第一話【おとなしい女の子】
「昨日な、俺。飛び降り自殺しようとした女の子を助けたんだ」
坂井は馬鹿を見つけたかのように高らかと笑った。
「平治が冗談を言うなんて、今日は雹でも振るんじゃないか? やばい傘持ってねえや。それで、どうしたんだホント」
クラスで特別仲の良い相手といえば、坂井だけだ。その親友に話しても冗談としてしか聞いてもらえない。
自慢したかった。朝一番で学校に来て「俺は女の子を助けたぞ!!」と鶏宜しく叫びたかった。そういう人間ではないことくらい、俺が一番よくわかっている。クラスの皆からすれば、寡黙で大人しくて、顎で使いやすい、影が濃淡な生徒なのだ。
昨日の高揚感が、頭の片隅で三角座りをしている。
坂井なら、坂井にならと思った俺が間違っていた。
「冗談だよ」
「そういうなよ、俺が悪かった。だから話してくれよ」
いいやつだ。その反応を期待していた俺は、坂井とは正反対で、汚い人間だ。
昔から坂井はなんでも聞いてくれる。中学の頃は別々の学校だったが、大会でよく顔を合わせた。陸上部に所属していた坂井は俺と同じ100mの選手。
坂井は誰にでもよく話しかけて、誰でも笑わせる。友だちを作るのが上手かった。口八丁手八丁を体現したような男だった。
かくいう俺もそんな男に丸め込まれた一人だ。自分よりも足が遅い初対面の人間に対して「お前、はやいな。抜かれちゃうところだったよ」だなんて、挑発と受け取られても文句は言えないだろう。
その時は聞かなかったふりをして逃げたが、追ってくるものだから仕方なく話しの相手になっている内に、仲良くなってしまった。坂井は聞き上手でもあった。
坂井は明るい。腰痛で陸上を続けることができなくても、元気で人気者で、なんとなく部活を続けなかった俺とは、やっぱり正反対な人物像だ。
「メガネをかけた女の子が屋上から……お前はそれをどこで見ていたんだ」
「屋上だよ、屋上」
昨日の出来事を話している内に、気が抜けていった。
春の陽気に当てられたからか、虚ろな意識の中でまた同じクラスになった親友について、ぼぅっと思い出していた。
「あの時は夏の大会だったなあ」
月日の流れは早い。もう高校二年生だ。日々を部活と遊びに費やしたあの頃とは一転して、進路について頭を悩まされる生活が明日も待っている。
「夏の大会がどうした?」
「ああ、なんでも。で、えっと、俺はその時、委員長の代わりに屋上の掃除をしようと」
「そりゃまた、なんで万年怠け小僧が掃除なんて」
「階段で転んだ清掃員のおじさんを委員長が見つけて。ほら委員長って優しいから」
「委員長は、優しいからな」
二人して、一列目の廊下側の席で他の女子と楽しそうに喋る委員長を見た。
優しくてかわいい委員長を愛でるのはまた後だ。時間が無いので話を戻した、急ぎ用でもないのだが。どうでもよくなってきた。
「清掃用具を持って階段を上る委員長を、俺が見つけたんだ」
四階の廊下に設置された水道を使って、委員長は顔よりも一回り大きいバケツに水を汲んでいた。見るからに非力な腕で水の溜まったバケツを持ち上げる。
おぼつかない足取りで階段に足をかけようとしたところで、俺は呼び止めた。今にも転んで水をぶちまけてしまいそうな委員長を、注視していられるわけがない。
「お前は屋上にいたそうじゃないか。どうやって助けたって言うんだ」
格好つけて委員長を先に帰らせた俺だったが、屋上のあまりの広さに絶望した。げんなりと肩を落とす。そこで視界の隅に写ったのが、金網の向こう側にいる彼女だった。
何かを考える前に体が動き、気付けば金網をよじ登り、彼女と同じ細い足場に立った。
「……追いかけて、飛んだ」
「おいおい、それだと落ちてるけど落ちてないぞ」
俺が「え?」と聞けば、坂井も「え?」と聞き返してくる。
「いや、そうだけど」
「……とんだ笑い話だな」
「いや、だから屋上から飛んだんだって」
坂井の「え?」に、「アホのように繰り返すのは止そう。頭が痛くなる」と返す。
昼休みまでの休憩時間の間、つまらない話は続いた。自慢なんてするもんじゃない。
坂井みたいに弁達者なら面白く盛り上げられただろうか。話す方は退屈だった。聞く方はもっと退屈したに違いない。
「要するに、かわいい女の子に会ったってことだろ」
「そうだけどさあ」
落下の件に関しては、冗談として受け流された。さすがの坂井でも許容範囲外らしい。
「仮に、屋上からその子を追いかけて助けたとしても、それを助けたとは言わないな」
菓子パンをむさぼって喋るものだから、坂井の口から食べカスが飛び散る。
「わるいわるい」
「……飛び降りたかったのに、助けたとは言えない、ねえ」
親しき仲にも礼儀あり。視線に気付いて一言詫びを入れたので許すことにした。机の上に広げた日の丸弁当から、メロンパンのカスを取り除いていく。
「だろう? それでその女の子は同級生、下級生、それとも先輩?」
「聞いてない。けど外見は、小柄で、おでこが広くて髪の短い女の子。あ、あとメガネ、メガネをかけていて、おとなしそ……おとなし……お、おとなしそうな女の子」
発狂した女の子を思い出した。途中で詰まりはしたものの「おとなしい」と言い切った自分を褒めてやりたい。
「平治好みすぎて、疑うレベルだぞ」
それでも信じてくれる坂井は、親友の鏡だ。わざわざ、証拠品の壊れかけたメガネを見せる必要もない。嬉しくなって頬を緩めてしまう。
「急になんだ、気持ち悪い」
頬を緩めることすら許されない。歯に衣を着せず、きっぱりと物を言うやつだ。
「お前の話で思い出したが。なんでも、近々うちのクラスに転入生(女)がくるそうで」
「クラス委員の俺が聞いていないんだけど、どういうことだよ」
「噂だよ。教員室でたまたま耳にしたやつとか。私服姿を学校で見かけたやつとか」
「根も葉もない、うさんくさい噂だな」
「俺に言うなよ」
弁当箱を片付けながら聞いている限りでは、その噂通りなら近いうちに、2年A組にやってくることになる。
学校の見学、または先生方直々の校舎案内で現れた女の子を、在学生が見かけた訳か。
もしかしたら屋上の彼女が転入生なのか。素朴な疑問は、坂井の口からパン屑の代わりとなって出てくる。
「屋上に走って行ったところを見た奴もいるんだ」
「屋上に走って行った女の子をそいつはなんで、転入生だと決めつけたんだ」
一年生、もしくは三年生かもしれないだろう。生徒の学年を一目で把握できる術は、この学校には存在しない。
それらは無粋な疑問だった。ひそめた眉を戻そうとした俺に、坂井は丁寧に説明する。
「転入生なら屋上が閉鎖されていることを知らないだろ」
坂井の言い分に納得させられる。
普通の学校なら、どこもそうだ。転入生の前の学校では屋上が開放されていたのか。
「それにしても、なんで走っていたんだ?」
「まあ待て。だからそいつもおかしいと思って、あとを追いかけたらしいんだけど、屋上の扉が開け放たれているだけで、そこには誰もいなかったんだとよ」
「ホラーじゃねえか」
肩透かしを食らい、取り乱してしまう。身の毛もよだつ話をしたかったわけではない。
坂井は手をぶら下げて、雰囲気まで作って言う。
「十数年前に屋上から落っこちた生徒の幽霊だったのかもな。お前が助けたって言う女子も、実はその幽霊だったりして」
「転入生の話はどこにいったんだよ」
「屋上の霊が校内をうろつき、それを生徒が見間違えた。なんて、転入生が来る来ないで騒ぐより、面白い話題じゃないか」
屋上は開校当時から使えないだの、天文部が作られて一般生徒も使えるよう学校側が後からフェンスを取り付けただの、これらの噂は現実味に溢れている。
夢や希望の欠片もない噂は、色濃い噂に呑まれてしまう。坂井のような人間が取って食っていき、非現実的でロマンティックな噂を面白がって置いていく。完成された図式だ。
「俺が出会ったのは生身の人間だよ。尾ひれがついて独り歩きした噂と、一緒くたにしないでくれ」
「お前の話の方が信憑性に欠けてる」
「なんだと」
「お、やるか。久しぶりにゲーセン行きたいけど悪いがパスな。今日もバイトだから」
「俺は放課後、委員長と残って雑務だよ」
坂井の話は屋上にいた女の子とは、関係なさそうだ。それに彼女は今日も屋上にいると言っていた。
「かわいい女の子なあ」
坂井は牛乳パックを潰し、「ずずず」と小気味よい音を立てながら残りを吸い出す。流れるようにため息を吐く一連の動作は、イケメンだと絵になるものだ。
坂井はイケメンだった。目は一重、顎は鋭く、鼻は高い。同じ男でも二度見してしまうくらい、顔のパーツが恐ろしいほど整った男だ。
「その幽霊だか転入生だか分からない人は、かわいいの?」
「らしいけどな。はあ、女の子と聞いただけで胸が躍るがな。かわいい女の子かあ」
「彼女が欲しい、なんて言ったら前みたいに蹴る」
「お、おう……自分は自慢しておいてそれかよ、ひどい」
正論すぎて、ぐうの音もでない。
しかし、高校に入学してから告白された回数が二桁を越える野郎に、目の前で「彼女欲しいなあ」なんて言われれば、弁慶の泣き所にローキックを入れたくなるはず。
「いいねえ、素敵な出会い、素敵な女の子」
「転校生の女の子は?」
「儚く散ってしまう期待は抱かない主義なんだ」
「バイトの先輩はどうだったの」
「なんていうか、今じゃもう姉と弟みたいな関係だと思っているから断った」
年上から告白されればそんな感じで断る。同い年、年下には女友達を理由に断る。
坂井の唯一の欠点と言っても過言ではない。
本人曰く「外面も内面も魅力的な女性と付き合いたい」そうだ。
「またそれだ。もういっそのこと自分から告れば。ほら委員長とか」
呆れて肘をつき、委員長の座席へ目を移す。委員長は数人の女子と昼食を楽しんでいた。
「お前は馬鹿か」
行儀良く食事を進める委員長を、一緒に眺める坂井が真剣な面持ちで貶してくる。
「へ、は?」
「委員長は……委員長は皆で愛でるものだろうが!!」
坂井の声が教室内で響く。雑談しながら昼食を摂っていた他の男子たちが追いかけるように復唱し、叫びだした。
委員長は一瞬で顔を赤らめて涙目になり、それを見かねた女子たちが意気投合して男子全員を一掃。昼休みは終わった。
七時限目で皆から回収した用紙には、学園祭に出す模擬店のアイディアが書かれている。まばゆい夕陽が差し込む静かな教室で、要望をノートへ写し、まとめた。
昼休みの件もあるが、特進クラスにも関わらずノリのいい生徒が集まっていることが良く分かる。欲望に忠実というべきなのか。一年の頃のクラスは皆、勉強と部活に疲弊する。
今学期はまだ始まったばかりだ。疲れが一周して、吹っ切れた可能性も捨てきれない。アドレナリン効果というやつか。模擬店のアイディアには、パンチラ喫茶なんてものも挙げられている。
お化け屋敷やゲームコーナーなど、鉄板ド安定な模擬店と一緒に並んでいる坂井の案なんて、スクール水着でしっぽ取りゲームだった。模擬店を考えろと言ったはずだ。
分からなくもない。俺も男だ。今回は見逃してやろう。俺もやりたいとかそんな不埒な考えをもって判決を下しているわけではない。
「平治くん、平治くん」
机をくっつけて真正面に座る委員長が、作業中に珍しく話しかけてくれた。
試しに脳内で委員長の水着姿を想像してみた。膨らみかけの乳房と、小ぶりのお尻がスクール水着で映える。オプションで尻尾とねこみみを付けると大変なことになった。
「へ、平治くん!」
現実の委員長は、心なしか困ったような顔をしている。どちらの委員長も撫で繰り回したいくらい可愛い。犬や猫みたいな可愛さだ。
「あ、え、なに」
「えっちなこと、考えてません?」
「それはありえない」
俺はそう断言した。折角、話しかけてくれたのに淡泊な返事をしてしまった。心の中で、ひそかに後悔する。
「ご、ごめんなさい……変なこと聞いて」
しおれる委員長もかわいい。
「変な顔してました?」
「変じゃないけど、平治くんって昔から、その、思っていることが顔に出るから……今わたし、とてつもなく失礼なこと言いましたよね、わたし……」
委員長の長い揉み上げが枝垂れ、顔に影まで落としている。
自分が蒔いた種で、そこまで落ち込むものなのか。小学生の時から同じ学校に通っているのだが、委員長は意外にも繊細だった。俺が委員長のことを知らな過ぎるだけなのか。
「顔に出やすいのか、気を付けるようにするよ」
「大丈夫、大丈夫だから! しっかり見ないと分からないから!」
あまりにも必死な言動だったので、委員長はガタンと机を鳴らしてしまう。束ねられていた用紙が散らばったので、二人して回収作業に移る。
顔を真っ赤にして、「あうあうあうあう」と、ぶつぶつ呟き続ける委員長。
「ところで委員長の方は、ノートまとめ終わりました?」
紙を揃えながら尋ねる。委員長は前回の議題の、あいさつ運動についてまとめていた。
「は、はい、いまさっき終わって……」
「おつかれさま委員長」
手際の良い委員長だ。一緒に小学校で委員長をした時から、変わっていない。
「あのう、あのう」
「俺の方ももうすぐ終わります。先に帰ってくれても構いませんよ」
「委員長、じゃなくて」
「……あぁ、慣れ慣れしいですよね。すいません」
皆から「委員長、委員長」と呼ばれていたので、つい雰囲気に乗せられて委員長と呼んでしまっていた。俺も悪乗りする傾向にある。
中学から高校一年の時までは別のクラスだったが、もしかしてその時も学級委員長に任命されていたのか。そうに違いない。定期的に行われた学級総会で、よく見かけたものだ。
委員長も仕事が終わったそうなので、こちらの作業も終えたことを告げると、帰宅の準備を始める。もう、陽も半分ほど沈んでいた。
血気盛んな陸上部の練習を、教室の窓から覗く。昔は熱心に部活をやっていたのに、今では頓と、やる気も興味も湧かず、「がんばってるんだな」と傍観する側にいる。
俺が帰り支度を進める中、委員長は微動だにしない。どうしたのか尋ねる。
「わたしも平治くんって呼んじゃってますし、前みたいに、桜って呼んでもらえると……」
「まあ委員長がそういうなら」
「あっ、もう覚えていませんよね厚かましいですよね、嫌なら構いませ……え?」
委員長は声を裏返し、器用にしゃっくりまでしてみせた。
「委員長って呼ばれるのが嫌ならそう言ってくれれば」
フランクに接する方がこちらとしても嬉しい。昔からの顔見知りに肩を張るのは疲れる。
「い、いやです! 断固拒否します!」
嬉しいが、そこまで委員長と呼ばれることを拒むのか。心が抉られる気分とは正にこのことだ。昼休み、泣かせてしまった罪悪感に苛む。
委員長は「あうあうあうあう」と困惑しだした。
どういうわけか分からないが、とりあえず委員長と呼ばないことに決める。
「笹倉さん、でいいですか」
笹倉桜が委員長の本名だ。幼い頃「ささささささささん」なんて言って泣かせてしまってからは桜さんと呼んでいたはず。どれもそれも中学校に上がるまでの青臭い過ち。
いまさら下の名前で呼ぶのも、何か違う気がした。
「はいっ。委員長だと、平治くんと被っちゃいますし……わたしは平治くんって呼んでも大丈夫ですか?」
困り顔から笑顔になったかと思えば、また困り顔に戻る。笹倉さんは昔から変わっていない。持ってきてあげた菓子を無邪気に食べ終えてから、「平治くんの分は……?」と涙ぐみながら聞いてくるような子だ。中学生のころは滅多に顔を合わせることもなかったが。
「四月の頭から、そう呼んでますよね」
「ふええごめんなさいい」
委員長は今にも泣き出しそうに声を震わせ、謝ってくる。
「好きに呼んでください。そういえば、笹倉さんは転入生の話を知ってますか」
「……はい、小耳に挟みました。楽しみですね」
下手な話題転換だったが、委員長の顔は晴れたので良しとする。
「クラスに早く馴染んでもらえるように、笹倉さん、頑張ってください」
「い、意地悪しないでください。平治くんもお願いしますよ」
「人望の厚い委員長が一人いればどうにかなりますよ。転入生は幸福ですよね」
「なんでそんなにやる気が無いんですか……」
転入生について、詳細は分からないらしい。あまりにも楽しそうに言うものだから、含みがあるかもしれない、と勘ぐってしまう。
「あのもし良かったら、ととと途中まで一緒に帰りましぇんか」
笹倉さんに限ってそれはない。あとなにか、物凄い勢いで噛んでいらっしゃる。
帰路も暗くなる頃合い、一人では不安なのだろう。近辺で変質者と痴漢が出没した、というニュースが昨夜に報道されていた。
それとも、いつも一人で下校している俺のことを気遣ってくれたのか。
噛むほど言いたくない事なら無理をしなくても。
「ありがとう。けどまだ学校に用事があるから。帰り道、気を付けてくださいね」
笹倉さんの家は学校からそう遠くないはずだ。
屋上で人と会う約束、それと屋上の掃除が残っているので、心を鬼にして、差し伸べられた天女の手を、そっと押し返した。
清掃員の公務を全うするおばさん、おじさんのお蔭もあって、上履きで歩けるくらい屋上は綺麗だ。笹倉さんと別れて屋上に来るなり、声が空から落ちてきた。
「100円分の遅刻ですよ、先輩」
「遅れて申し訳ない」
落ちてきた、なんて過度な比喩表現だった。地上から吹き上がる風が原因で、そんな感じに聞こえてしまっただけだ。
短髪少女の眼と視線が交わる。吸い寄せられるような黒い眼は笑った。
昨日の短髪少女は、金網の柵を越えたところに立っていた。屋上の扉を開いて左手、校庭からは貯水気が邪魔となって見えない位置のようだ。
丸一日の業務に付かれた教師たちが、車に乗るまでの距離は数十歩。その短時間で空の色を確認する物好きな教師が居ればいいのだが、そうでもしない限り、天文部と清掃員以外の校内の人間は、陽が沈む時間帯に短髪少女を見つけられない。
校外はどうだろう。その答えは彼女自身が物語る。
「キミはどうやって屋上に入ったんだ」
彼女は幽霊ではない。柔らかい肌の感触、安心するような温もり、荒い息遣いを思い返して、昼休みの坂井の発言を再び一蹴した。
近づき、「こちらへ来い」とも言った。彼女は「いやだ」の一点張り。
らちがあかないので、掃除用具を置いて柵の向こう側に移動する。俺の足のサイズと、ほんの少しの余裕しかない足場だった。
金網から手を放し、体を傾ければ簡単に落ちてしまう。再び立ち入ってみるが、背筋の凍る場所であることを実感した。長居すれば神経が麻痺してしまいかねない。
俺が柵の向こう側に足を付けると、彼女は腰を下ろした。
「もうちょっとこっち。そこだと見つかる」
手招きに誘導されて、金網伝いで傍まで寄る。
「どうやってここに入った。先輩ってなんで知っている」
彼女の細い小指に引っかかる鍵が、夕日に当てられて光った。屋上の鍵か。
「天文部から鍵を盗みました。これ先輩の生徒手帳」
片方の手を柵から離して、差し出された手帳を受け取る。犯罪臭のする発言は聞かなかったことにする。燃え盛る炎に飛び込むほど間抜けではない。
短髪少女の口振りから察するに、彼女は後輩のようだ。その割に彼女のブレザーは随分と汚れていた。
彼女の体をよく見れば、指には絆創膏、腕には薄い切り傷のようなもの、手の甲にはガーゼが貼られている。足にも同様の処置が施されていた。
察してあげるべきなのか。俺はタオルでくるんだメガネを、彼女に返した。
「手帳ありがとう。改めて自己紹介すると、俺は二年の鈴木平治、平らに傷が治るで平治」
「黒須えみ。色の黒に、すべからく。えみは平仮名。一年生です」
黒須はメガネをポケットに入れた。
黒須えみ。名前を覚えるのは得意だ。と言っても彼女の行動が奇抜すぎて、忘れようにも忘れられない。天文部から鍵をパクり、屋上に不法侵入して身投げ計画。
黒須は過激で行動力に長けていた。
「黒須は、どうして飛び降りたりなんかしたんだ」
「鈴木先輩はどうして飛び降りても死なないんですか」
「聞くな、ってことなんだな」
「詮索する人は嫌われますよ。もっと好感度を上げてからにしてください」
達観した考えを持っているようだ。
「じゃあなんで俺をここに呼んだんだ」
「呼んでいません。来なければ飛び降りてました」
黒須は下を覗いた。風が黒須の短い髪をかき上げる。
「……怖くないのか」
「なにがです?」
黒須が身を乗り出すものだから、背筋を悪寒が走り抜けた。
「なにがって、そりゃあ……」
怖ければ、飛び降りたりはしない。この世に未練などないから、黒須は飛び降りた。
決意をした人間の身を心配するなんて野暮だ。
しばらく沈黙が続く。日も、もう沈んでしまう。屋上から見える夕日は、綺麗に山と山の間へと消えていってしまう。
ふと、笹倉さんが心配になってきた。思考が黒須から逃げようとしている証拠だ。
とりあえず来てみたはいいものの、なにをどうすればいい。このまま呆けていればいい、などと思う自分もいる。不死身の落下怪人を前に、黒須も話すことはないだろう。
肝心の黒須はというと、黒い棒状の何かを口に咥えていた。
「なに食ってんの……」
「ほうふはんふぁっとふぇふ」
ふごふご、何を言っているのか分からない。
黒い棒状のなにかを口の中に押し込んで、黒須は強引に咀嚼を済ませた。
「『葬らんバット』です。まさか知りません?」
棒状のパンをチョコレートで包んだ駄菓子だった。昔は母の肩たたきをして小遣いを貰い、駄菓子屋まで買いに行ったものだ。コンビニにも常備されているほど有名な駄菓子だが、包装無しの単体だと記憶と結びつかない。
手に残っている包装には、くじが付いていたはずだ。パッケージキャラクターである、野球帽を被ったネコの生首から視線を外して、黒須の顔を見る。
いままで無表情だった黒須の口元が、緩んだ気がした。
「当たったのか」
「『必屠』です。これで今週は二つ目」
クジには『亜鵜屠』『必屠』『葬らん』の三種が存在し、『亜鵜屠』はハズレ、『必屠』は四つ、『葬らん』は一つで『葬らんバット』一本と等価交換できるはずだった。
「なかなか当たり出ないよな。いつも食べてるのか?」
「それだけが生きがいですから。さっきも先輩が来るまで五本ほど齧ってました。だから、100円分きっちり払ってください」
それだけが生きがいなら、寂しすぎるやつだ。
「ちなみに私の好物でもあります」
「明日にでも買ってきてやるよ。あーあ、話をしていたら、また掃除が終わらない」
「先輩は優しいですね」
「身投げ志願者と一緒に飛び降りるくらいだからな」
「自分語りが多い人も嫌われますよ」
「お前の方が語ってるよな」
「そうですか。そうですね」
それを最後に、黒須は金網を器用に上って、屋上からいなくなってしまった。黒須が金網の内側に戻るまで、見上げることはせず紳士な態度で待った。
「さよならですよ、先輩。また明日も楽しみにしてます」
楽しかったのなら本望だ。
「ああ、また明日」
きっと誰かと居る時間が欲しかったのだ。寂しい時は誰にでもある。難しいお年頃か。
ガチャンと扉の閉まる音が耳の奥に残る。
「風、気持ちいいな」
一人で言っていて虚しくなった。立ち上がり、校舎四階分先の地面に視線を落とす。
明日も掃除をしなければならない。屋上の鍵も借りたままでいいだろう。
背負った学生カバンに手をかけ、俺は迷わず飛び降りた。素肌が風を切る感触を懐かしむが、それも一瞬で終わってしまう。あっという間に地面が近づく。
着地時の衝撃が足から体内へ伝い、一瞬だけ息が止まったかのように思えてしまう。脳の誤作動というやつか、実際には痛みを感じられない。
反射的に胸を抑え、呼吸を整えると直ぐに校舎四階上部を見る。
自分勝手に飛び降りた人と、自分勝手にそれを助けた人とではどちらが悪いか考えた。どちらも正義なのだから、良し悪しで決めることではない。
数秒立たずの自問自答は、角の立たない結論に至った。
ひどく馬鹿馬鹿しい。どうせ明日も屋上に行く。もう一度、屋上から飛ばれては、たまったものではない。俺だって断腸の思いで飛び降りたのだから。
「ああ、くそぅ」
俺と会う約束をする辺り、恐らく黒須はまだ死ぬつもりはないだろう。
黒須の事が気になる。だが下手に刺激しては、何を仕出かすか分からない。
寝覚めが悪い。嬉しいような、悲しいような、なんとも不思議な気分だ。
「また会いましたね、先輩」
下駄箱に靴を取りに行こうとしたところだ。
校舎から出てきたであろう黒須に声を掛けられ、反射的にビクンと身が強張る。
振り向けばそこには、黒須がいた。
「あー、う、お、送って、いこうか?」
「先輩が一人で帰りたそうな雰囲気を醸し出していたので、今回は自粛しておきます」
「……お気づかい、どうも」
「ああ、くそぅ。ああ、くそぅ」
「――!?」
俺の真似だ。声のトーンを落とし、言葉のアクセントまで完全に再現していた。
俗に言う、おうむ返し。恥ずかしくなって顔に熱がこもった。
「先輩、独り言おっきいですね」
辺りが暗くて、よく見えなかったが、黒須は確かに笑った。
黒須は普通の女の子だった。珠の様に透き通った肌に、痛々しい傷跡が、いくつも残っていても笑うことができた。
どうすればいいか、悩むことはなかった。こちらも普通に接すればいい。
「先輩って一人っ子っぽい」
「一つ下に妹がいるよ。独り言にはもう触れないでください、お願いします」
「じゃあ先輩、今度こそまた明日」
「ああ。おい、天文部の鍵は返しておけよ。あと、仮にも落ちたんだ。どこか打っているかもしれないから病院で診察してもらえ」
「おい、じゃないですよ先輩。覚えてくださいね、後輩の黒須えみです」
イジるだけイジって、そそくさと黒須は帰っていった。