チコの素性
「始めに、都筑殿は……」
「ちょっと待った。殿は止めてよ。堅苦しいし」
「それならば、都筑君」
「うん、まあ、それでいいや」
もっとフランクでもいいのだが、あおゆきの口調からして、距離感からしてそう呼ばれた方がいいのかもしれない。
「都筑君はムジナをご存知ですか?」
「いや、知らないけど」
「そうですか。ムジナというのはこの島にいる妖怪、あやかしです。人はキツネやタヌキの類だと言っているようですが別のものです。動物の姿でいる時には四足歩行で、大きさはそれらに近いですが、別のものです。私はそちらの方をお守りするように依頼されて来たのです」
「守る? 依頼?」
「はい。そちらにおりますのは、島内のムジナを統率する王族の姫様でございます」
「!」
思わず視線をチコに向けた。
「着てるのがおめかしなわけだ」
「続けてよろしいですか」
志喜の納得を意に介す風でもなく、あおゆきは話を続けた。
「現王の父君であらせられる、姫様からすれば祖父様の教育方針で、今後は姫様を厳しく躾けるとの方針がありまして、その一つとして渉外の係をさせようと。先日も練習をしておりました。が、既定時間になってもお戻りにならないので、情報収集をしてみると、あなたに会ってしまったとの。人に会っても、こう言っては何ですが、ばれなければよいわけですが、姫様はなぜか練習を途中でやめてしまわれて、あなたに憑いて行ってしまった。私に連絡があったのはその後です。主様――姫様の祖父様のことですが――から姫様を連れ戻すようにとの依頼を承り、参上した次第であります」
「でも、よくここが分かったね」
「私は鼻が効きます。姫様があなたとお会いになった林から辿って参りました」
「そう」
まだ眠るチコの頭を撫でた。ワンダーランドに連れて行かれるかと思いきや、ワンダーがやって来たのだ。本当に束の間の夢のように。
「いかがされましたか」
「帰っちゃうんだって思って」
「これはイレギュラーな出来事。姫様を連れ戻し、あなたの記憶をなくすようにと」
「それはいらないよ。別れたとしても記憶は消さないで」
「理由は?」
「特にないよ。ただチコといた時間がもったいないじゃない。楽しかったのに」
「こう言っては何ですが、あなたの体調不良の原因は姫様にあります」
「チコも似たようなことを言ってたけど、それってどういうことなの?」
「あやかしの気配によって引き起こされているということです」
「それは君から漂ってきた匂いみたいなもの」
「そうです。先程あなたが浜辺で倒れたのはその体調不良と、私に触れたことと私の香りを嗅いだからでしょう。人にとってあやかしの香りは異質な物。毒にもなりかねません。申し訳ないことをしました。注意が行き届かず。あなたをどうこうしようという意図はなかったのです。それと匂いだけでなく、そうした接触自体もお避けになった方が……」
「ううん、それは良いんだよ。てことはさっきの飲み物はその……」
「そうです。野菜や果物、菌類を調合したもので、そうですね、毒気を弱めるとでもいいましょうか」
「そう。まさに栄養ドリンクってことだね。ありがとう。僕のために」
にっこりとほほ笑む志喜に、あおゆきの申し訳なさは氷のように溶けるようだった。
目を擦りながら、のっそりとチコが起き上った。
二人がチコを見つめている。ぼんやりした目元がぱっちりと開いた。
「シキー」
首元に飛びついて来た。
「大丈夫? ねえ大丈夫?」
「大丈夫」
志喜はあおゆきに向き直した。
「チコには……」
「すでに話してございます」
確認が終わる。わずかばかりの沈黙。志喜には長い沈黙だった。
「さあ、姫様帰りましょう」
「いや!」
「主様と王様、王妃様もお待ちかねです」
「いやなの! シキと約束した日まで一緒にいるの!」
「約束?」
あおゆきは志喜に向いた。
「ああ、そうなんだ。事情を知らなかったから。僕は島の人間じゃないし。父さんの実家に来ているだけなんだ。だから島にいるのも、あと残り一週間くらいなんだ。それでそれまでならっていうことでOKしてたんだよね」
「そういうことでしたか。それでも帰りましょう」
「いや!」
「そう駄々をこねずに」
二人のやり取りに志喜は
「ねえ」
と言って口を挟んだ。
「なんでしょう?」
「そっちていうか、チコに用事がなければだけど、短い期間だから僕はいてくれてかまわないんだけど」
「言っていることがお分かりですか?」
「多分分かってない。そっちの……なんていうか、妖怪の世界のことは知らないから」
「でしょうね。いいですか、申したように、あなたの体調不良の原因は私たちあやかしとの接触です。姫様が憑いていることが根本的な原因ですが。先程のようにいつまた倒れるかもしれません。それに、姫様が山から里に出てきているのです。私が選ばれたのは、それが理由なのです」
「どういうこと?」
「ムジナの王族の血統ともなれば、まだ姫様は幼い故それほどではございませんが、その潜在的な妖力は並ではないのです。その姫様が里に出てきている。となれば、低級なあやかしたちが姫様の妖力を我が物にしようと、狙わないとも限らない。となれば、人であるあなたにも危害が加わる可能性が」
「ストップ。第一の懸念に対しては、あおゆきさんがさっきのジュースを僕に作ってくれればどうにかなる。現に飲んでから気分良いし。第二の懸念に対しては、あやかしを近づけない方法を教えてくれれば済む。どう?」
「理屈はそうでしょうが、しかし」
「大丈夫。君がチコを守ってくれるんでしょ? それなら僕は自分の身を守るだけだよ」
それを聞いてあおゆきは、しばらく顎に手を当てて思案してから
「分かりました。これは私には判断を下すことができない提案です。ですので、少々お待ちいただけますか」
そう言って、あおゆきは胸ポケットから一枚の葉を取り出した。それから葉の表面をなぞるように指を躍らせた。志喜は覗いてみたけれど、うっすらとした光、というよりうすぼんやりとした粒子が並んでいるくらいしか見えなかった。
「人には見えません」
そう言って、クスリと彼女は笑った。
「いえ、姫様が憑いていますから、わずかに光っているくらいは見えるのでしょうね」
書き終わると、窓を開け
「主様の元へ」
掌に乗せた葉に息を吹きかけた。葉は意思を持っているようにして、山の方に向かって飛んで行った。
「あれは何?」
「人で言えば、手紙のようなものです」
「つまり、事の成り行きを書いて、判断を仰ぐと」
「そうです」
「そう。なら返事が来るってことだね」
「ええ、そうなります」
「それっていつ?」
「そうですね。一時間もあれば」
「なら、それまでは自由ってわけだ」
「はあ、そうですが」
あおゆきは怪訝そうになる。
「お昼、食べよう」
スクッと志喜は立ち上がり、部屋を出て行った。
「ほら、あおゆきも」
チコはあおゆきの手を取って志喜に続いた。




