異様事態
「これは……」
館内が異様な雰囲気に満ちていた。受付の人はカウンターにうつぶした格好になっていた。振り向いて駐車場を見やる。タクシーの運転手も姿が見えない。助手席にでも倒れているのではと、すぐに察せられた。つまり、館内だけでなく、敷地全体がその雰囲気に包まれていることになる。チコはそれが何なのかを見定めるかのように、中空を目で追っている。
「優タン」
志喜は一階を走った。第一資料展示室、第二資料展示室、申し訳ないと思いつつ、事務所やスタッフオンリーの扉も開けてみた。従業員と思われる人たちも伏していた。けれども羽多の姿はない。
「シキ、二階っぽいよ」
「うん、そうだね」
階段を駆け上がる。小脇にかかえられたチコの髪が風に揺らめく。二階は、年中行事に使う道具や民具、あるいは島の祭事に関わる文化財などが展示されており、その一角のショーケースの前に羽多は立っていた。
彼女を見つけて志喜はほっとする反面、ただならぬ様子に悪寒にも似た背筋の寒くなる感じが彼の背部を駆け上がった。ただ立っているというだけなのに、心ここに在らずというか、そこに彼が知っている羽多優という人間がいないかのように感じられたのであった。
チコを下ろし、
「優タン」
近づいてみると、彼女は若女の能面を凝視していた。まばたきをしていない。
「シキ、まずいよ」
志喜の横についていたチコがそんなことを言うと、自身が感じている懸念が助長され、動悸が速まる。
志喜は羽多の両肩を持ってゆすってみた。が、空気の入った袋を動かしているだけかのように、力なく揺れるだけだった。虚ろな目、声もなく動く口。
「都筑君、離れろ!」
二階だと言うのに、華麗な跳躍とともに登場し、同時に抜刀し、志喜と羽多との間に剣を振り下ろす。二人は互いに後方にずれる。力なく立っているようだが、羽多にはまだ回避行動をする感覚はあるらしい。
「ちょっと、あおゆきさん」
危ないじゃないかと続けようとしたところへ、縄が飛んできた。茅野である。
「ほのかも」
獲物を捕らえそこなった縄を手元に引き寄せる茅野は
「キセツ」
彼の名を呼んだだけで指差している。その先を辿る。羽多だった。茅野が捉えようとしていたものが何か、志喜にも分かった。羽多の身体から人の形をした半透明なものが頭上から浮かび上がり、中空に出た。忌々しい気配を漂わせながら浮上していく。それは彷徨いかのごとく、天井を旋回し始めた。若女の能面が薄ぼんやりと浮かんで見え、顔を隠していた。
「な……」
「か、悲し、い。カナシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイ」
志喜の驚嘆へ狂気じみた声が覆う。羽多の口が動いているのに、その声はまるで違っていた。
「つ、つづ……き……」
声色が変わる。この声は紛れもない羽多優の声である。絞り出されたその声は懇願しているようでも、何かをねだるようでもあった。
「危ない!」
志喜は、今まさに倒れようとする羽多を支えた。片膝をついた姿勢で、静かに彼女を横にする。目を閉じたままの羽多を再度ゆする。が、まぶたはピクリとも動かない。彼女の意識はなくなっていた。かすかな呼吸と胸部の動きが生きている証だと志喜に知らせていた。
「キセツ、ここは私に任せろ。どうやらあれは……とにかく今はこの子の身体が負担にならないように処置するのが先だ」
振り返れば、茅野が腕まくりをせんが雰囲気で立っていた。
「任せていいのか」
「もちろんだ。お前はあれが気になるんだろ」
「ああ」
志喜は視線を天井に向ける。傍らには刀を収めたあおゆきが無言で、旋回する半透明を凝視している。
「私もこの子の回復のお手伝いする」
チコは四つん這いの姿勢で、羽多の顔を窺っている。
「チコが言うなら一安心だ」
「なんだ、キセツ! 私だけでは不安だとでも!」
茅野が突っかかって来るのだが、
「ウラメシイ、それがウラメシイ」
半透明の声が響く。それは羽多の声に似ていた。しかし彼女の割にはかなり低音に聞こえた。
志喜は立ち上がり、訊いた。
「あおゆきさん、あれは一体?」
「生霊だ、彼女のな」
「いき……」
あおゆきから聞かされた言葉に、二の句が続かない。
「驚くのも無理はない。あれが人の思いだ。肉体を抜け出し、そして己の純な思いを遂げようとする」
「遂げようって、何を?」
「憎む相手への危害だ。それが度を越せば死に至らしめることもある。今朝方、ゴミシンケや暁が言っていただろう。夜の変調。あれは彼女の、というよりあれの行いだ。ただ彼女自身には自覚はないだろうがな。彼女は感じやすいらしい、あのふじとかが言っていた。あの面に宿っていた何らかの情念にとっては格好の憑代になったようだ」
「映画とかで見たことあるけど、憑代って人間が物に術をかけるものじゃ……」
「逆もあり得るよ。そうだろ? 思いの力は目に見えない。人であろうが、あやかしであろうが、物であろうが宿して蓄積されれば」
「現実になる、てこと……あおゆきさん、あれを……」
「調伏を行う」
「ちょうふく?」
「あれは彼女の生霊というだけではない。ふじが言っていたろ、霊が忍び込んだと。霊とは報われぬ思いの残存のこと。島内観光をしている先で、邪霊にも影響されてしまったようだ。それらと彼女自身の思いが複合的になって幽体として出現してしまった。私があれを清める、この剣でな。それが調伏だ」
あおゆきは柄に掌を乗せた。
この島は遠島を申し付けられ送られた者が多くいる。無罪だった者もいるだろう、権力争いで不本意な左遷のような。金鉱脈の発見と採掘は裏を返せば経済の搾取である。諸地域から人が集まり島独特の文化が開いた、言えば聞こえはいいようだが、もろもろの念が集積したという意味でもある。その中には邪な思い、無念も、憤りもあったろう。その心の面持ちやエネルギーが形を作り出した。たとえば、この面とか。
――そうか、これが思いってことか
あおゆきが言っていたことが、こうして現象としてもろに視認できている。しかし、今はそのことについてよりも、やらばければならないことがある。
「ねえ、その調伏ってのは、優タンがひどいことになるってことはないよね」
「フ。私を誰だと思っているんだ? 無論、健やかな状態で戻そう。そうなるように、ゴミシンケも健闘し始めたようだしな」
「よし、じゃあ僕はあれの動きを止めるよ」
「触れ過ぎればまた当てられ体調を崩すぞ、都筑君」
「覚悟の上だよ」
「まったく」
いつもの志喜の反応。あおゆきにも彼がどんな応答をするのか予想できるようになってきた。彼女はあきれたように頭を掻いた。
天井の半透明は何度となく旋回していた。
「ウラメシイ、それがウラメシイのだ」
言うと、それが志喜達に向かって降りて来た。あおゆきは再び抜刀をした。




