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名もなき悪役皇女その②に転生しましたが、どうやら、ゼラフィナと云う名前があったようです -- 転生皇女の公平で公正な一生 --  作者: 露無
序章

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叡智の収蔵庫

 薔薇窓の彩光が石床に赤、青、緑、黄色、紫、様々な色の模様を落とす。高天蓋の白。そこかしこに飾られたスミレ、その周りに、低くスズランとムスカリ。甘くパウダリーな香り。祭壇金具が"呼吸"のように光滅し、遠ざかっていく鈴のない鈴音が、気配だけ揺れている。


 ゼラフィナは、内陣に一瞬向けた視線を戻すと、マルタに先導される風で、ソレらに背を向け、背筋を伸ばし、扉へと向かう。


 子供の脚でも、然程の距離はない。

 開かれた扉の外は、冷えた回廊の空気が、祭礼の甘い薫りを薄めていた。

 第四皇妃の一団がまとった色合いが角の向こうへ消えた。

 背の低い幼いゼラフィナの姿は、貴族夫人やご令嬢方の華やかなドレスに埋没してしまいそうになる。

 イングリットが裾を一手ではらい、もう一手で人の流れを切り分けた。

 騎士の靴音が二歩先を掃き、侍女の合図で「正しき列」が滑るように進む。


 石敷きの一枚だけ温度の違う箇所——そこが曲がり角の印。庭に出れば、冬越しの土の匂いがまだ浅い。遠く、楽人の調弦がひとしきり。残り香だけが背後にたなびいていく。

 ふと、緑に銀が流れた気がして、ゼラフィナは視線だけを向けた。

 薄紫から銀灰のグラデーションが見え隠れし、葉の間から墨紫の耳がピョコピョコ動いているのが覗く。


 ゼラフィナは、フフッと口の端だけで笑うと、視線を少し先、緑の色濃い木立へと向けた。

 瞬き一つで、また、墨紫が跳ねている。


 気紛れに傍を離れるけれど、主にとって由々しき事態が起きたときには、必ずすぐ傍にいてくれる。


 守護獣とは、そう云う存在らしい。


 私室から向かういつものルートとは違い、神堂からの景色は、ほぼ初めてだった。

 二柱を祀っているからこその、静謐な深い緑に、ゼラフィナの気持ちは少しだけ凪いでいく。


 紫苑尾狐は、銀の細い光を流し、また何処かへ遊びに行ってしまったらしい。


 車寄せへと短い軋みを一度だけ鳴らして、ゼラフィナのお印が掲げられた馬車が静かに止まった。

 御者台の影が揺れ、踏み台が置かれる。

 マルタが先に腰を落とし、ゼラフィナを抱き上げる所作は一分の隙もない。短い呼吸で乗り込み、イングリットが扉を収めた。


 馬車は静かに動き出す。


 車輪が敷石の継ぎ目を数え、バネで吸収しきれなかった微かな上下が、呼吸の幅を決めていく。

 衛兵詰所の前を過ぎると、革の匂いと油の匂いが混ざった。

 露台の下では、早番の下働きが、引き継ぎなのだろう、遅番の下働きらしき者と、小声で合図を交わし、遠く、薪の割れる乾いた音がひとつ。


 ——鈴のない鈴音は、なお耳の底に残っている。音ではなく、輪郭だけが揺れては寄せ、寄せては遠のく。


 窓の枠に指を当て、震えの周期を測る。交差点ひとつ分で一度、緩む。宮城の外縁に近づくと、うっすら粉塵が混じり出す。皇都の朝市から戻ってきたのだろう、荷馬車の気配だ。

 貴族の屋敷は、定期的に食料品も日用品も、出入りの業者が納めるのだと云うが、新鮮さが命の生鮮食料品だけは、こうして毎日運ばれてくると、前にイングリットに荷馬車のことを尋ねた際、教えてもらった。

 皇宮でも皇族の口に入る生鮮食料品に関しては、暗殺等のリスクを排するために、皇宮内の敷地で、栽培や飼育をしていると云うのは、その後、ハルトマンが教えてくれた。もちろん、海の幸など、内陸部で難しいものは別だが。


 ゼラフィナは窓の外に視線を向けたまま、自分の思考へと沈み込んでいく。


『儀式は終わった。けれど、終わってはいない。——意味は、必ず文字の中に落ちている』


 儀式での二柱の圧を思い出した。


 窓の外、城壁沿いの陰が、陽の角度を浅く測る。ほとんど毎日のことなので、内装の把捉紐に指を添えているだけで、振動の癖が分かる——今日は石畳が少し乾き気味だと、己の思考に沈む、その頭の片隅のどこかで、そんなことを意識した。


『皇宮から図書館へ。いつもの道順』

 確認するまでもないルーチンだ。けれど、今日ばかりは空気が重い。鈴のない鈴音が、まだ耳の奥で輪郭を変えている。


 「本日は閲覧棟の裏手へ回ります」と、前席の声。

 マルタが軽く頷き、ゼラフィナの肩に羽織を整える。絹が擦れて、小さな音が生まれた。——儀式の煌めきとは無縁の、日常の音。


『ここが本当にFDEの世界なら、そして、私が"悪役皇女その②"の第二皇女なら、断罪を回避するために、まずは、今まで以上の情報収集よね。ゲームで語られていないことが、どんな風にゲームにつながるか、まだ何も分からないんだもの。……あと、八年は、決して長くないわ』


 外堀を渡ると、匂いが替わった。紙と革、蜜蝋と乾いた石。

 図書館の庭に入れば、砂利が車輪の下で細かく弾ける。歩調が落ち、馬が鼻を鳴らし、御者の手綱がわずかに締まる音がかすかに聞こえた。


『でも、名前さえなく、第二皇女としか書かれてなかった悪役皇女その②に、"ゼラフィナ"なんて名前があったなんてね。それはそうよね、私、この世界で生きてるんだもの。名無しなんかである訳ないわよね……』


 停車。扉が開き、光。

 子供の儀式だからと、あまり早い時間から始まった訳ではないけど、それでもまだ、太陽は中天までは昇っていない。

 閲覧棟の銅屋根は薄く緑青を帯び、午前中の日の光で縁だけ明るい。火除けの魔法陣が、屋根にほど近い壁に彫り込まれている。

 柱頭の装飾は蔦。正面の破風板には、古い標語——()は火、(しる)しは器。

 階段は七段。学問の徒ではないゼラフィナは、中央は踏まず、端の浅い部分を選ぶのが常だった。

 イングリットの手が先に石を撫で、段差を確かめる。


 ここは皇都記録庁・書籍局——けれど皆が、"叡智の収蔵庫"と呼ぶ皇宮図書館。

 身分や血筋以上に価値の置かれるのは、その探究心、知識欲、学問へかける情熱。

 派閥ではない派閥と揶揄され畏怖される、"個別の集団人格"の者たちも、多くがここには出入りしている。

 黒衣の書記、灰外套の測量師、薬草の匂いをまとった記録官。袖口の(すみ)が取り切れない指、羊皮紙を撫でる癖のある親指。

 誰もがここでは階梯を脱ぎ、手にした筆記具だけが位となる。

 視線が交わるのは一瞬。互いに名乗らず、机の天板にだけ敬意を払う。


 ゼラフィナは、そこに子供として、お邪魔しているだけなのだ。

 皇族と云えど、一歩引くのは当然だった。

 何故なら、ゼラフィナは——この世界がFDEだと確信する今日より、ずっと前から——無邪気な子供ではなかったので……。


 半ばまで開かれた扉の内では、受付机の上に薄い蜜蝋の光。札を束ねる把捉紐が整然と揃い、砂時計が静かに砂を落とす。

 守番の槍先がわずかに下がり、鍔金が鳴る。胸甲の留め具は規律どおりの位置、磨き傷が浅く新しい。いつも通りの黙礼をゼラフィナに向ける。


 閲覧票の木札を受け取り、受付の筆記音が遠くへ流れる。

 この先は、いつもの机、いつもの席次——"読む者"のための領分。


『最初に違和感を覚えたのは、"言葉"だった』

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