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busy  作者: 人事
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第二話【幼馴染と鬼ごっこ】

 家から学校まで、徒歩で一時間ほどかかる。

 田舎でも都会でもない、中途半端な街並みを通り過ぎ、線路を越えて、坂を上ったところに学校がある。自転車を漕げば、三十分で着く。約半分の登校時間で済んでしまう。

 いつもなら健康を気にして、徒歩で家を出ていた。だが、今はそうも言っていられない。

 寝坊した。目覚まし時計の電池が切れていたみたいだ。週末なのにツいていない。

 悶々している時間が勿体無い。バッグと制服を引っ張って二階に下り、洗面所で洗顔を済ませ、急いで着替えて家から走った。自転車を使負うにしても、パンクして車輪の骨が壊れてしまっている。自転車が恋しい。

 遅刻の非を認め、甘んじて罰を受けようじゃないか。屋上の件で校則を半分、破っているようなものだ。どれもこれも間に合わなかった時の話だが。

 校門を抜けると、黒須を見つけた。出席確認まで、あと五分ほど余裕がある。

 黒須は頬に大きな絆創膏を付けていた。昨日は付けていなかった新しい絆創膏だ。胸を撫で下ろしたところなのに、再度訪れる不安に頭が痛くなる。

 学年、クラスごとに下駄箱は違う。追いかけて話しかけるような仲でもない。

 どうせ放課後に顔を合わせる。その時に詳細を聞き出そう。

 黒須が一年の教室に入っていくところを見届けた後、最上階までの階段を駆け上がる。四階はざわついていた。

 俺の通うクラス、2年A組がやかましい原因だ。出欠を取る時間なのに、担任が来ていない。他の五クラスとの温度差に、別クラスの担任が叱りに来るんじゃないかと思い、肝が冷える。

 サッカー部の安田(やすだ)くん、バスケ部の渡部(わたべ)くんと少しだけ話をして、それから坂井が突っ伏している席の、隣の席に座った。

 教科書を机に詰め込んでいると、坂井が気の抜けた声を出した。

「あぁ……平治か」

「おはよう。昨日のバイトでなんかあったの?」

 バイト後日の坂井は大抵、机に抱きついて寝ている。危ない仕事をやっているのではないか、たまに心配になる。坂井の目の下には、くまが張り付いていた。

「バイトは10時半に終わったんだ……」

「いつもそんな時間まで大変だな」

「昨日はまあ、そうだな、少し遅かったな。それよりなあ、宿題がなあ」

加藤(かとう)先生、宿題出し過ぎだよな」

「……お前、汗だくだな。そういえば来るの遅かったな。走ってきたのか」

 坂井は俺の方を見て、気だるそうに言った。疲れているのなら寝ていても構わない。

「寝坊しちゃって。考え事していて気づいたら寝ていた、なんてザラだよね」

 昨夜は、黒須のことについて悩んでいた。坂井に話すべきかどうなのかも含めた黒須の全てを、だ。答えは出ず、曖昧なまま睡眠欲に溺れてしまい、目を覚ませば朝だった。

「ふーん、まぁ俺にはないが。とりあえずお前、臭うぞ」

 冗談でも言われる方は傷つく。せめて遠回しに教えてほしいと思ってしまう俺は傲慢この上ないだろう。ワイシャツの臭いを嗅いでみたけれど分からない。

 坂井に制汗スプレーを借りて、柔いメンタルの修復に取り掛かる。

 担任が来たのは、それから五分後のことだった。

「みんなおはよー」

 笹倉さんの一声で静かになった教室に、挨拶をしながら入ってきた先生。背の高い美人の女教師だが、誰も返事をしない。

「ごめんなさい……ご飯食べていたらこんな時間に……」

 加藤先生が謝罪の一言を述べる。余所から見れば、教師が生徒に苛められる図そのもの。

 週に三回は遅れてやってくる加藤先生に対した、仕打ちのようなものだった。先生が謝れば、クラス皆で声を揃えて挨拶を返す。

「「「おはようございます」」」

「あはははは、先生泣いちゃいそうだなー」

 加藤先生は空笑いして、名簿帳を開いた。

「はーい、いない人は手を挙げてー」

 時間が無いから大幅に点呼を省いた。

 大雑把な性格だから生徒から呆れられる。その分、親しみやすい教師でもあるが。

 授業に関しては厳しいため、総合的印象はマイナスかもしれない。

 天文部の顧問らしいが、天文部部員からはどう思われているのだろう。

「重要連絡事項が一つ。今配った紙を見ましょう」

 前の席の人から受け取った紙を見て、嫌な汗が噴き出た。

「昨日の夕方、我が校の女子生徒が数名、痴漢被害にあいました。警察の方には連絡しておきましたが、夜道にはくれぐれも気を付けるようになー。男子は知らん」

 紙には、痴漢について書かれていた。

 太字で印刷された一文に目を通す。灰色のコートとサングラス、ニット帽を身に着けた、中肉中背の人物が生徒の体を触って逃走。

 昨日の夕方。まさか、笹倉さんが被害にあったのではなかろうか。ふと顔を上げた。

 前の席にいる笹倉さんと目が合う。笹倉さんは一瞬で目を反らし、前に向き直った。

 席の距離が心の距離を表しているようで、つらい。

「それと鈴木平治は昼休みに教員室なー」

 ストレスが加速して、胃が破けてしまいそうだ。呼び出しを喰らう

 屋上のことがバレてしまったのか。もう終わってほしい。早く今日が終わってほしい。

「お前が痴漢やらかしたの? むっつりのお前が行動に出るなんて、見直したぞ」

 坂井の笑みが、強烈なウザさを発する。

 先生の言い方からして、そう誤解されてもおかしくない。周囲の視線が、いくつかの束になって、俺を捉えていた。

「違う、違う……俺はやってない」

 大声を上げて動揺する様は、自分が犯人だと認めているようなものだ。俺は直ぐに口を締めて反省に反省を重ね、落ち着きを取り戻す。

「知ってるか平治」

「あぁ……?」

「犯罪者は自分の犯行を認めないんだぜ」

「語尾がウザい……。先生、見てないで弁明してください」

 ノリの良いクラスメイトたちだ。このままでは痴漢のレッテルを張られて前科持ち扱いされてしまう。いくらギャグでも避けていきたい。

「鈴木は弄られキャラだったのか。先生覚えておくよー」

「違っ……うおおおおぉ」

「どうした親友。下痢か?」

「なんなんだ、この扱いは……」

「たまにはいいじゃねえか。親しみやすい方が友だち増えるぞ」

 常日頃、人付き合いを怠っていたため、痴漢扱いは免れた。

 だが笹倉さんの痴漢の件と、屋上の件とで、昼休みまで授業内容が頭に入らない。

 手を動かしてノートは取っていたが、教師方の講説は呪文のようにしか聞こえなかった。右耳から入り、左耳から抜けていく。朝食を抜いたというのに、食事が喉を通らない。

 四時限目の授業が終わった直後、隣の校舎の二階にある教員室に出向いた。黒須に会った一昨日、陸上部の部長に連行されて顔を出したというのに、どうして連日で教師の溜まり場に放り込まれなければいけない。

 無意味に緊張する。教員室の開かれたドアをノックした。

「失礼します。二年の鈴木平治です」

 名前を言ったところで、奥の席にいる加藤先生がこちらに気付いた。

 加藤先生に連れられ、保健室の隣にあるカウンセリング室に入る。カウンセリング室には先客がいた。笹倉さんがパイプ椅子に座って待っている。

「あっ」と俺の口から、情けない声が漏れる。笹倉さんはその声に合わせて顔を反らした。

 これは嫌われている。嫌われても仕方がない。いや、俺のことはどうでもよかった。笹倉さんは痴漢にあって傷ついている。

「鈴木も適当に座って」

 笹倉さんから少し距離を取り、パイプ椅子に腰かけた。

「先生なー、お前たちが一緒に作業をしていたのを知っているんだ。なんで帰宅時に、桜が痴漢の被害に合うんだろうなー」

 早速、先生は話を始める。やっぱり笹倉さんは被害者の一人だった。

「なー」

 加藤先生の威圧が怖い。隣に座る笹倉さんの沈黙に、申し訳ない気持ちで一杯だ。

「すいませんでした」

 先に謝るべき相手に、俺は椅子から立ち上がって笹倉さんに頭を下げる。

 授業合間の10分間でいい。笹倉さんから聞き、そして謝るべきだった。

「平治くんは悪くありません。私は、大丈夫でしたから」

 俺には勿体ない、慈悲に満ちる言葉だった。

「本当に許すのか? この不届き者はお前を見捨てて、危険に曝したんだぞ」

「許すもなにもないです。痴漢と平治くんになんの関係があるんですか。平治くんはあの時、私の代わりに屋上掃除を引き受けてくれたんです」

「だがなー」

「あんまり意地悪するなら、加奈ちゃんのお昼ご飯、わたしが食べちゃうよ」

「それだけは勘弁してくれないかなー。私もお前のことを思って」

「加奈ちゃん」

「……はい」

 頭上で聞いてはならないやり取りを聞いてしまった気がする。

 生徒と教師の立場が逆転するとは、これ如何に。

「平治くん、顔を上げてください。ほら加奈ちゃんは平治くんの方むいて」

 笹倉さんの優しい声に従った。

「んぐっ、すまんな、鈴木」

「こ、こちらこそ……?」

 聞けば、加藤先生は笹倉さんの従妹で、笹倉さんの家に居候しているようだ。先生は料理を作れないようだ。早朝出勤で忙しい笹倉さんの母の代わりに、食事は笹倉さんが作る。

 先生がダメ人間というよりも、笹倉さんが出来すぎていた。

「身内話はもういいだろう。桜は痴漢の被害者、ここまでは分かるな」

 真面目になった先生の主張は、今日は二人揃って帰ることらしい。

 罪滅ぼしには願ったり叶ったりのことなのだが、笹倉さんはどう思っているのだろう。

「桜もそれでいいな」

「はいっ」

 笑みを浮かべる笹倉さんの機嫌は良さそうだった。

 思いの他、笹倉さんから見た俺は好印象なのだろうか。異性に良く思われるのは、とても喜ばしい。不謹慎だが、口元を締めて心の中ではしゃいだ。

「そうか。あと委員長の二人に話すが、都心からこの学校に編入してきた生徒が、来週の月曜日から私のクラスで勉強することになった。放課後になったら、四階自習室の机を一つ持ってきて、綺麗にしておいてくれ」

「本当に来るんですか、転校生」

「二人とも反応が薄いなー」

 一緒に住んでいるはずの笹倉さんにも話していなかったようだ。

「桜はもう戻っていいぞー。鈴木はまだ話があるから残れ」

 部屋から出ていく笹倉さんを二人で見送る。

 最後にお辞儀をする辺り、育ちの違いをひしひしと感じた。

「あれでも抜けているところがあるんだ、今回の件みたいにな。しっかり守ってやれ」

 投げかけられた先生の言葉に、深い意味はないだろう。

「さてお前を呼んだのは他でもない、屋上の掃除に関してだ。昨日、校内の見回りをしていたら屋上の扉の鍵が開いていたんだが、これはどういうことなのかなーかなー」

 先生の威圧再来。先生に鍵を借りていたのだから、先生が見回りに来ることくらい容易に予測できよう。

「ったく、見つけたのが私でよかったなー」

 普段はおちゃらけた人なのに、怒ると怖い先生だった。俺は苦笑いでお茶を濁す。

「罰として一ヶ月屋上掃除なー。清掃員の皆さんや他の先生、天文部には私から伝えておくから。おっと、これは生徒虐待なんかじゃ断じてないからなー」

「精一杯、務めさせていただきます」

「なんだ、嬉しそうじゃないか」

「笹倉さんに辛い思いをさせてしまいましたから、どんな罰でも受けます」

「その心意気やよし。じゃあ、お前も戻っていいぞ」

 好都合だった。これでしばらくは、黒須と会い続けることができる。

 明日から来られない、などと言った翌日に飛び降られたくはない。

 屋上ではなく、別の場所で会えるなら、また別の話になる。

 聞いてみれば分かるが、今日の放課後は笹倉さんを家まで送らなければならなかった。

 許しを得たので、黒須をどうしようか考えながら、先生の前から立ち去ろうとする。

 先生に「やっぱ待て」と怒鳴る様に言われ、委縮してしまう。

 年上はどうも苦手だ。

「……いや、桜の事は任せたよ」

 先生はまだここにいるらしい。口元に手を当てて、考え事を始めた。

 社交辞令として一礼してからカウンセリング室を出ると、笹倉さんが窓際に立っていた。

 待っていてくれたみたいだ。優しい委員長、ここに極まれり。

「ごめんね。わたしは大丈夫だって言ってるのに、加奈ちゃ……加藤先生、心配性だから」

「笹倉さんは、やせ我慢しているんじゃないんですか。わけのわからない輩に体を」

「ストップです」

 ずいっ、と顔を寄せてくる笹倉さん。眉に皺を作り、怒る顔もかわいらしい。

「暗い平治くんは嫌いです。エッチな話をする平治くんはもっと嫌いです」

 痴漢のことを思い出させないように気づかっていたが、これだけ元気なら、俺ごときが心配することもない。

「今日の放課後はよろしくお願いします。で、いいんですよね?」

「……不甲斐ないかもしれませんが、委員長に嫌われないよう頑張ります」

「委員長って呼ばないでください」

「笹倉さんに嫌われないよう頑張ります」

 笹倉さんは上機嫌だった。鼻歌を歌いながら、先に歩いて行ってしまう笹倉さんだったが、不意に立ち止まり、くるりとその場で半回転して俺に向き直る。

 下唇を引っ込めて笹倉さんは黙っている。顎を引いたり上げたり、口を閉じたり開いたり、動作が逐一、可愛らしい人だ。

「教室に戻らないんですか?」

「よかったら、お昼ご飯、一緒に食べましぇんか!」

「落ち着いて」

「は、はいい……あの、ダメですか?」

 上目使いで誘われたが、これらか屋上に行かなければならないので、丁重に断る。

「陸上部の顧問が呼んでいるらしくて」

「富田先生が、ですか……? また部活始めるんですか!?」

「ははっ。笹倉さんがそんなに喜ぶなら、入部を考えてみようかな」

 陸上を始める気はさらさらない。嘘を吐くのは忍びないが、これといった手段が他に思い浮かばず。笹倉さんとは逆方向に歩いていき、遠回りをして屋上に向かう。



 女子、それも笹倉さんの手作り弁当の、おかずを分けてもらえるかもしれなかった。

 浅はかな判断をした。屋上に繋がる階段を上りながら後悔する。

 どうせ、ちんけな可能性に賭けるなら、笹倉さんと昼食を御一緒したかった。

 肩を落としてドアノブに触れると、微かな温もりを感じた。鉛色が目立つ鍵を制服の胸ポケットに突き戻して、ドアノブを捻り、扉に軽く体重をかける。扉は簡単に開いた。

「……お昼に来るなんて聞いてません。ペナルティですペナルティ」

 吹きつける風と、まぶしい日の明かりに目を細める。手をかざして小さな日傘を作った。

 雲一つない晴天の下、黒須は金網の内側で『(ほうむ)らんバット』を貪っていた。

「おい、どうやって入ったんだ。鍵は返したんだろうな。病院は」

 無駄足を踏まずに済む。金網に寄りかかる黒須の隣に、人一人分の間隔を開けて座った。

 黒須は、「返しておきました。病院は間に合っています」とだけ言って、右手に持っていた『葬らんバット』よりも細く、彼女の手に収まりきらないほど長い、棒を見せてくる。

 いびつにねじ曲がるそれは、鉄の棒だった。絆創膏まみれの手に握られた鉄の棒を、鍵がわりにして入ってきたというのか。

「まさかそれで……ダメだ、聞いたらアホが移りそうだからやめておく」

「人の第一声をシカトしておいてアホとはなんです。傷つきます」

「声に抑揚がないから、傷ついたとか言われても」

「元からこういう喋り方です」

 俺が「……すまん」と謝れば、黒須は「冗談ですよ。おかしな先輩」と鼻で笑う。

 会話に主導権というものがあるのなら、間違いなくこいつが握っていた。

 やつれたバッグが一つ、黒須の足元に置かれている。黒須はしゃがみ、バッグから新たに『葬らんバット』を取り出した。

 包装の端を摘まみ、封を開ける黒須の指は、びいどろの首を彷彿させた。

「随分と、ひどい生傷だな」

 小指と薬指に張り付いていた絆創膏が剥がれている。擦り切れて出来たであろう膿んだ傷が白い肌には不釣り合いだ。

「あまりじろじろ見ないでくださいっ」

 俺が指摘すると、黒須は慌てふためいた。バッグに手を突っ込んで隠す。

 同情してしまうくらい、痛そうな摩擦音がした。

 黒須は苦痛に顔を歪め、声にもならない叫びをあげる。

「いまさら焦るようなことか」

「……それもそうですね。センパイ、アタマ、イイナー」

 たどたどしく言って、バッグを漁る。

 危ないと思った刹那、『葬らんバット』が彼女の手から落ちた。

「センパイ、アタマ、ワルイナー……」

「俺の責任にするなよ」

 ただでさえ低い黒須のテンションが、どん底にまで落ちる。

 黒須は重みのある溜め息を吐きながら、『葬らんバット』を拾い、半目でこちらを睨む。

 今にも噛みついてきそうな険相だった。

「分かった分かった。お詫びにケガの手当てをするよ」

「お、おかされる」

「ぐへへへ、傷物にしてやろうか」

「いいから早く看てください」

 今後、下手に相手に合わせないようにしよう。

 差し出された腕は、ほっそりとしていて綿のように軽く、俺の指に吸い付く。柔らかくて気持ちがいい黒須の腕を引いて、絆創膏やガーゼを剥がした。

「バッグの中に、いろいろ入っています。バンソーコーとか」

 わざわざ、一階の保健室まで足を運ばなくてもいいらしい。

 顔を出した生傷は赤く腫れ、出血は止まっているものの痛々しい。傷には触れず、「中、見るぞ」と確認を取ってからバッグに手を伸ばした。

 黒須の言った通り、バッグの中には絆創膏の他にガーゼや包帯、教科書、デフォルメされたネコの生首ストラップ付の筆箱、そして大量の『葬らんバット』が積め込まれていた。

 ストラップは『葬らんバット』のパッケージキャラクターだ。

「箱買して応募すると手に入る限定ストラップだっけか」

「お詳しいんですね。まぁ、どうせ取られるくらいなら使っちゃいますよ」

 それらしいことを口に出してくれたが、まずは傷の治療が先決だった。

 階段を使い、一階まで普通に降りる。食堂近くの廊下に設置されている自販機で水を買い、屋上に戻った。かれこれ一年も運動していないと、簡単に息が上がってしまう。

「おおぉ。早いですね先輩。スポーツでもやっているんですか?」

「中学の時に陸上をちょっと、な。ほら染みるぞ」

 呼吸を整えてから、残りの絆創膏も剥がして、ペットボトルの冷水で両手の傷口を洗う。

 黒須は呻き、しかめっ面になる。それでも俺は、傷口を洗い流し続けた。

 三度折り畳んだティッシュで水気を取って、綺麗にガーゼと絆創膏を貼り、名残惜しいが、触り心地の良い手を離した。

 女の子の手に触れたのなんて、何年振りか。もしかしたら触ったことがないのかもしれない。意識すると、途端に恥ずかしくなる。

 一昨日は抱きしめたのだ、なにをいまさら。

「どうやったら、こんなに怪我をするんだか」

「転んだんですよ。先輩、目が卑猥です」

 まだ話す気にはならないらしい。話したいのか、話したくないのか、さっぱりだ。

「卑猥ってなんだ、卑猥って」

「私の両手の純情が汚されてしまいました。先輩のイヤらしい手つきと卑猥な眼差しで……これは責任を取ってもらうしかなさそうですね。男として責任を取るべきですよね」

 涙目で言われても、悪くないから謝らない。そして否でも応でもツッコんでやるものか。

「転んだなら仕方ないな。足元には気を付けろよ」

「手慣れてますね」

「生憎、家族以外で女性の手を握ったのは、これが初めてかもしれないんだけどねえ……!」

 ツッコまない決意なんてなかった。体育以外での久しぶりの運動に、頭の方までうまく酸素が回っていない。

 根本から、俺という人間が黒須を苦手としているのかも知れない。馬が合わない人間など世の中を探せば、ごまんといる。その内の一人と出会ってしまった不幸を呪うまでだ。

「キレる若者こわいですねえ。違いますよ、こっちのことです」

 目線に合わせ、黒須は手をぶらりと上げる。俺は勘違いで、赤面するほどの暴露をしたわけだ。異性と触れ合うどころか、人との交流が少ない。

「顔、ひきつってますがどうかしました?」

 どっと疲れる。その場に腰を下ろして、金網に体を預けた。

 横目で、色白い足を見た。不格好に絆創膏が貼られているが、見て見ぬふりをする。

「昔は運動音痴だったんだ。なにかする度に怪我して、自分で治療していた」

 傷の手当は、怪我の功名というやつか。小学生時代の友人の傍若無人っぷりに引き離されないよう、七度転んでは八回起き上がりを繰り返して隣に立っていた。痛い痛いと心の中で泣き叫びながら友人の隣にいた、幼い頃の自分の声が何処からか聞こえてくる。

 その友人のことを思い出してしまう。気分が悪くなる。俺は隣に立っていたつもりでいただけ。今はその友人も転校してしまっていて顔を合わせることもない。

 別れの言葉も無しに消えてしまった友人のことを思い出すべきではない。

「いまはどうなんです」

 黒須の言葉で我に返る。間を置いてくれたことに、黒須の人間性を垣間見た。

 黒須はいいやつだ。

「人並みには動けるよ。さっきも言ったように、陸上だってやってた」

 怪我をするのが怖くて、飛んでも無傷でいられる遊びに熱心になった。月日を重ね、体の扱い方を理解し、小学六年生時に学校の陸上部に入部する。それから、飛ばなくなった。

 単純に転ぶこともなくなってきたのだが、衝撃的だったのが仲の良かった友人の転校だ。

 折角、黒須が気を使ってくれたのにも関わらず俺は二度も嫌な思い出を蘇えらせてしまった。そこで考えることを止める。いつか笑い話に出来る日まで封じておく。

「陸上は続けていないんですね」

「んー、まあ、どうでもいいんだ。無気力症なのかね、それほど陸上に愛着があったわけでもないから」

 昨日今日会ったばかりの相手に、なにを言い訳しているのだか。阿呆らしい。

「ということは、現在プー太郎ですか。プー太郎先輩ですか」

「好きに言ってろ」

 自分のことは話さないくせに、人のことは知ろうとするのか。

 下から黒須の顔を見ても、何も書いていない。無表情とは黒須の為にあるような言葉だ。

「プー先輩、傷の手当、ありがとうございます」

「どういたしまして」

「先輩の優しさに免じて、昨日の『葬らんバット』5本の約束と、今回のペナルティはノーカウントとしてあげます」

「……どういたしまして」

「ところで先輩、なんで昼休みなのに此処に来たんですか? 屋上の掃除ですか」

 俺はそのことを伝えに来た。黒須が屋上にいてくれてよかった。

「あぁ、今日の放課後、用事が入って早く帰らないといけなくなって」

「『葬らんバット』10本」

 地べたに唾を吐くように言い放ってくる。俺は何もしてはいない。横暴にもほどがある。

「私のパンツを見た分も入れて、合計で20本」

 学校指定のスカートは膝辺りまで伸びている。下から黒須を見上げているが、身長差もあって見えない。いや、見る気は無い。見る気は無いのだ。

「お前のパンツはそんなに安くていいのか」

 『葬らんバット』10本分は200円。悲しくなるほど安い下着になってしまう。

「――50本」

 増やしたつもりらしいが、それでも世間一般から見れば安すぎる。

「なんで来られないんですか」

「だから用事だって」

「逢引ってやつですか、デートってやつですか。これだからリア充ってやつは」

「ち、ちがーよ」

「どもりました。100本」

 俺の懐事情に支障をきたすラインまで一気に上昇した。

 黒須は、ゴミ捨て場に集るカラスを追い払うような目で、こちらを見下ろしてくる。

 明日また会えば。そう弁解しようとするが、明日は土曜日で授業はない。

「月曜、月曜日なら絶対に会える」

「明日は学校無いですしね。私はそれで構いませんが」

「ああ、『葬らんバット』買って来てやるよ」

「買って来てやるよ?」

「……献上、いたします」

 苦しい言い訳が通ってよかった。どうせ月曜日も会いに来るつもりだった。

 黒須は満足そうに『葬らんバット』を咀嚼していた。わずかに変化する表情が面白い。



 放課後になる。俺は笹倉さんの護衛役を任されていたことを忘れずに覚えていた。

「笹倉さん。帰りましょう」

「はいいぃ!? えっ、えぅえ? どうしてなんででどすか!?」

 突っついた笹倉さんの肩が跳ね上がる。聞き返されたので俺も驚いた。

 俺が笹倉さんの送り迎えをする約束は夢だったらしい。今日の一連の出来事が夢で済むなら、それはそれで嬉しい。笹倉さんが痴漢に会っていなくて大変、喜ばしいことだ。

 部活に行く、バイトに向かう、道草を食いに行く学生の雑踏に包まれた教室が委員長の大声で、しんと静まり返る。

「あうあうあう。そうでした、そうでした」

 沈黙に呑まれ、おたおたする笹倉さん。

「さ、桜、一体どういうこと」

 先ほどまで笹倉さんと話をしていた大塚(おおつか)さんが、笹倉さんの肩を引っ掴んだ。それを機に止まっていた時間も動き出す。雑踏がまた教室を包む。

 笹倉さんは慌てた様子で、大塚さんに返事をする。

「あ、あのね、ほら、昨日、あったからほら」

「そういうことね。把握したわ」

 大塚さんには、痴漢事件を相談していたらしい。一年生の頃も同じクラスだったらしい。仲がいいのだろう。

 呆れていた大塚さんが、突然こちらを睨みだす。と思えば、俺の後方にいる男子たちを睨んでいた。ボーイッシュな大塚さんの威嚇は怖い。

 男子たちは、ぎこちない動きで教室を出て行った。

 教室にいる生徒は、笹倉さんと大塚さんと俺の三人だけとなる。

「鈴木君って、しっかり者かと思っていたけど、そうでもないのね」

 大塚さんはきっと、昨日のことを言っている。恥ずかしいばかりだ。

「笹倉さんには、申し訳ないことをしました。大塚さんにも謝らせて欲しい」

 一歩下がり頭を下げる。

「私は別にいいんだけど」

「平治くんは、悪くもないのに頭を下げてくれました。昼休みにも話したよね」

「確かめたかっただけだって。ごめんね、鈴木君」

「友だちが嫌な目に合えば誰でも怒りますよ」

「前言撤回するよ。鈴木君は、やっぱいい人なんだね。桜がもがぁっ」

 笹倉さんが後ろから、大塚さんの口を両手で塞いで廊下まで引きずって行く。

 廊下から顔だけ出して、笹倉さんが笑顔で言った。

「か、帰りましょうか」

 作り笑いだった。仮面の下に潜む恐怖の片鱗を味わう。

 いろんな意味で緊張しながら、笹倉さんの隣を歩く。校門から出るまで、無言が続いた。坂井はバイト、大塚さんは部活があって一緒には帰れない。

 このままではいけない。空気を読んで俺から話しかけるべきだ。

 共通する話題を探して記憶の海に潜り、深い底から引きずり出してくる。つい昼ごろに蘇えった記憶なので、探り当てるまで時間はかからなかった。

 笑い話にはならないが致し方なし。

「大塚さんって、(ゆめ)……高橋(たかはし)さんに似てますよね。ほら、小学六年生のときに転校した。いや、五年でしたっけ?」

「六年の初めの頃じゃありませんでしたっけ。平治くんも千尋ちゃんと夢さんが似てるって、そう思います?」

「高橋さんの方が、はっちゃけてましたけどね」

「その時はまだ小学生でしたから。今はもっと、おしとやかになっているかもしれません」

「イメージできそうにないです」

「それはひどいよ」

 和んでくれたみたいで一安心だ。しばらく、昔話に花を咲かせた。

 友人の名前は夢。懐かしい響きで、笹倉さんと一緒に口にすると心地いい。

「夢さんって言えば、あの小学校五年生の時の事件。鶏たちの殺傷処分が決まって、それを聞いた夢さんがクラスで一番最初に非難の声を上げて、クラス全員で職員室に乗り込んだ事件が今でも忘れられません」

「暴動も虚しく、人畜無害なニワトリは鳥インフルエンザの風評被害で駆逐されましたけどね。高橋さんは動物好きで、自主的に鳥小屋の当番を引き受けてましたね」

「遊具広場にダンボールで塀を作って、そこに小屋の兎を放ったこともありましたよね」

「あれは笹倉さんがかわいそうって言ったから、高橋さんと俺で作ったんですよ」

「そうなんですか……知りませんでした。あ、ありがとうございます?」

「壁を作ってオスとメスで分けるのに手間取りました。子どもが増えないように、っていう高橋さんのアイディアだったような気が。はっちゃけているのに頭は良かったですよね」

「テストはどの教科も満点でしたもんね。運動神経も良くて、動物好きで、可愛かったですから、みんなの人気者で、ちょっぴり羨ましかったです」

「動物好きって言えば、笹倉さんも十分、動物好きですよね。猫が好きでしたっけ?」

「拾ってきちゃうくらい好きです。覚えていてくれたんですか」

「なんとなくですけど」

 くすりと笑う笹倉さんに、俺も思わず頬が緩んだ。

 それから、通っていた小学校へ寄り道することになった。学校の周囲を歩いて帰路に戻る。徐々に距離が縮まっていくような気がした。

 小学校から笹倉さんの家に続く開けた道端で、笹倉さんは立ち止まる。

「ここらへんで、痴漢に、あったの」

 俺も少し進んだところで立ち止まる。俺一人が浮れているだけだったのか。

 それでも笹倉さんは俺に笑顔を向けてくれる。この人には一生、頭が上がりそうにない。

 タイムスリップできるのなら、笹倉さんをからかっていた昔の自分の頭を殴ってやりたい。落ちても無傷でいられることに何の得がある。

「気にしないでください。それに痴漢した人は……」

「顔を見たんですか。あっ、無理に思い出さなくてもいいです」

「ううん。顔は見てないけど、うん。確信もないですから、この話は止めておきます。痴漢さんは痴漢さんだったけど、痴漢さんじゃなかったというか、なんというか」

 笹倉さんは首を横に振り、声を張った。元気そうで何よりだ。

「笹倉さんって泣き虫だったのに、今は見違えるほど強いですね」

「そんなことはないですよ」

「ささささささささんは泣き虫ですね」

「や、やめてくださいい」

「懐かしいですね、こういう雰囲気。高橋さんと妹も混ざって遊んでいたっけ」

「懐かしいですね……平治くんの妹さんは元気にしてますか?」

 たまに妹も混ざって遊んでいた。

 一個下だからか二人を怖がり、いつも俺の尻に引っ付いていた。

「元気らしいです。向こうでは友だちもできたみたいで、まさかアイツに限って苛められるなんてことは無いでしょう。どちらかと言えば、誰かを苛めていないか心配です」

「妹さんともまたお話ししたいです」

 何故かイジメについて口を紡ぎ、黒須の顔が思い浮かんだ。

 この春から妹は寮を借りて、遠くの高校に通っている。本心から言えば妹は心配なのだが、黒須のことも気にかけているのかもしれない。

 世の中には陰湿でたちの悪い者が増えているらしいが、俺の通う学校ではあまり耳にしない。近年ではメディアにも大きく報じられるようになった。イジメが起因となり、命を絶つ中高生が明らかに増えているのも原因の一つか。

 俺にとっても、放ってはおけない現実問題となってしまいつつある。

「平治くん」

 弱々しい声が、進もうとする俺の足を引き留める。顔色が悪いようにも思えた。

 一つ前の会話は冗談のつもりで言ったのだが、気分を害してしまったようだ。失言だ。

 小学生時代の古傷を抉ってしまったのかもしれない。

「イジめは、最低ですよね。わたしは最低だと思います」

「すいません。軽率でした」

「……違うんです、違うんです。平治くん、わたし――」

 何かを決意したかのように、笹倉さんは胸に拳を置いて啖呵を切る。普段は物腰柔らかい人なので、あまりの必死さに半歩ほど後退りしてしまう。

 笹倉さんは一体、何を言おうとしているのだろう。俺は固唾を呑んで待つ。

「キャー!! 痴漢、痴漢ーーーー!!」

 笹倉さんの言葉を遮り、近場から女性の大きな悲鳴が聞こえた。鼓膜を破きかねない女性の大きな声に、近隣住民も驚いたことだろう。笹倉さんも、きょとんとした表情をする。

 笹倉さんの言おうとしていたことが気になる。しかし、先のT字路にあるブロック塀の曲がり角を目指して俺は走り出す。使命感が欲望を打ち砕いた。鞄を放り投げ、笹倉さんにはその場で待っているように言った。

 ここは車の通りが少ない。角から飛び出してきた何かが、人であることは容易に分かる。

 サングラスをかけてニット帽を被り、コートを翻す痴漢と、角で鉢合わせになった。ご丁寧にマスクまで装備した痴漢の後方には、被害者の学生とその悲鳴で駆けつけた警察が一人。

 捕まえるべく、咄嗟に手が伸びた。

 痴漢は地面を蹴って横に飛んだ。それは一瞬の出来事だった。

 平行に立つ塀にそのままぶつかるかと思いきや、片足を塀にかけて、流れるように塀の上へ駆けた。痴漢は壁を走って上った。

 頭に教え込むまで、数秒の時間が過ぎる。

 痴漢は何もできなかった俺を一瞥すると、塀の上を走り出す。

「そこの青年! この子を頼む!」

 警察が何か喋っていたが、その時には俺も走り出していた。

 随分とアクロバティックな痴漢だ。塀から飛び降り、勢いを殺さないまま地上を駆ける痴漢の背中を追った。

 痴漢を追跡し、角を五度ほど曲がった。痴漢はこの地域の地理にある程度詳しいようだ。

 公園を抜け、線路を跨ぎ、団地を通る。

 綺麗に交番の前だけは避けて逃げているような気がしてならなかった。角を曲がり間違えたのかどうかは定かではないが、その都度、賞賛に値する技で翻弄させられた。

 壁に手を当て、それを軸に後方宙返り。痴漢は逆さまになりながら壁を蹴り、追ってきた俺の上空を飛んで方向転換する。

 ――パルクール。フリーランニング。追いかけながら、埋もれていた知識を掘り出す。

 落ちても不死身でいられる能力を使って、面白い遊びができないか試したことがある。

 それらの遊び、もといスポーツは、障害物を乗り越え、建築物の高低差を無視して突き進む、ルール無用のスポーツ。フリーランニングはそれに芸術性、魅せる動きを付加したもの。痴漢のそれは、移動に特化したパルクール、そのものだった。

 裏路地のフェンスを駆け上がり、歩道橋の階段から体を回転させながら飛び降りる。

 駐車された自動車は跳び箱、自転車はハードル。商店街を駆ける痴漢は障害物を諸共しない。角から出てきた人にさえ、ぶつかることはない。

 店の前の看板を踏み台に、店の二階の窓に指を引っかけて猿のようによじ登っていく。

 屋根を駆ける痴漢を俺は見失わない様に下から追いかけた。

「なんだあれ」「なにあれ」「学生」「危ないだろ」「逃げているの」「追っかけている」

 周囲の視線に既視感を覚えた。言い訳をして帰りたい衝動に駆られる。

 男の俺が「その人痴漢です」などと言っても、誰も応えてくれないだろう。そもそも、その声に気付いてもらっても、痴漢は既に通り過ぎている頃だ。

 地上に降りてきた痴漢との距離は縮まるどころか、身のこなしと体力の差が滲み出て、どんどん離されていく。

 単純に痴漢の足は速かった。へばる素振りすら見せない。

 小さくなる痴漢の背中を視界から見失わないようにして、捕まえる手段を考えていると、ゲームセンターから学生の集団が出てきた。

 乱雑に広がり、痴漢の前方を塞ぐ。彼らは話に夢中で、こちらの存在に気づいていない。

 チャンスだ。普段は喧しくて敵わない彼らだが、見知らぬところで人の役に立つ。視点を変えてみると思わぬ発見があった。

 ツンデレ。いや、学生の集団に萌えている暇はない。

 痴漢が今の速度を保ちながら走れば、学生にぶつかる。スピードを落とせば俺に捕まる。

 これといった仕掛けも見当たらず、隠れられる小道もない。

 やっと捕まえられる。

 だが痴漢は必死だった。痴漢はジャンプして、集団に突っ込む。

 無論、飛び越えられるわけがない。尻で押しつぶす、そんな風にも見えた。

 痴漢に気付いた集団の、中心にいた学生たちは咄嗟の判断で身を屈めた。

 それでも、痴漢の跳躍力では越えられそうにない。大惨事になるが、痴漢を捕まえられる。痴漢が宙を舞っている途中で、安易な思考に至る。

 痴漢が、二人の学生の肩を踏み台にして跳んでいた。

「嘘だろ……」

 前方宙返りを披露する痴漢は、子どもの頃、家族で見に行ったサーカスのピエロたちと重なる動きをした。

 痴漢がピエロでピエロが痴漢で。最近の痴漢は追手から逃げるために、常人の動きを凌駕するほどの身体能力を備えているらしい。痴漢、おそるべし。

 俺は餌を待つ雛鳥のように口を開き、呆けていた。唖然としている場合ではない。瞬きを二、三度して現実を受け入れた。

 足蹴(あしげ)にされた友人を気遣い、逃げていく痴漢に罵声を浴びせる学生たち。道の中央に溜まる彼らの邪魔をしないように脇をすり抜け、だいぶ離された痴漢を追いかける。

 商店街を過ぎても、舗装道路での逃走劇は終わらない。



 空に紺色が広がり、星が出てきた。一時間ほど走っているのではないだろうか。ぜえぜえと呼吸を乱しながらも、俺はまだ走っていられた。

 帰宅部には辛すぎる。体力も限界に近づく中、痴漢を追い、うねる坂道を上った。

 この坂道は展望台へ続いていた。コンクリートの地面から土の地面に変わり、足にかかる負担と走力が著しく減少する。痴漢との距離は一定に保たれたまま。足が悲鳴を上げ、気管支の辺りが燃えているかのような熱い痛みを覚える。苦しい。苦しいが耐えなければならなかった。

 アドレナリンを喰い散らかして足腰の踏ん張りを効かせる。展望台に着くと、見栄えの良い木の柵に手を置き、痴漢は佇んでいた。

 木の柵の向こう側は断崖絶壁だ。森の中に逃げられないように急いで間合いを詰めた。

「年貢の納め時ってやつだ、痴漢野郎」

 灰塵と化した頭が選んだ、決め台詞のようなものだった。込み上げる吐き気を気力で抑えて、痴漢騒動を楽しんでいる自分がそこにはいた。高揚感を押し殺せず、昇天してしまいそうだ。

 使命感が源とは言え、不謹慎だろうか。滝の様に汗を流し、肺が破裂しそうになるまで必死こいて走ることが、楽しいことだと思ってしまう。

 痴漢に学ばされたことだけが唯一の心残り。

 殴りかかってくる可能性も考慮し、慎重に近づいていく。すると、痴漢はマスクを外し、女性のような輪郭を露わにして言った。

「痴漢野郎か。キミにそう呼ばれると、泣いちゃうな」

 なにを言ったのか、理解できなかった。時間差で頭が追いつく。俺のことを知っているような口ぶりだった。俺に痴漢の知り合いなんていない。ましてや、女の声をした痴漢だ。

 腹から出しているのか、ぶれのない良く通る声だった。

「さらだばー」

 そうこう考えをめぐらしている内に、痴漢は展望台から飛んだ。濃い藍色の夜空を目指して、柵から飛び降りた。

「まっ……!!」

 前科者になりたくないからって飛び降りるなんて無茶苦茶だ。

 俺は崖を覗いて絶句した。20mの高さはある崖を、痴漢が落ちていく。

 痴漢の帽子は外れ、長い髪が露わになると、アリのような小さな影となっていき、森の緑に呑まれて消えた。葉や枝が上手い事、クッションになっていればいいが。

 一月内で二度も人の身投げに立ち会っていては、こちらの心臓がもたない。

 地上まで目測20m。暗くて木がどれほど伸びているか、確認できなかった。

 20mの高さから落ちた試しが皆無なので、俺でも命を失うかもしれない。最高地点は一昨日と昨日に飛んだ高校の四階屋根、屋上である約10mの高さだ。それでも、背中から全身に走った激痛で悶絶し、意識を朦朧とさせたてしまった。

 犯罪者に情けをかけたくない。後ろ髪を引かれる思いで、展望台を立ち去る。

 痴漢は、女性だった。俺のことを知っていたようだが、痴漢を働く女性に覚えはない。

 笹倉さんを待たせているT字路まで戻った。距離があったので、途中途中で小走りになったのは致し方ないこと。笹倉さんのために追いかけた、と言っても過言ではない。

 電柱の電灯の下で、笹倉さんは待っていてくれていた。

「遅くなって、すいません」

 つい嬉しくて、棒になった足で犬の様に走り寄った。

「お疲れ様です。ずっと追いかけていたんですか?」

「町中走り回って、最終的には逃げられちゃったんですけどね」

 詳細までは話せない。明日の朝刊の一面に『展望台の崖下で亡骸発見』という見出しが載らないことだけを願った。

 やましい事なんてないのだから、警察沙汰になったらそれはそれだ。おとなしく情報を提供するか、適当にはぐらかしてしまおう。

「捕まえられなくてすいません」

「なんで謝るんですか。平治くんが無事でよかったです」

「そう労って貰えると、がんばって走った甲斐があります。ところで、なにか俺に話したいことがあったみたいですが、ほら痴漢が現れる前に」

「な、なんでもないです。どうでもいいことなので」

「ならいいんですが。悩みごとならいつでも聞けますよ」

 笹倉さんは自嘲気味に笑む。

「そうだ、メール! メルアド交換しませんか!」

「どうしたんです、突然」

「メールでそのことについて相談しようと思います」

 俺は「は、はあ」と困惑する。

 どうしたのだろう。笹倉さんにしてはアグレッシブな行動だ。

 どうにも昔の泣き虫笹倉さんのイメージが頭から離れない。

「ダメ、ですか……?」

 感情の浮き沈みが激しい。そういうところも可愛かったりする。

 現状をよく把握してみれば、あの優しい委員長といつでもどこでも連絡を取り合うことが出来る好機ではないのか。

 そうに違いない。疲れている。客観的にものを見ても許されるだろう。

 二つ返事で承諾し、笹倉さんを家まで送り届けた。その後、俺も自宅に帰る。

 ベッドへ倒れ込んで本を読む。段々と眠気に誘われて、首を打ち始めた。

 携帯のバイブ音で目が覚める。笹倉さんからメールがきたのだ。

〈今日はありがとうございました。色々悩みましたが、やっぱり直接話すことにしたので、メールでの相談はなかったことにしてください〉

 文末に、しょんぼりとした顔文字を付けたメールだった。

〈分かりました。今日は疲れたのでもう寝ますね〉

 簡素な返信すぎる。坂井とのメールじゃないんだから、もっとこう、色々とあるだろう。

 携帯の返信ボタンを押してから反省した。

〈はい! じゃあまたね!〉

 にこやかに手を振る顔文字を尻目に、眠りに着いた。


     +


 月曜日の朝は清々しいものだった。隣の家のおっさんのうがいも、いつもは耳障りだが今日に限っては小鳥のさえずりにさえ聞こえてしまう。

 土日に笹倉さんとメールのやりとりをして、すこぶる機嫌がいい。

「朝っぱらから、にやにやして……きめぇ」

 親友の暴言も許せてしまう。ささくれてひん曲がっていた心が浄化されている。

 今日の放課後は黒須とも会える。あいつは元気にしているだろうか。

「そういえば、痴漢はどうなったんだろうな」

 現実へ引き戻そうとする坂井が憎たらしくて堪らない。

「平和ならいいじゃないか、それで」

 テレビや新聞にも、展望台から落下した痴漢について、取り上げられていなかった。

 無事で済んだのか、はたまた重傷で未だ動けずにいるのか、真相は謎だ。

 本当に嫌な物を見た。気持ち悪さの余り、酸の味を舌の奥で感知する。

「マジでどうしたんだよ。転校生が来るからって浮足立つ性分でもないだろ」

「どうもしてない」

 坂井は頭に疑問符を浮かべる。

 俺が席に着いてから十五分の短い時間が過ぎた。教室の扉が開き、皆一斉に口を閉じる。珍しく、加藤先生が時間通りに教室へ来たのだ。

「ほらほら、席に着いた着いたー」

 大人しく席に座る生徒たち。一番後ろの列に設置された空席のことで、クラスはどよめいていた。先生の隣には髪の長い女の子が、手を前で揃え、行儀よく立っている。

 背も高く、一般的に美形と呼べるだろう容姿に、クラスの女子生徒全員からため息が漏れたような気がした。優しそうな二重瞼。あごはすっと滑らかな曲線をかたどっていた。

「見れば分かるように、席が一個増えていますねー。ということで、転入生を紹介します」

 先生が適当な説明している間に、彼女は長い髪を(なび)かせ、黒板へ向き直る。

 滑らかに書かれていく名前は、彼女の影に隠れるほどの大きさで、とても読みやすく綺麗な字だった。草冠が書かれた辺りで、違和感を覚えた。

「……うん?」

 二文字と、間を開けて一文字で黒板に形成された名前は――高橋夢(たかはしゆめ)

 斜め前の方の席に座る笹倉さんは、ぽかんと口を開けていた。

 俺も口が半開きになっていた。

「都心の学校から来ました。転入生の高橋夢です。ここの近辺には10年ほどお世話になっていました。ですが町並みの変化に驚くと同時に、馴染めていないのが現状です。至らない点が多々あると思いますので、手取り足取り教えていただければ幸いです」

 転入生は、丁寧に深々とお辞儀をする。

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