名付けの儀
シャン、と鈴がひとつ。
澄んだ音が天井の曲線で丸くなって戻ってきた。
「これより、第三皇女殿下 名付けの儀、執り行います」
ゼラフィナは姿勢を正し、聖下と聖主、前列に立つ父——皇帝へ、順に視線を送る。男神側一列目には第一皇妃と、ゼラフィナより二歳上の第一皇女。濃紅のドレスがよく似合い、母娘の相似が一層際立って見える。
「第三皇女殿下。ご生母、リセラ・ブレンハイム・アストリス・イシュマルク(Lisera Brenheim Astris Ishmalc)第二皇妃殿下と共に、御入堂です」
背中で扉の気配を受けてから、ゼラフィナはそっと瞼を下ろし……同じ速度で開く。呼吸を整え、場の音をより深く拾う準備だ。
純白のセレモニードレスを着せられた赤子を腕に、リセラ第二皇妃が、慎重に、内陣へと歩み寄る。一段高くなっている内陣の、一歩手前で軽く膝と腰を折った——赤子を抱く母に許された礼の形で。
高く結い上げたストロベリーブラウンの髪には、スミレの生花。ドレスの裾は長く後ろを引き、侍女がすばやく整えた。斜め後ろに、不測の事態に備え、乳母が控える。
二ヶ月前、皇族一同でのお茶会の席で、躰を締め付けないゆったりしたドレス姿を見て以来、久方ぶりだった。
大きなお腹を優しく撫でていた第二皇妃は、あの日と違い、コルセットで隙のないフォルムを形作って、匂い立つような艶やかさをまとい、スクリとその背を見せつけている。
皇帝に嫁ぐ女は、こうして皇妃となっていくのだなと、ゼラフィナは思った。
聖下が一歩進み、第二皇妃の正面に立つ。仄かに香が立ちのぼった。
赤子の上に掌を差し出し、指先で空気の膜を撫でるように、聖下はそっと気配を整える。
「皇国歴九九二年紅花月十五日、両満月、イシュマルク皇国に誕生せしスミレの皇女。今ここに、女神の祝福を与え、加護を祷る」
名付けの儀で神殿から名を賜るまで、赤子は生まれた日の誕生花の名で呼ばれる。だから、第三皇女も、便宜上『スミレの皇女』。
聖下の左の指先が額に触れると、赤子は小さく身をよじり、フェッと短い声をもらした。
聖下は額に触れたまま視線を上げる。此処ではない何処かへ、まっすぐに。
二拍の沈黙が落ち、祝詞の続きのように声が降りた。
「女神イシュメナの神託により、エヴェリナの名を与える」
受けるように聖主が三歩進み、聖下の隣へ並ぶ。
「エヴェリナ・アストリス・イシュマルク(Evelina Astris Ishmalc)を、イシュマルク皇国の皇統、アストリス家に、新たな皇女として正式に記す」
それは戸籍登録の宣言だ。
「……エヴェリナ……」
第二皇妃の囁きが零れ、視線は腕の子へ落ちる。目尻のやわらぎが遠目にも分かる。
ゼラフィナは胸の奥で短く嘆息した——その名を、自分はよく知っている。
……知っているのだ……と。
聖主は、二つの満月を包み込む五弁のスミレ花文の紋章板を掲げる。紫の飾緒が美しく揺れ、花の影が板の面を行き来する。
「お印はスミレ。慈愛・純粋・希望の象徴。星座は春霞の小径。春の淡い霞のように柔らかく、心に安らぎを与える者の象徴」
聖主は助教に紋章板を渡し、灌水器と灌水棒を受け取る。
聖下は赤子へかざした左手を高く掲げ、聖主が細い弧を描くように散水。
雫が光を裂き、すぐに消えた。
侍祭と助教が小台を運ぶ。
新たに記された羊皮紙が広げられ、盆の上にオニキスの印章が二つ。双頂がそれぞれの印を取ると、金と銀の光が面に滑った。
定めにより、神殿が名を授け、教会が記録を開く——この国に生まれた者の最初の記録である。神殿印と教会印、二つが揃って初めて正式な戸籍となる。
だが、各地の神殿・教会で使われる金・銀の鍍金印章とは違い、オニキスの印章による戸籍登録は、皇族、若しくは他国の王族など、限られた者だけなのも、また現実。神に政治の思惑などなくても……厳然とした差はあるのだ。
押印された羊皮紙は助教によって丁重に納められ、台と印章は自然な手順で下げられていく。
誰もそれを、気にも留めない。
再び、空気が静寂に染まった。
合図などなくても、双頂の間に横たわる空気が時を変える。
「女神イシュメナの慈しみ」
「男神エグレオンの知の庇護」
双頂の言葉が交わり、「エヴェリナ皇女へ」で結ばれる——その瞬間、光が変わった。
天蓋から金と銀の綺羅が、雨のように降り注ぐ。鈴のない鈴音が空気を震わせ、神堂の大きさを確かめるかのように壁を這い、戻ってきた。
人々は息を呑む。
金と銀の光は唐突に形を得る。
女神イシュメナと男神エグレオン——二柱の姿。
一同は、自然、深く頭を垂れる。
空気は、金と銀に彩られた薄膜のように、質量を感じさせた。
静寂が降り、衣擦れの気配すら遠のく。
聖下と聖主の目には、二柱が腕の赤子に視線を落とす様がはっきりと映っていた。
神は気紛れに顕現するが、視線まで向けるのは更に気紛れ——その視線が横へ掃かれ、止まった先は、女神側会衆席二列目、幼い皇女。
ゼラフィナは『知っている』と思う。
同時に『知らない』とも。
光、顕現の型、生母に抱かれた皇女、そして名前。
『間違いなく、何度もプレイしたFDE(The First Daimon Emperor)の断罪イベントの中で、ヒロインの過去エピソードとして出てきたスチルと同じだわ』
『でも、違う……。あのスチルでは二柱は目を閉じて口の端に笑みを刷いていた。ヒロインを彩る美しく神々しい、けれど軽やかな瞬間。なのに今は、頭を垂れていてさえ分かる強い圧。目を開いていた。——こちらを見た。舞っている綺羅さえ、重さを感じさせるほどの空気をまとって』
確信を持ちきれなかった四年間が、ゼラフィナの脳裏を過ぎ、ひとつの線に結ばれる。
『やはりここは、FDEの世界で確定なの? 第三皇女の名前が"エヴェリナ"なら、姉である私は、悪役皇女その②の第二皇女……と云うことよね。でも……でも、私のお母様は第一皇妃殿下ではないわ』
鈴のない鈴音は遠のき、金と銀の綺羅は解けるように消えた。




