夜、部屋にて
あおゆきは窓からの夜空を眺めていた。チコは心地よさそうな寝息を立てている。
障子戸の外から声がした。志喜だった。
「ちょっといいかな? こんな時間に」
おもむろに立ち上がり、
「私が出よう」
とだけ答えた。障子戸が開けられる。
「部屋暗くて平気なの?」
「かまわない。どうしました?」
「話し、したくて」
「分かった。都筑君の部屋に行こう。ここは姫様が寝ている。起こしてしまうのも忍びない」
「そうだね」
志喜の部屋は蛍光灯の光で満たされていた。志喜はお盆に乗せて来たお茶の入った湯呑を渡した。
あおゆきは一口つけて、それからは口を開かなかった。
「あのさ……今日のことなんだけど」
「神社のことか?」
「うん」
志喜の口取りは重々しい。
「僕にはちょっと分からないなと思って」
「呪う気持ち、のことが?」
「気持ちっていうか、行為っていうか」
あおゆきがそこでクスリは笑んだ。口元に手を当て、
「失敬」
とだけ言った。
「笑うとこあった?」
憤然とするというわけではないが、どうにも釈然としない。
「いや、姫様といい、私といい、キツネのことといい、あれだけ寛容に接しながら、人間が行う呪法については釈然としないのだな、と思ってな」
「可笑しくないよ。僕にとっては……そんなに変なこと? あおゆきさんが笑うくらいに」
「ああ。けれど、実に君らしくも思える。数日しかいないが、なんとなく君という人間らしい感じがする」
「僕らしいね。さっぱり分かんないけど」
「怖いのか?」
「ああ、呪いのこと? 怖いってのよりも、何でそういうことするんだろうって疑問かな」
「君は、人間にも抑えがたい衝動があると言っていなかったか?」
「うん。テレビとかさ、本とか漫画とかでも呪いとか読んだり、見たりはあるんだ。けど、実際目の当たりにすると浮世離れしているっていうか。いろいろな感情はあるよ、僕にも。でも、それだからと言って、あんな……方法はさ。たとえそんな気持ちがあってもみんな押さえたり、コントロールしたりしているのに」
「ねたむという気持ちも憎むという気持ちも、ある意味でまっすぐな思いなのではないか?」
「肯定するの?」
「そういう訳ではないが、もしそう聞こえたのなら、都筑君はまだ本当のそういう感情を経験してないだけなのかもしれない」
「そう……かもしれないけど」
「私から見れば、どの思いもまっすぐだ。それがどういう性質なのかが問題だがな。人は思いというと清らかさとか率直さだけがまっすぐな思いだと解釈している節がある、そうではないのだ」
恨み、妬み、嫉みといったマイナスの大きな感情を経験しなければ、それがどういうものかを身に染みて理解することは出来ない。感情だから。言語では表現しきれるものではないのかもしれない。けれども、それを知らずに純朴さだけが一途だと思っていると、挫折したら立ち上がれないかもしれない。多様性を身につけてないから。柳や竹が強いのはしなやかだからだ。立派な外見の松は意外に外力に弱いのだ。
「感情も同じだと」
「そうだな。それにマイナスの感情を知っていると言うのは、時としてプラスの大きな感情へ変換され、その者が成長できるきっかけになることもある、というのも人の世の一つの面であるように私には見えるがな」
「確かに僕はようやく中学卒業したばかりだからな」
「まだ釈然としないようだな。ならば、こう訊くのはどうだ。都筑君、君の願いは何だい?」
「僕の?」
志喜は思おうとした。受験はすでに終了し、高校合格を果たした。それまではそれが望みだった。今はどうだろう。父母、祖父母がいつまでも健康でいて欲しいと思う、高校に行って勉強やら、興味のある部活があればそれにも参加しようとは思っているし、大学へも行きたい。それぞれのwantはある。しかし、それらがhopeやlong forかと、願望というものかと一歩進められると、「そうです」と速答に躊躇してしまう。そもそもに願望というのが、一体どのようなものか、wantとhopeの境界線がどこにあるのか、彼には全く分からなかった。考えもしてこなかったものに、知ろうとしてこなかったものに答えられないのは当然である。
「願いは思いを元にしている。だから、それを考えてみるといいのではないか?」
「そうみたいだね」
「じゃあ、私はお暇するよ。姫様の様子も気になるし」
「あ、ゴメンネ。チコの護衛なのに」
「大丈夫。前も言ったがこの家には術を施してある。そこいらの低級は入って来られないからな」
「そうだね。ありがとう、あおゆきさん」
「礼には及ばんよ。では、おやすみ」
「おやすみ」
志喜は窓を開けた。夜空が鮮やかだった。冷たい風が暖房の効いた部屋に我先にと侵入してくる。
――僕が悩んでても、星は変わらず輝いてんだな
願望。あおゆきから与えられた宿題は、志喜にとっては高校からの課題よりも難題に思えた。




