乳母の約《ちか》い
冬になると、遠くや細かいモノはまだよく見えないけれど、部屋の中くらいなら大体見えるようになってきた。
光は低く、窓辺の石枠を長く撫でる。空気は乾き、寝具の亜麻が、指先で擦ると微かに鳴く。
そして、首がすわって以降、外気に触れる為なのか、散歩に出るようになっていたのだが、アンティークな箱型の乳母車に寝かされ、冷たい空気の中、庭の散歩をしていても、視界が広がって楽しくなっていた。
乳母車のフードには濃紺の布が張られ、縁には細いブレード。
乗せられるときにチラリと見えた車輪は、金具で締められていた。
軋みは控えめで、代わりに砂利の音が景色を刻む。さく、さく、と乾いた音。
マルタたちの吐く息は白く、ゼラフィナの頬に触れる空気は薄甘く冷たい。遠くで、庭師が剪定した枝を束ね、紐を締める音が一度。鳥は低く鳴き、枝から枝へ影を移す。
まだ十二歳のイングリットの姿は、乳母車の横を歩いていても、頭くらいしか見えなかったけど、周囲を見ている灰青の厳しい眸が、たまに乳母車の中を覗き込んで、一瞬、緩むのにも気が付くようになっていた。
彼女の手袋は指先が少し擦れて、糸が細くけば立っている。差し出された花の茎が冷たく、ゼラフィナの指は条件反射のように握りしめる仕草を試みる。
前世で見た、古いマフィア映画の有名なワンシーン、駅の階段での銃撃戦の最中、階段を落ちていく乳母車は、他のストーリーは忘れてしまって思い出せなくても、印象的すぎて記憶に残っている。
それと同じような乳母車に、自分が寝かせられているのが、本当に不思議ではあったけど。
もちろん、皇女殿下だから、乳母車は映画に出てきたモノよりは、豪華仕様だが。
フードの内張りは柔らかな絹で、縫い目は丁寧に寄せられ、内側の香りは新しい羽毛と石鹸。
『自分が本当に赤ん坊だったときには、A型とか、B型とか呼ばれる、折りたたみ式のベビーカーが、当たり前にあった時代だよね。記憶にはないけど、自分がそこに座らせられている姿の写真は、見たことがあるもの』
その頃には、お座りはできるようになっていたから、寝かされた状態のままなのは、少しだけ不満だったけれど、冬なので、モコモコで厚手のおくるみが何重にも巻かれていて、身動きし難かったので、勝手にお座りはできない。
皇女殿下に風邪でもひかせては一大事と云うことなのだろうと、可愛がってくれるマルタやグレーテルの慎重さも、十分理解できるから、不満は見せないようにしていた。
それに、乳母車の縁から、イングリットのまだ子供の手が、冬でも鮮やかに咲く花を差し出してきたり、グレーテルがススキに似た穂を見せてきたりと、楽しい散歩になるようにと考えてくれるのは、純粋に嬉しかった。
穂は光を受けて、細かい刺繍糸の房みたいに揺れていたのだ。
当然のことだが、ずっと屋内にいて、代わり映えのしない部屋の中を見ているよりは、高い冬の空、寝ていても見える木の緑、飛んでいる鳥……は、まだぼやけてたけど、目新しくて、ゼラフィナは初めて見るものばかりで興奮していたし、その頃には、ゼラフィナと大分溶け合ってしまった前世の三十代女性としての自分も、その興奮が伝わっていたのか、気持ちが高揚していた。
なにより、部屋の中の人工的な空気の流れや、フレグランスの香りではない、自然の風や匂い、冬なりの陽射しの暖かさや眩しさは、ゼラフィナに、随分と生きている実感を刻み込んで、この世界で生きていくことを前向きに捉えられるようになっていたのだ。胸の奥で、心臓が一拍分、大きく弾む。
ぼんやり見えてはいたので、前世の人たちのような格好をしていないのは分かっていたが、視界が開けてハッキリ見えた女性のドレスや、男性の衣服からして、この世界の文化的な時代設定は、十九世紀後半くらいがモデルだと、ゼラフィナは当たりをつけていた。
ただ、生活様式までは詳しく知らなかったが、それでも、その頃の写真などを前世では見た事もあるから、こんなに都合のいい生活ではなかった筈だとは理解していた。
磨かれた廊下、季節に関わらず一定の湿度、寝具に染み付かない煙の匂い——どれも前世の三十代女性が生きていた、現代日本に近い快適さを示す記号だ。
そして、視界が開けて分かったし、会話の中にも出てきたが、この世界は魔法が当たり前にあるのだ。
夜に火打ち石がなくてもオイルランプや蝋燭に火が灯されるのも、お湯が出るのも、夏の暑さが気にならないよう、一定の気温と湿度が空調によって保たれているのも、魔法と魔石と魔鉱石があるおかげだった。
廊下の壁面には、さりげなく小さな魔法陣のピクトグラムが彫られている。
素人目には装飾の一部にしか見えないが、角を曲がるたび、温度の偏りが調整されるのを赤子の肌でも感じ取れる。
『結局、異世界転生ってことなのかな? もしかしたら、ゲームやアニメの世界かもしれないけど、こんな非現実的なこと、本当に起こっちゃうんだ。流石に、こんなに長い期間が、全部、夢な訳ないよね? いや、事故や病気で意識不明だったらあるのかな?』
そこまで考えて、ゼラフィナは、これまで、意識して考えないようにしていた、前世の最後の記憶を思い返した。
確か……と、人差し指を顎に添えようとしたが、赤子のプニプニした指が顔に押しつけられるだけ。
それでも、『帰宅して寝る前に、次のイベント用の二次創作小説を書いていたところ……だったような?』と、曖昧な記憶らしきものが、浮かんで消えた。
『もしかしたら、睡眠時間削って原稿してたから、突然死でも引き起こしたのかな?』
胸の内に、小さな冷たい水滴が落ちる。けれど、次の瞬間には、窓に当たった冬の日差しが、まぶたの薄い血色を明るくして、その滴を蒸発させてしまった。
◇◇◇
冬の間、年が明けてからは、外へ散歩に出ることも少なくなって、私室で過ごすことが殆どだった。
部屋の中央には、厚手の絨毯が重ねられ、その上に綿の入った生地で巻かれた木枠の柵が、低く組まれている。中には、布で縫われた積み木や、鈴の入った布玉、柔らかい耳をした動物のぬいぐるみ。
ハイハイができるようになってからは、ゼラフィナはもっぱらその中で、イングリットに相手をしてもらいながら遊んだり、時々、三十代女性の思考に沈んで、この世界を考察したりしていた。
床板の下を空調が通るのか、ときおり、ほんの僅かな空気の移動が足裏に触れ、布玉の鈴が、ごく小さく応える。
壁際では、温調用の魔法陣が刻まれた石板、その中央に埋め込まれた火の魔石が、うっすらと淡い光を宿し、外気と切り離された室内に、一定の温度を保っていた。
夏には快適に過ごせるよう、建物全体が涼しく空調されていたが、真冬には、全ての部屋がポカポカになるほど暖房は入らなかった。もちろん、各部屋には、一定程度の温度を保つための暖房は入っていたし、屋内で外套が必要なんてことはなかったが、日本の暖房事情を知っているゼラフィナからすれば、寒いくらいだった。
毎日訪れているゼフィリーヌの部屋には暖炉があり、炎が部屋を暖めていた。
ゼラフィナの部屋にもあるのだが、動き始めた赤子には、暖炉で燃えさかる炎は危険と判断されたが為の、温調用の魔法陣なのだろうと、ゼラフィナは空っぽの暖炉を見ながら考えていた。
灰受けはきれいに磨かれ、火掻き棒は壁に斜めに立て掛けられているのを見ても、設備としての準備は整っていると思えた。
『暑いのは、ドレスを着てる婦人には耐えがたいだろうけど、寒いのは着込んだり、暖炉やストーブの炎で温めれば、なんとかなるものね』
ゼラフィナの寝具にも、夜は温石が忍ばされていた。温石は布袋に包まれ、ラベンダーの乾いた香りが移って、眠りの入り口で鼻先を撫でる。
しかし、寒いと言っても、粉雪がちらつく日がある程度で、積もるほど雪が降ることは少ないらしい。
マルタとグレーテルが、「今年も積もらなさそうで良かった」と話していたので、積もることもあるのだろうと、ゼラフィナは推測し、日本で言えば、西日本くらいの気候なのだろうかと考えていた。
窓の外は、どんよりしている日もあれば、澄んだ空の日もあった。まだ焦点の合わない距離の向こうに、外の景色はあったけれど、ぼんやりと見えているだけに過ぎなくても、感じ取れるくらいにはなっていた。雲が薄く裂け、青い筋が見えると、心の中の糸も少しだけ軽くなる。
その頃のゼラフィナには、気になっていることがあった。
少しずつ離乳食が始まっていたが、マルタのおっぱいはまだ飲んでいた。
マルタが乳母だということは、マルタにはゼラフィナと同じように、赤子がいるはずなのだ。所謂乳兄弟姉妹と呼ばれる存在が。
前世の記憶持ちで、三十代女性の思考能力を持っているゼラフィナなので、視力は発達していなくても、音は聞こえている以上、色んな判断もできていた。だが、生まれてからずっと、ゼラフィナ以外の赤子の泣き声を聞いたこともなければ、姿を見たこともなかった。
なので、普通は、一番の、将来の側近候補だから、共に育つ存在なのではないだろうかと、疑問を持っていたのだ。
その疑問は、胸の中で小石みたいに転がり続け、答えの形を探していた。
だから、その日知った事実は、ゼラフィナにとっては衝撃だった。
昼下がりの陽が窓際から斜めに差し込み、テーブルの上の茶器と手遊び用のおもちゃの影を、長く床に落としていた。茶器の縁に射した光が、絨毯の毛流れを一瞬だけ逆立たせる。
「マルタさん、手紙が届いていましたよ」
ハルトマンの声がして、マルタが「ありがとうございます。あら、息子の様子を義母上が知らせてきてくれたみたいです」と、嬉しそうに言ったのが聞こえたのだ。
封蝋が割られる、小さな乾いた音。羊皮紙の端が持ち上がり、インクの匂いが空気に混ざる。
「ユリウス君は、元気にされてるの?」
グレーテルの問いかけに、ゼラフィナはマルタの子供の名前を初めて知った。
「そうみたいですわ。ホルンバッハ子爵家にとっては、一人息子だった夫が亡くなって、ユリウスは唯一の跡取りですもの、大切にして貰っているみたい」
「皇都からは馬車でどのくらいかかるんでしたっけ?」
「天候次第ですけど、七〜十日くらいは、かかるかしら」
「なかなか、気軽に会える距離ではないわねぇ」
「仕方ありませんわ。妊娠中に夫が亡くなって、ゼフィリーヌ殿下のお子様の乳母にと、ブレンハイム大公閣下からお声がかかったのは、ある意味偶然でしたけど、お受けすると決めたときに覚悟したことですもの。今はゼラフィナ殿下に精一杯お仕えするだけですよ」
「完全に離乳されたら、お休みを頂いて、会いに行ってらっしゃいな。エーベルヴァイン子爵家に戻ったと言っても、立場的なお話だけなのでしょ?」
「そうですわね、義母上には、今でも気に掛けて頂いてるし、いつでも戻っていらっしゃいって言ってもらえるのは、ありがたいことですわ」
そのあとも、マルタとグレーテルはのんびりと話しながら、ゼラフィナを見守ってくれていたけれど、ゼラフィナ自身は、まさかマルタが、自分の乳母になるために、実子と遠く離れているなど、思ってもいなかった。だから、マルタのその事実に驚いたと同時に、身の置き所の無さを感じて、ゼラフィナは、思わず丸く蹲ってしまっていた。
——胸の奥が、少し痛い。
痛みは鋭くはない。ただ、温石が冷えたときの、ふと気づく空白の冷たさに似ていた。
自分の栄養補給という意味で、マルタの授乳がまだ必要だけれど、普通の食事を食べられるようになったら、絶対にマルタには子供に会いに行って貰おうと、ゼラフィナは心の中で決意したのを、今でも鮮明に覚えている。
絨毯の縁の小さな房が、光に揺れた。その揺れと同じだけ、決意の芯が強くなる。
——乳母の約いに、子の側から返す小さな約いを。




