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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

簡単に壊れるモノを探しています

作者: 雨夜律
掲載日:2026/06/02











 私はもうずっと、簡単に壊れるモノを探しています。






 寒い雪の中、目の前に男の人が立っている。


「先生」


そう呼ぶと彼は私に缶コーヒーを差し出した。


「こんな寒いところで何をしているんですか?」


それに答えずに私は手を差し出した。


「これは…?」


「雪です」


その手の中には何もない。

 ただ降っている雪が手のひらに落ちる度、溶けて消える。それだけ。

 私はそれをかれこれ一時間以上眺めていた。だから、心配して先生はここまで来たのだろう。


「…寒くはありませんか?」


「寒くはないです。ただ少し痛いです」


手のひらを見る。

 真っ赤で感覚さえなくなってきた皮膚は刺すような痛さを感じていた。

 そろそろ部屋に入らないとまずいと頭ではわかっていたのだけれど、どうにもここから動けなくてここにとどまっていた。


「っ早く入りましょう!」


慌てたように先生は私の手を引いた。

 氷のように冷たい手は先生にとっても痛いだろうに、しっかりと握られている。


「先生。そんなに心配しなくても簡単には壊れませんよ」


「何を言っているんですか!早く温めないと凍傷になってしまう」


先生は温いお湯に私の手を突っ込んだ。

 じんわりした痛みが広がる。けれど、先ほどよりはマシだった。


「先生。私簡単に壊れるモノを探しているんです」


処置をしている先生にゆったりと話す。

 別に真剣に聞いてほしい話ではなかった。単なる世間話。だから、真面目くさった様子でこちらを見た時、少し首を傾げてしまった。

 先生はそんな私を優しく、けれどしっかりと見ている。


「どうしてですか?」


「どれもこれも中々壊れないでしょう?人間だって中々壊れない。私がその証明」


尋ねられて答える。

 羽のような軽さの言葉と共に笑うと先生は眉を下げて悲しそうだった。またカウンセリングが必要だと言われるだろうか。


「そんなことはないですよ。あなたは傷ついている。それこそ壊れてしまいそうなほどに」


「いいえ、先生。私は生きています。大柄な男に首を絞められても生きている。そして、瓶で殴った男も生きている。全力で殴ったのに」


あの日のことを思い出す。

 親と名のつく男が憂さ晴らしに首に手をかけ、藻搔いた私が瓶で殴った。そして、どちらも怪我をすることなく生きている。

 なんとつまらないことだろう。どちらかが壊れていれば面白かっただろうに。


「…」


飄々としている私に先生は何も言えなくなっていた。

 これだけ面倒な患者なら仕方がないだろう。優しすぎる精神科医ほど哀れなものはない。


「先生。これは天性のものですよ。だから、気に病まないでくださいね。私は変わりませんけど、それでも壊れたりはしませんので」


笑って見せると、先生は困ったように笑みを返してくれた。




 先生はこういうところが優しすぎるのだ。


 先生より前の医師は私のことを叱った。

 どこがダメで、どうすべきだったのか、一般常識とはかけ離れたことを言う度に、まるで私が罪人であるかのようにキツく叱る。

 それは可笑しな私だけに対してではなく、他の穏やかそうな患者にもそうで、正直精神科医としてはどうかと思う。泣きながら出てくる患者の多いこと多いこと。

 最終的にその医師は何も変わらない私に匙を投げた。倫理観や性格なんて無理に変えるものではないだろうに、無茶をするからだ。


 さらにその前の医師は、病んでしまったのだっけ。

 私との問答が想定外のものばかりだったらしく、真面目なその医師は理解しようと努めて少しずつ染まっていく。

 若く経験の浅い医師だったのも悪かったのだろう。気づけばいなくなっていた。


 今の先生はどうなるだろう。

 優しいように見える先生は、最後に壊れるだろうか。壊させてくれるだろうか。


 あぁ、それとも壊してくれるだろうか。






◆◆◆






 先生に出会ってから三ヶ月が経った。

 私は未だ病院に収容されている。経過観察の身だった。


「先生」


雪の日のように、今度は雨の中で私は立っている。

 雨は雪のように溶けたりはしない。手のひらに落ちた雫はそのまま流れ落ちていく。


「傘くらい差しましょう」


先生は傘を渡そうとした。

 それを無視して問いかける。


「先生。この後私はどこに行きますか」


「部屋に入って着替えてください」


「ここを出たら私はまた家に戻りますか」


先生が止まった。

 やはりあそこに帰るらしい。あの男が治める王国に。


 それ自体は別に構わない。今度は壊せるかもしれないし、壊されるかもしれない。それは結構面白いように思う。

 ただ、なんだろう。…うん。痛いのが嫌なのかもしれない。少し戻りたくないような気がする。


「…まだなんとも言えません」


「そうですか」


私は傘を受け取って部屋に向かう。

 少し後ろを先生が歩いていた。






◆◆◆






 あの男が面会に来たらしい。

 職員に会うかと問われた。会うと答えた。


 面会はまるで留置所かのような場所で行われた。私とあの男との間には一枚の薄い板。それだけでとても遠くにいるかのように感じた。


「お前、いつ帰ってくるんだ?」


「さぁ?」


笑うと男は怒った顔をした。


「いいから早く帰ってこい!」


そばには人だっているのに男は怒鳴る。家にいた時のように。ここは自分が統べる国の外だという自覚がないのだろうか。

 そもそもここから出るのは私の意志ではどうしようもない。


「私ではなく先生に言っていただけますか?」


柔く笑う。

 この言い方では先生に迷惑をかけてしまうだろう。それで何か壊れるものはあるだろうか。


 先生が傷つくところはあまり想像ができない。この男に何を言われても先生は優しいままである気がする。

 ならば、先生がこの男を壊す…。それもないように思う。


 あぁ、つまらない。何も起こらない。


 この男の元に帰って、いっそ切り裂いてしまえば壊れるだろうか。全てを分解して取り出せば壊したということになるのかもしれない。


 目の前の怒っている男を見る。

 よくわからない言葉を喚き立てている姿が哀れだ。私の澄まし顔を壊したいようだけれど、首を締めて変わらないものが言葉で変わるはずもない。

 何か変わるかと思ったけれど、疲れた。

 全てを聞き流していると、後ろの扉が開いた。振り返ると息を切らせた先生がいて、私の耳を優しく押さえる。

 男に何かを言った先生は私を連れてそこを出た。


「大丈夫ですか?」


心配そうな先生に思わず笑ってしまう。

 三ヶ月以上対話をしてきているのに、まだ私がこんなことで壊れると思っているのだろうか。


「何がですか?」


「あなたが聞いても意味のない言葉ばかりだったから」


私が聞いても意味のない言葉。

 面白いことを言うものだ。私に対する言葉なのに、私が聞く意味がないなんて。あれは私聞くからこそ意味があるだろうに。


「先生はお優しいのですね」


「…僕はただあなたが心配なんです」


「心配…?」


「あなたを見ているとどこかに行ってしまいそうで不安になるんです」


私はどこにも行きはしない。行けはしない。ただ決められた場所で意味もなく息をして。

 先生の言う不安なんて微塵も理解できない。


「あなたはお父さんが怖いですか」


今までに何度も問われたことだった。


「いいえ。あの男を父だと思ったこともないですけれど、怖いと思ったこともありません」


幾度同じ答えを返しただろうか。その度に先生は少し嬉しそうな顔をする。

 喜ばれるような答えでもないと思うのだけれど。


「あなたにとって壊すとはなんですか?」


「それは…」


答えられなかった。

 答えがわからなかったわけではない。なんとなくこうであるという答はある。ただ今の先生に答えを見せたとして、何が壊れるのだろう。


 答えを返すことの意味は?


そんなこと普段は考えもしないのに、この時はなぜだかそんなことを思って、口を閉ざした。

 先生は追及することなく解放してくれる。

 見ると先生は見たことがない表情で笑っていた。透明に見える笑み。

 首を傾げたけれど、先生は何も言ってくれなかった。






◆◆◆






「少しいいですか?」


先生に声をかけられた。そのまま私はカウンセリングルームに向かった。

 今日の先生はいつも以上に落ち着いていた。けれど、いつもと纏う空気が違った。

 少し胸がざわついて、声をかけようと思った頃、先生が話し始めた。


「あなたにとっての壊すについて考えてみたんです。あなたは簡単に壊れるモノというけれど、壊れるモノなんて沢山あります」


先生はいやに饒舌に話す。その姿はいつもとかけ離れていて、異常事態だとはっきりわかった。

 言葉を挟もうと口を開けると、止められる。


「そうではないと言いたいのでしょう。わかります。あなたはガラスや陶器なんかの形あるモノの話をしているのではない」


そうだけれど、そうではない。そんな風に思ったけれど、先生の言葉を止めるタイミングを私はすっかり逃していた。


「けれど、形ないモノも案外簡単に壊れる。愛や恋や友情なんてものは儚い。縁だって放っていれば勝手に切れる。それに人だって簡単に死にますよ」


先生は驚くほど冷静で、酷く冷たかった。

 先生らしからぬ様子に少したじろぐ。


「僕ね、子供の頃から分解するのが好きなんです。人を分解するとね。面白いですよ。臓器を一つ一つ取り出して並べていくんです。全てできたら次は肉を、骨を。そして、最後に皮を。そうしてしまえば元が何であったかわからない。あなたの言う壊すとはそういうことですよね?」


先生はだんだんと早口で恍惚とした話し方になっていく。


「僕、今度転勤するんです。それでねぇ。あなたも来ませんか。人を壊すのにも連れて行ってあけますよ。退屈はさせませんから」


そこまで言って先生は手を出した。

 その手を見ながら考える。


 この手を取ったなら家に帰るより余程楽しそうな未来が待っている。きっと私の探しモノも見つかる日が来るのだろう。

 では、手を取らなかったら。きっと私はあの男の元で自分が望むモノが見つかるまで物理的な痛みと生きるのだろう。


 どちらがいいか。考えるまでもない。


 私は先生の手を取った。

 そして、少し泣いた。

 涙の意味は自分ではわからない。ただ、もしかしたら寂しかったのかもしれない。誰もわかってくれなかった今までが。

 先生は微笑ましそうに私を眺めながら、頭を撫でている。


 この選択を後悔することはきっとない。

 ただ探しモノが見つかるまで捕まらなければいいと思った。











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