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7「離れたからって追いかけちゃいけないわけじゃない」

家に着いて、びしゃびしゃに濡れた服を玄関に脱ぎ捨てた。洗面所へと向かい、亜香里はいつも自分がたたんでいるタオルを手に取り、乱暴に体を拭いた。乾燥機にかけられたタオルからは、日に当ててもいないのに太陽の匂いがした。


まだ濡れた雨の匂いがとれなかったので、シャワーを浴びた。いつもより温度設定を上げても、冷えた体はなかなか温まらなかった。


時間もさほどかけずにシャワーを終え、リビングのソファに身を投げると、そのままスマートフォンを手に取った。母親からのメッセージが届いていた。


「塾の先生から、最近課題への取り組みが雑になっていると連絡がきました。大丈夫?もし疲れていたり、気に病んでいたりすることがあったら相談してね」


「最近なかなか見てあげられなくてごめんね。今度お休みの日に、お母さんとどこか出かけようね。亜香里は行きたいところある?」


「今日も愛してるわ亜香里」


連続したメッセージを目で追うのに疲れて、スマートフォンをソファに投げた。が、思い直して「特に大丈夫。なんにもないよ。お休みの日のお出かけ先は相談して決めようね。でも、仕事で疲れてたら無理しなくてもいいからね」と返信をした。「やることリスト」メモに〈お出かけの場所を決める〉と追加してスマートフォンを放り投げた。


雨が窓を叩く音が響く。まだ一六時前なのに、雲が空を覆い部屋の中は暗かった。



黒田は考え事をしながら、傘を閉じたまま帰った。部屋に戻ると、新堀が目を丸くして


「どうしたのそんなに濡れて。タオル使いなよ」


と言ってタオルを差し出した。使い古しのごわごわなタオルはそれでも温かかった。体を拭くと床にそのまま腰を下ろし、再び何か考えるように目をつむった。


「何かあったの。今日はやけに真面目な顔をしているけど」


新堀に聞かれて黒田は口を開いた。


「人は何で離れていくんだろう」


「え?」


「俺の近くの人は皆離れていく。俺が近づいたら皆離れていくのは何でだろうって考えてた」


新堀は、黙って部屋の二段ベッドの下段に腰を下ろした。そこが二人で話すときの新堀の定位置だった。


「何でだろうね。ぼくにもわからない。それぞれ自分の考えで離れていった人もいるだろうし、生きて

いて理由もなく、自然と距離が離れてしまう人もいるんじゃない」


「でも、俺が一緒にいたいと思った人は皆離れていく。近づいて、触れられるくらいにいたいのに離れていく。心が痛い。だから、俺がそう思わなければいいのかもしれない。」


「それは、そんなわけはないから、少し休んだらいいと思うよ。気持ちがめげている時は、考えもどんどん沈んでいっちゃうから」


そう言って新堀はポケットをまさぐり、ナイロン製のスポーツブランドの描かれた財布を取り出した。


「それから、落ち着いたら追いかけて話してみればいいんじゃない。離れただけで、世界から消えてしまったわけじゃないんだから。離れていったからって、追いかけちゃいけないわけじゃない」


新堀は財布の中から折りたたまれた写真を取り出した。写真には、小さな頃の新堀と、両親と思われる二人が並んでいた。整えられた身なりで緊張した様子でぎこちない笑みを浮かべている。写真屋で撮ったようなきちんとした写真だった。


「ぼくの会いたい人は、もう追いかけられなくなってしまったから」


そう言って新堀はベッドに倒れこんだ。じっと写真を見る眼差しはどこか寂しげだった。



黒田も梯子を登り、二段ベッドの上に横たわった。そうして、枕元に置いておいたギリシャ神話の本のページをめくった。


黒田は「女神ヘーラーとヘラクレス」のページを開いた。何度も開いて本に開き癖がついているので、すぐに開くことができた。


黒田はヘラクレスがヘーラーに突き放される原因となったエピソードを何度となく繰り返し読んでい

た。幼い赤子だったヘラクレスは、乳を吸う力が強すぎたため、母親のヘーラーから突き放された。その時に勢い余って飛び散ったヘーラーの乳が天の川になったという、そんな話だった。その後のヘラクレスの英雄譚が、むしろ本の中では話の中心として描かれていたが、黒田はそれにはあまり関心がなかった。


黒田は自分とヘラクレスを重ねていた。自分が母親のもとを離れることになったのは、きっと求める力が強すぎたせいだ。だから、今度は引き離されないように、乳を吸いすぎないように。そうすればきっとまた。そう考えることは黒田の中で一筋の希望となっていた。そう思えば、少しの苦しい状況も、ヘラクレスのように立ち向かえる。そんな気にすらなった。


そして黒田は亜香里のことを思い浮かべた。ギリシャ神話と、母親と、亜香里と。ぐるぐると考えを巡らせているうちに黒田はうとうとと眠りについた。めずらしく静かな夜で、不思議と心地よい眠りだった。



 

ずぶ濡れになった体のまま、亜香里は風呂場へ向かっていた。真新しい白いタオルで体を拭き、シャワーを浴びた。温かいシャワーで寒さや疲れは洗い流された気がしたが、収まりのつかない、落ち着くことを許さないような何かが心の中にへばりついていた。部屋の中は北欧デザインのシンプルな木製の家具、主張しすぎない観葉植物。白で統一された壁やカーテンなどのファブリック。不快なものは何一つ目に入らないのに、空気が淀んでいる気がする。窓を少し開けて亜香里は換気をした。雨は止む気配を見せず、でろんとした生温い風が入っていきた。


やがて亜香里は心の中にへばりついたそれが、じわじわと広がってきた「嫌だ」という気持ちであることに気が付いた。何が嫌なのか、何が原因なのか、亜香里は部屋着に着替え、自分の部屋のベッドに座って考えた。


嫌がらせを受けている自分が嫌だ。嫌がらせをしてくる学級の人間でなく、それを許してしまった自分が嫌だ。理不尽な目に遭っていることはわかってる。でも、それを「理不尽だ」といって止めさせるのは難しいし、嫌がらせをしてくるクラスメイトに話を理解してもらえるとは思っていない。それ程他人に期待はしていない。担任やら両親やらの力を使って止めさせたところで、心のしこりは残る。しこりを抱えたまま残り何カ月もほとんど毎日顔を合わせることになると考えると、うんざりした。


黒田に対して冷たい態度をとってしまった自分が嫌だ。今も変わらず、黒田にはそれほど嫌な感情は抱いていない。むしろ、素直で飾らず向き合ってくれえることは嬉しいくらいだ。


一時的なイライラをぶつけてしまったことに後悔しかない。


母親に言えない自分が嫌だ。助けを求めることで心配をかけたくない。きっと仕事も手につかなくなる程うろたえるだろう。もしかすると、学校に乗り込んで感情的に騒ぎ立てるかもしれない。何より、自分の娘がいじめに遭っているという事実で悲しませたくない。


結局のところ、自分が嫌なんだ。そのことに気付いてから亜香里はなおさら気分が落ち込んだ。スマートフォンの過剰に明るい画面には、母親から送られてきた遊園地の画像が積み重なるように表示されていた。それを眺めながら返信する気力もなく、毛布の中にもぐりこんだ。


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