名が降りて、遠くなる
その日は、いつもと違っていた。
普段なら、暖かい昼の時間にゆったりと沐浴するのだが、午前中——それも、かなり早いと思われる時間に。少し慌ただしく、かといっておざなりではなく、丁寧に頭や躰を洗われる。
そして、オイルを慎重に塗り込まれ、粉をはたかれ、いつものサラリと肌ざわりのいい肌着ではなく、少しツルリとしたふわふわの長い服を着せられ、頭には、おそらくボンネットを被せられたのだろうと思われた。
そして、ゼフィリーヌの部屋に向かうには早いだろう時間に、部屋の扉が開かれる音。
ハルトマンが、「皇女殿下のご機嫌はよさそうですね。では、参りましょう」と言うと、いつもより少しばかり多い足音。
十分は歩いただろう後に、既によく知っている薫りに包まれて、ゼフィリーヌに大切に抱きしめられた。
ポンポンと背中を優しくたたかれ、「いよいよね」と、ゼフィリーヌの硬い声。
薄ぼんやりと見上げれば、ハッキリと見える訳ではないが、ゼフィリーヌの輪郭がいつもより綺羅々々していた。
やがて、鈴の音が聞こえた気がしたと思ったら、「これより、第二皇女殿下 名付けの儀、執り行います」と、男性の声が遠くから聞こえ、「第二皇女殿下。ご生母、ゼフィリーヌ・ブレンハイム・アストリス・イシュマルク(Zephyrine Brenheim Astris Ishmalc)第二皇妃殿下と共に、御入堂です」と続く。
そして、ガチャリと扉の開く音が二つ重なって聞こえた。
大勢の人々の気配。
視線を向けられているのが分かる。
ゼフィリーヌがゆっくりと歩む。
自分が注目を集める場に連れ出されているのだと理解した。
『“名付けの儀”って言ってた。と云うことは、私が名付けされるってこと?』
母親は”第二皇妃殿下”だし、自分は”第二皇女殿下”なんだから、そんな大仰な儀式も必要なのかと思うが、コレでやっとちゃんとした名前が付くのだと思えば、それはそれでいいかと思う。
生まれてから三十回ほどの沐浴をすませた。つまり生後一ヶ月くらい経つと云うことだが、要するにその間、自分には名前がなかったと云うことになる。
今から名付けなら、やっぱり、三十代女性の日本人名では、当然無いよねと諦めに似た気持ちにはなった。
ゼフィリーヌが立ち止まったので、視線を動かしてみた。
なんだか色の付いた光が、煌めいていた。
けれど、それを背に、おそらくは人の形の影が差している。
「う?」
疑問の声は、喃語として溢れ落ちた。
何かが自分の額の少し上にある。
まるで、薄膜を撫でるような感触が、肌に触れてもいないはずなのに分かった。
「皇国歴九八八年金緑月十二日、両新月、イシュマルク皇国に誕生せしライラックの皇女。今ここに、女神の祝福を与え、加護を祷る」
まるで水面がさざ波に揺れるかのような声なのに——染み入るように響く声。
そして、指先が額に触れる。
その瞬間、額から全身へと何かが走る。
熱とも、光りとも、衝撃とも言えないような何か。
エネルギーが注ぎ込まれると云うよりは、もっと質量のない何かが、瞬間的に流れ込んできた感覚。
「女神イシュメナの神託により、ゼラフィナの名を与える」
流れ込んでいると思った何かが、自分の躰の中で、スッと霧散した。
「ゼラフィナ・アストリス・イシュマルク(Zeraphina Astris Ishmalc)を、イシュマルク皇国の皇統、アストリス家に、新たな皇女として正式に記す」
名付けをしたのとは違う声は、男性のもの。
名を与えた誰かの隣に並んでいるようだった。
そして、何かを掲げる。
目がきちんと見えないのを、あまりにももどかしく感じた。
どこかで聞いたことのある国名、家名……“ゼラフィナ”の名には、聞き覚えはないのに、知っているような気がした”イシュマルク”、“アストリス”。
記憶の曖昧さが、もどかしさをいっそう助長しているようだった。
「お印はライラック。記憶と再生、運命を紡ぐ知の象徴。星座は紫光の雫。紫のしずくが大地に落ちるように、知性と優雅さを兼ね備えた者の象徴」
そして、何か液体が降ってくる。
影が動いているから、聖水的な何かを振り掛けているのかも知れないと思った。
その後、暫しの間が開くと、何人もの人間が静かに動いているのが、足音と影の動きで分かる。
コレも儀式の何かなのだろうと、ゼフィリーヌの腕の中で考えていた。
「女神イシュメナの慈しみ」
「男神エグレオンの知の庇護」
「ゼラフィナ皇女へ」
その瞬間、時が止まり——まばゆい光があふれ出すかのように、ぼんやりした視界を照らした。
ひときわ煌めく何かが、ヒラヒラと舞っているようだった。
人々が息を飲む音は聞こえたが、なんとも言えない圧が、全体を支配しているようで、「うぁ?」と、小さな声が溢れる。
躰全体で感じるゼフィリーヌの鼓動が、ひどく早かった。
『何かが起きてる? でも、よく分からない』
暫しの後、綺羅々々はなくなった。
だが、周囲にいるだろう大勢の興奮だけは伝わる。
「二柱の御名、讃えん」
最近では聞き慣れた父親の、威厳に満ちた皇帝らしい声。
『“二柱”って、日本風の神の数え方よね? 日本語話者の人たちに、日本的な世界観? 異世界と云うより、それこそラノベみたいね。と言っても、ラノベによく出てくる、日本人に馴染みのある名前って訳じゃないのね。“ゼラフィナ”って、本当に、聞き馴染みのない名前……でも、そっか。これからは”ゼラフィナ”が、私の名前なのか』
今しがた付けられたゼラフィナと云う名前の、ひどく遠く感じられる響き。
記憶の中にある日本人の名前とは、随分違うなと、ゼラフィナは三十代独身女性の自分を、遠いところに置き去りにしてしまったような気持ちに、淋しさを覚えた。




