
「さくらちゃんと、いっぱい話したから知ってる。あれからずっと陸上やってたんだ。全国大会にも出るなんて凄いね」
「夢は部活とかやっていたのか?」
「私は何も。けど、いろんなこと試したよ。それで一つだけ、楽しいことを見つけたの」
夢も、やりたいことが見つかったのか。純粋に偉いと思う。
隣から吹く緩やかな風が、ミントのようなすっきりとした香りを運んでくる。夢はブランコを漕ぎだした。
「中学校では、どんなことがあった? 私は特になかった」
「じゃあ話題にするなよ」
「いいからいいから、聞かせてよう」
「俺はお前のことが知りたいんだ」
「熱烈なプロポーズと解釈していいのかな……でゅへへへへ」
それは女の子の笑い方じゃない。
夢のブランコの勢いが増す。似た台詞を屋上で聞いた気がする。
「あんだよ……あの時はなんでもないような顔してた癖に……」
「んー? なにか言った?」
「中学生活は部活で潰れた。そう言ったんだ」
入れ違いになるように、俺も地面を蹴ってブランコを漕いだ。涼しい夜風が頬を撫でる。
「部活は、楽しくなかったんだね」
夢の声色に変化はない。
笹倉さんから俺のことを聞いた、と夢は言う。陸上を続けていないことも耳にしている。
「やる気のない人間が部にいても目障りなだけだからな。入部すら面倒くさかった」
「キミは変わったね。まるで別人だ。純情で、熱血で、うるさいくらい元気なキミをまた見てみたいな」
「河川敷に捨ててきたよ」
「じゃあ私が拾って飼いならしてしまおう」
「ご勝手に。中学時代の思い出話だろ。修学旅行先の京都で食わされた鹿煎餅が旨かった」
「味音痴すぎるよ。そんなんじゃ彼女の手作り弁当を食べても、満足な感想も言えないね」
「彼女いないから別に」
「私が彼女になるよ」
夢はブランコの台座に立ち、大きくジャンプして柵を飛び越えた。ふわりと靡く髪に星の光が散らばる。
「だからデートしよう。デート」
着地するなり、こちらに振り向いた。
夢の行動の意図が読めない。昔馴染みの関係を取り戻そうと、焦っているようには見えた。弱音を吐かない夢には困ったものだ。
台座が外れる危険を考慮し、かかとでブレーキをかけて普通に降りる。
「大事なのは、今の気持ちだ。荷物持ちくらいなら喜んで付き合うよ」
「やっさしーい。言っちゃえばこれもデートだよね。次は買い食いして、ゲーセン行って、ヘージ君の家にお邪魔して、おゆはんをご一緒させてもらって」
遠慮がない。厚かましいという言葉が、夢の辞書には載っていないらしい。
有言実行主義者の夢に連れられて商店街を巡りまわる。精肉屋で食べたコロッケが熱すぎて、夢は舌を赤く腫らしていた。夢は猫舌だった。
クレーンゲームからアーケードゲームまで器用にこなしていく夢が遊び疲れると、俺はようやく解放された。と思ったら夢は俺の後を着けてきた。
追い返すことが出来なかった。聞けば、家に帰っても誰もいないらしい。
「母さんは朝に帰ってきて、昼過ぎには仕事に出ちゃうからね」
転校前は父のところで暮らしていた。ややこしい家庭事情のようだ。
俺は予想に感情を左右される時が多々ある。そういう時は自分でものを考えないようにして、他人に思考を委ねている。だから歩みだけを進めた。
「本当に着いてきやがったよ、こいつ」
「お邪魔しまーす」
俺が家の扉を開けたのに、夢はなぜかチャイムを鳴らしてから敷居を跨ぐ。
「あら、もしかして夢ちゃん?」
居間から母が現れる。髪が伸びているのに、母はよく一目で夢だと見破った。家に呼んだことのある女友達が、笹倉さんと夢だけだからか。
井戸端会議並みに玄関が喧しくなった。
「お母様、お久しぶりです。夜分遅くにすいません」
「あらあら大きくなって。それに、こんなに綺麗になって」
「お母様には敵いませんよ」
「おばさん、お世辞でも照れちゃうわよ」
俺が会話をおざなりに聞き流していると、母が夢に提案した。
「夕ご飯まだなら、よかったら食べていく?」
母は、それなりに事情を把握しているようだ。
夕ご飯は、すりおろしリンゴの入った甘めのカレーだった。母の得意料理に夢も満足してくれたようで安心する。子どもの時に何度も家へ招いたが、こうして食卓を共にするのは、学校の給食を除いて、初めてかもしれない。
食後に俺の部屋を漁るだけ漁って、夢は帰っていった。
送りは不要とのことだったが、俺は不安を抑えきれず、自転車を走らせた。
「おい、後ろ乗れよ」
夢を拾い荷台に乗せ、問答無用で家まで案内させる。一駅先にある瓦屋根の一軒屋が夢の家。道中、一言も話すことはなく、夢はしおらしくしていた。
「ありがとう。ここだから」
静かに自転車を止めた。腰に回されていた夢の手が離れ、温もりだけが残った。
「背中おっきいね……胸キュンしちゃったでござるよ」
「俺はお前が分からん」
こめかみを押さえながら、ため息混じりに言った。この数時間で垣間見た夢についての感想文のようなものだった。
「期待させるようなこと言っておいて、近づかせる気がさらさら無い。過去とは言えど、他人の想いを遊びで蔑ろにするようなやつだとは思いたくない。じゃあ俺はどう応えてあげればいいんだ。愛想笑いでもすればいいのか」
「違うよ。そうじゃない」
「じゃあなんだよ。なんで、中学時代の思い出を話さない。いつも輪の中心にいたお前なら、楽しかった思い出の一つや二つくらいあるだろう。お前のことを知って、俺は……」
夢があまりにも思わせぶりな態度を取るから期待してしまう。淡い恋心の残留思念が、脳や体を這いずり回っていた。
「なかったよ」
間髪入れず、夢は答える。迷子の子どもに話しかけるように喋った。
「キミを不快な気分にさせたのなら、これから安易にキミの傍には寄らない」
「そこまでは言っていない。遊んでいて楽しいと思ったから」
「嬉しいよ、すっごく嬉しい。それでもごめんなさい。私からキミに話すことは、今はないの。さくらちゃんにもだよ。私の思う私は、キミたちの知っている私じゃない。けどキミたちから見た私は、まぎれもない私のはずだから昔の様に接してくれると泣いて喜ぶよ」
俺も大概だが、夢の言いたいことも抽象的だ。
今の俺と夢は似ている。ベクトルの違う適当人間同士だった。柄にもなく感情的になったのは、それが理由だと悟った。怠けている自分に嫌気が差す時くらいある。
自室のベッドに倒れ込んだ。携帯の液晶画面には夢の携帯電話番号が浮かんでいる。
通話ボタンを押し、五回目の呼び出し音で切って、風呂に入ることにした。
熱い湯に浸かって頭を空っぽにする。
「夢ちゃんが戻ってきてよかったわね」
ガラス戸の向こう側からの声を、シャワーの音でかき消す。火照った体で自室に戻る。
真っ暗な部屋で風に煽られた藍色のカーテンが静かな波を立てる。カーテンの先端からベッドの上の発光体に目が移動した。放り投げておいた携帯電話に着信があったようだ。
携帯を開くと、高橋夢からの着信が一件、履歴に残っていた。
携帯を畳んで俺は横になった。これから一週間、体力が持ちそうにない。楽しみにしているのか、ただ疲れているだけなのか自分が分からない。