憑かれたようで
そこで志喜は目を覚ました。夢というよりその日の回想であった。
身をゆっくりとおこすと、少女はいなかった。代わりに
「チヨコというのは初めて食べましたが、おいしかったです。ありがとうございます。できれば、もう何個か欲しいです」
一羽のウサギがにっこりおねだりをした。志喜があんぐりとして、またしても倒れてしまうのではと困惑しながら、
――いや、むしろまだ夢の中なのか
と、思案している真ん前で
「これでお分かりですか。お礼にあなたに憑いたのです」
ウサギが動物耳と尻尾の少女に変化したのである。彼女の弁に寄れば逆だ、この少女が、何の動物か知れない動物耳と尻尾を持った少女が、ウサギに変身していたのである。
「シキの具合が悪いとしたら、それは私のせいです。ごめんなさい」
感謝を述べに来たのか、迷惑をかけに来たのか。
「威張って言うなよ。そもそもとり憑くってお礼にすることじゃないだろ」
「私はまだまだですので、即効性がないのですが、そのうち効果は出てきます」
――いや、即効で体調悪化してるんだけど
「それに薬は効くと思います。葛根湯がいいでしょう」
――体調悪化の原因に処方箋を出されても
「いや、君が離れれば、体調が戻るってなんじゃないの」
半ばあきれたように確認をする。
「もちろん、そうです。けれども、私は離れません。離れられないのです。一身上の都合で」
志喜の都合は無視だが。
「志喜ー、そろそろごはんよー」
ここは祖父母の家。父母はリビングにて。時刻は我が家よりも早い夕食時。
「分かったー」
大きな声で返事した、はいいが、この正体不明な存在をどうするかと思案すると、
「えっと人で言うところの妖怪です。なので、いろいろ人が使えない術も使えるのです」
言うが早いか、手印を組み、志喜には聞き取れない文言を呟いた。すると、
「志喜ー。チコちゃんも連れて来なさいよー」
再び母の呼び声が聞こえた。
「私、チコと名付けました。今の文言で人を惑わし、幻覚を見せる術を敷いたのです」
志喜はため息を一つついて、頭を掻いた。窓外の茜色の空に目をやる。しばらく無言のままでいた。
――キツネやタヌキが人を化かすとかっていう昔話みたいなことってわけか……なら、あのお寺から突然ここに来ているのも分かるけど……
「あの……」
チコは不安気に彼の名をつぶやく。志喜はもう一つ大きなため息をついた。
「いつまで?」
「え?」
「いつまで僕に憑いてるつもりだい?」
「いいの? 一緒にいて」
身を乗り出さんばかりで、目は爛々と輝いている。
「だから、いつまで? いや、僕から提案。僕はこの島、このじいちゃんの家に来ている、いわば旅の人間だ。だから、僕がこの島から出て行く時までならいいよ」
――離れてて言っても、このまんまなんだろうし
「うん! シキ、だーい好き」
チコは志喜の首に纏わりついた。チコの声に志喜は居住まいを正した。一見すれば少女と言うよりもどちらかと言えば、幼女と言える。旅先で幼女と戯れる男子を客観的に見たら……志喜は想像しただけで背に脂汗が流れるような心持になった。だから、チコを首から引き離すと、
「僕、名乗ったっけ?」
「親御さんに呼ばれてましたよ」
疑問はそれこそ化かされたような答えで煙に巻かれた。
とはいえ、すでに夕餉の呼び出しがあった。部屋に閉じこもってもいられない。だが、志喜はまだどこか不安だった。本当にこのチコという妖怪が施した術が利いたのかどうか。しかし、彼のそんな心配を余所に、チコは惜しみもなく居間に入るドアを思いっきり開けた。志喜の心の準備が整う前にである。志喜はどきまぎしかけたが、
「やあ、チコちゃん。志喜と遊んでいたのかい?」
「さあ、ご飯ですよ」
「いっぱい食わんと大きゅうならんぞ」
「田舎の料理は口に合うかしらねぇ」
父、母、祖父、祖母と立て続けに、何の違和感も不信感もなくチコを受け入れるものだから、志喜は安堵した。
「志喜、チコちゃんに風邪うつすんじゃないぞ」
「ああ、分かっているよ」
父から言われては、平静に答えるしかない。自身の体調は相変わらずではあったが、自分一人でチコを隠しておく必要がないことは、彼に胸を撫で下ろさせるのには十分であった。部屋から居間に来る間に動物耳と尻尾をひっこめさせたのも、少なからず人の姿であると言う点でほっとはしていた。
が、ここに来て、妖怪と自称するこの少女が人間の食事を摂ることができるのだろうかと、心配な種がまたしても浮かんできた。けれども、そんなものは目の前で早速茶碗のご飯をかっ込むチコの様子を見れば、杞憂でしかなかった。
夕食の後、お腹の満腹具合が落ち着く頃、入浴の準備ができたとの声がかかった。祖父母に先に入ってもらって、その後に入ることにした。浴室に向かう前に居間に入ると、
「チコちゃんは?」
母に問われた。
「部屋で寝てる。今晩はいいんじゃない?」
と答え、そそくさと風呂場に行った。志喜が言ったのは嘘や取り繕いではなく、実際に志喜の部屋で、チコは寝てしまっていたのである。起きていたとしても、同様のことを言ったではあろうが。
風呂から出て、居間にある冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す背中に、
「体調悪いみたいだから、早く寝るのよ」
母からの労わりがあった。
「分かった。もう寝るよ。おやすみ」
父と母に言って、居間を出た。自室の障子戸を開けた。ストーブが煌々と灯っている。暖かい。二組敷かれた布団の片方には心地よさそうに寝息を立てるチコ。
「電気点いてるのに、よく寝れるな」
そう言って身を屈めた。そして、チコの頭部にある黄土色の動物耳に指先を触れさせた。柔らかい毛と肌の感触。それがピクンと一度動いた。
「妖怪ねぇ」
立ち上がり、蛍光灯から垂れ下がる紐を引いた。豆電球の明るさは夕刻の空にも負けず劣らないほどに、やたら眩しく感じられた。
スポーツドリンクのペットボトルを、小さなテーブルの上に置いて、チコの横の布団に入る。頭の後ろ両手を組み、天井を見やる。それから横にいるチコに視線を送る。それからまた天井を見た。
「ま、いいか」
手を布団の中に入れ、目を閉じた。