6「あまり近寄らないでもらってもいい」
五年三組の教室の中で、黒田は一人だった。
初めのうちは周りの子どももしきりに黒田に話しかけていたが、反応が返ってこないことを悟ると、遠巻きに彼に接するようになった。黒田も基本的には静かだったが、たまに感情が爆発し暴れることがあり、それがさらに孤立を深めさせることになった。
ある時、教科書を忘れることが毎日のように続いた。担任は、
「何回同じことを繰り返すんだ。五年生にもなって恥ずかしくないのか」
と叱り、教科書は隣の子どもに見せてもらうよう指示した。担任は体つきががっしりとした男で、まだ太陽が本格的に肌を焦がす季節でもないのに肌は浅黒く、年中ジャージを着ていた。黒田は、隣の子どもに話しかけることができず、ただ一時間ずっと担任の声を聞くだけだった。授業後、そんな姿を見て担任は黒田を呼び出した。
「お前は黙っていれば助けてもらえると思っているのか。あまえるな。自分で何とかしなくちゃいけないんだぞ。父さん母さんにお世話してもらう生活はいつまでも続かない。自立していかなければならないんだ」
そこまで言って、担任は思い出したかのように「あっ」と声を漏らした。周りの子どもたちからくすくすと笑い声が聞こえた。担任は「父さん母さんに」と黒田に言ってしまった自分のミスをなかったことにするかのように、変わらぬ態度で指導を続けた。目を伏せてじっと黒田は黙っていた。その態度が気に入らなかったようで反省文を書くように担任は指示した。
作文用紙を前にしても、何を書けばいいかわからなかった。反省文というくらいだから「ごめんなさい」の言葉を書けばいいのはわかるが、それ以上残りのマスに書く言葉が浮かばない。空白がこのままずっと埋まらない気がした。黒田にとって字を書くことは困難なことだったので、なおさら苦しい時間だった。
休み時間の間粘り、黒田は何とか反省文を書き終え、担任の机に置いた。
職員室から戻ってきた担任はそれを見て「ふざけているのか」と激怒した。作文用紙は、「ごめんなさい」という言葉でびっしりと埋め尽くされていた。正確には「ごめんなさい」と正しく書けていたのはほんのわずかで、「ごんめなさい」のように間違っていたり、字形が崩れていて読めなかったりで、とても反省文と呼べるようなものではなかった。作文用紙は消しゴムの後とマスを無視した乱れた字で真っ黒になっていた。
「ちょっとこっちにこい」
と呼ばれた黒田は、担任の方へ向かった。
「これだから学園の子どもは」
と聞こえないくらいの声で担任は言った。蔑みのような、哀れみのような視線を向けながら。
その瞬間、黒田は駆け出した。子どもたちの机椅子にぶつかっても止まらず、泣きながら担任の首を掴んだ。指を立て、担任の肌に食い込ませた。
子どもたちが他の教員を呼び、事なきを得たが、黒田はクラスの中で「自分たちとは違った存在」とされるようになった。
小さな社会は異質な存在に厳しい。五年三組の子どもたちも、平穏が脅かされると思い、力を合わせ始めた。それは目に見えるような結託ではなく、ましてや明らかな黒田の排除でもなかった。
まず、学級の中のさらに小さな友達集団の中で、意識の共有が図られた。子どもたちの言葉で言えば、
「先生殺そうとしてた、あいつなんなの」
「いつも静かなくせに、キレたら暴走するとかやばい。近づかないほうがいい」
「あいつ親いないから怒られないし、怖いものなしなんだろ」
といった具合だった。
子どもたちは決して自分たちから黒田に関わろうとはしなくなった。授業中、必要に迫られたときのみ、最低限のコミュニケーションをとった。休み時間には、黒田は図書室で一人本を読んで過ごしていたので、もともと誰とも一緒に過ごしてはいなかった。担任の目には、黒田が好き好んで孤立しているように映った。
その後も、黒田は相変わらず忘れ物が多かった。担任も仕方がないと半ばあきらめたように「隣の人に貸してもらいなさい」と毎度吐き捨てた。
隣の席に座っていた吉住という女子は何も言わずに消しゴムを貸した。黒田はそれを使ってから、黙って返した。次の休憩時間に、吉住はトイレの中で女子友達のグループの一人に消毒ジェルを借り、さりげなく消しゴムに塗った。女子友達もそれを確認し、変わらぬ様子でトイレから出た。それは一連の儀式のように手際よく行われた。黒田に物を貸した後は、そうして「除菌」するのが、クラスで共通の約束となっていた。もちろん、それは担任の見ていないところで行われた。
給食時間は、たいてい黒田の給食は他のよりも少なかった。文句も特に言わなかったので、物足りないまま昼休みに入ることが多かった。
黒田は知る由でもなかったが、クラスの一部が参加するSNSのグループでも、黒田に対する不満や、陰口の応酬が毎日のように行われた。
そのようにして、大人の知らないところで、異質な者への「排除」が淡々と行われていた。黒田本人は何となく感づいていたが、声をあげることはなく、それがさらに「排除」を行う子どもを増長させる結果となった。
しかし、その日の黒田は違った。
亜香里と話してから、黒田自身も自分の変化に気付いた。今までは、他人と話そうとすると口がまごついて、言葉が口からでる現実を想像することができなかった。分かっているはずの声の出し方がわからなくなった。
しかし、その日は黒田も驚くほどすらすらと言葉が出た。いつもは頭の中に浮かんではそこで完結していた言葉を発することができた。進んで話そうとする気さえ起きてきた。
実際、隣の席の吉住が鉛筆を落としたときに、
「これ落としたよ」
と言って拾って手渡した。吉住は怪訝そうな顔をして黙ってそれを受け取った。黒田も「除菌」されるのはわかっていたが、それすらどうでもいいと思える程気分が良かった。教室の窓から入る梅雨明けの日光が眩しかった。
五年三組のざわつきを差し置いて、黒田はすっきりとした気持ちで午前中を過ごした。給食ではいつも通り黒田のだけ極端に少なかったが
「これもし余ってたら、もう少し多くして」
と当番の子どもに自分の声で伝えた。盛り付けをしていた子どもも面食らった顔をしていたが、無下に断ることもできず言われるがままに増やした。
昼休みになり、黒田は図書室に向かおうと廊下を歩いていた。借りていた小説の期限が今日までだった。飛び込みに打ち込むスポーツ少年の物語を二回最後まで読み、爽やかな気分で階段を上った。ふと前を見ると、亜香里がいた。
「あ、亜香里」
「あ、黒田君、本、返しに行くの?わたしもそれ読んだことある」
「そうか、面白かった」
「うん、、面白いよね。それじゃまたね」
「うん、また」
簡単な会話のみで二人はすれ違った。そしてその様子を、周りで、多くの子どもたちが見ていた。視線は、決して好意的に向けられたものではなかった。
「亜香里、黒田と友達なの」
昼休みの終わりころ、五年二組の教室に戻って次の算数の準備をしているときに、同じ班の田所は亜香里にそう尋ねた。藤澤とのトラブルがあったときに、亜香里に付き添って保健室へ行ったうちの一人だった。
「友達ってほど仲がいいわけじゃないけど、こないだ一緒にバスケした」
「へえ、そうなんだ。黒田って三組で嫌われているらしいから、あまり近づかない方がいいよ。普段全然しゃべらないらしいし。あんなにちゃんと話してるの初めて見た。亜香里のこと好きなのかもしれないから、気をつけな」
黒田が嫌われていることを亜香里は初めて知った。やすらぎ学園の子どもはほとんどがどことなく距離
を置かれているのは、同じクラスの藤澤のことを考えると想像できたが、はっきりと嫌われているということを聞いたのは初めてだった。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
そう言って亜香里は階段を上り、図書室へ向かった。黒田が黙って椅子に座り、新たな小説をじっと読んでいた。他の子どもたちは遠巻きにその様子を見ながらも、気にしないふりをして本を選んだり、読んだりしているようだった。黒田の座っている椅子の周りにも席があるのに誰も座っていない。当の黒田もそれを別に気にするでもなく、小説に集中している。前かがみになり、文字が見えるのかというくらい本に目を近づけて読む姿が、亜香里は何だか可笑しかった。
そのとき、急に黒田が顔を上げ、亜香里の視線に気付き、屈託のない笑顔を浮かべた。伸びに伸びた前髪と薄汚れた顔に、口元からは黄ばんだ歯が覗いていた。周りの子どもたちも突然の変化に驚き、黒田の笑顔が向けられたのは誰か、その視線の先を追った。
亜香里は反射的に目を逸らし、背を向け、逃げるように図書室を去った。振り返らずに階段を下り、教室に戻って自分の席に着き、意味もなくペンケースの中身を出したりしまったりした。そして次の授業が始まるまで、鉛筆の先で自分の手の甲をつつき続けた。
その日から、亜香里を「心配」する人間が寄ってくるようになった。
「あいつやばいから、仲良くしない方がいいよ。急に先生の首絞めたらしいよ。絶対亜香里も襲われるって」
「親がいないから何しても怖くないんだよ。万引きも平気でするらしい。悪い先輩との付き合いもあって警察に捕まったことがあるんだって。犯罪に巻き込まれちゃうよ」
「なんか汚いし、臭いし、近くにいるだけで気持ち悪くなる。亜香里もあいつの菌がうつるぞ」
そんなことを言われる度に、亜香里はとりあえず頷いて話を聞いた。
その一方で、黒田は変わらぬ態度で亜香里に接し続けた。亜香里を校内で見つける度に笑顔で「亜香里おはよう」と挨拶をした。顔は相変わらず汚れていたが、眼は透き通っていた。まっすぐに届く笑顔を無下にする気にもなれず、その度に亜香里も「おはよう」と短く返した。できるだけ人目は避けたが、どうしても黒田の風貌は目立ち、挨拶を交わす場面も目撃された。
「心配してあげてるのに、何で関わり続けるんだろう」
「実は黒田のこと好きなんじゃないの」
「いい子だと思っていたのに」
亜香里を取り巻く声も変化していった。曇り空が続き、梅雨の雨で閉ざされて校庭で遊べなくなる頃には、亜香里も距離を置かれる存在へとなっていた。
もともと、放課後も忙しく、友達と呼べる程近い人間もいなかった。地域にそぐわない家や、落ち着いたふるまいも初めは羨望と尊敬の眼差しで見られ、学級の中でも白鳥のひな鳥のように大切に扱われてきた。白鳥に触れることは子どもたちの中でもステータスとなり、亜香里は決して一人になることはなかった。
それが少しの綻びにより、崩れ始めた。尊敬と同時に、芽生えていた亜香里への妬みの気持ちが噴出した。「責めてもいい」という共通認識ができると、醜い感情は高ぶり、亜香里へと押し付けられた。亜香里と「友達付き合い」する人間はいなくなり、とりあえず入っていたクラスのSNSグループからはいつの間にか外されていた。持ち物がなくなることが増え、それは決して見つからなかった。
今日も大雨だった。低学年の子どもたちは、道路の水たまりに入り「海だ海だ」と喜んでいる。長靴で無邪気に水たまりに飛び込み、水しぶきを上げている。灰色の雲は何重にも重なり空を覆っている。青空を忘れる程、長いこと梅雨が続いていた。
傘立ての中にある傘を探す。雨の中でも目立つ、光沢のある花柄の傘。母親が選び、自分に手渡したその傘が見当たらない。朝も雨が降っていたので、持ってきたことは確かだった。亜香里は念のため他のクラスの傘立てを探したが、どこにも花柄の傘はなかった。亜香里はしゃがみこんで深いため息をついた。雨の壁は視界を灰色で閉ざしている。中から時折車のライトが光っているのが見える。湿度の高い空気は肺の中を暗い気持ちで満たす。そばを通った女子たちが小さな声で「邪魔」と言ったのを亜香里は確かに聞いた。
「亜香里」
と声がした。黒田だった。亜香里は黙って黒田に背を向けた。
「どうした、亜香里、傘ないのか。俺の使うか」
そう言って黒田はビニール傘を差し出した。突然の雨に間に合わせで使う、安物の傘だった。サイズも五年生の子どもを覆うには少し小さかった。亜香里は黙って玄関を抜け、雨の降るのも気にせず外へと歩き出した。
「濡れるぞ、亜香里」
と言って黒田も慌てて駆け出した。追いつかれそうになると、亜香里も走り出した。泥水が跳ねてスカートを濡らした。
「亜香里」
黒田が追いつき、道を閉ざすように亜香里の前に立った。亜香里の顔はぐしゃぐしゃに濡れていた。
「ごめん、あまり近寄らないでもらってもいい」
亜香里は一言だけ言って雨の中に姿を消した。