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5「まあいっか」

それから、藤澤は手が付けられなくなったようで、やすらぎ学園の職員が迎えに来るまで別室で待たされていた。大人に囲まれて教室から出ていく姿に、クラスメートは冷ややかな視線を浴びせていた。


「いじめ」に対して厳しい昨今、子どもたちも表立って悪口を言ったり暴力を振るったりすることは少なくなった。あからさまな仲間はずれなどもほとんどなく、授業でグループ活動をしなければならない場面でも、周りの子どもは上手く藤澤を手なずけながら進めていた。


しかし、異質な者に対しての恐れや嫌悪は心のどこかに残っていて、それはたまに表に出てきた。藤澤が暴れたときには特にそうだった。人間は他人に非があるときには容赦なく残酷になれる。それは教師もクラスメートたちも同じだった。


藤澤は暴れて、教師に罵声を浴びせながら連れて行かれた。亜香里はそれを見て、テレビで見た、人里に食べ物を探しに来た熊を思い出した。熊は人を見て、踵を返したが、猟銃を持ったハンターに撃たれて連れていかれてしまった。思いの外小さな背中は獰猛なイメージとは違って、何だか哀れだった。


亜香里は特に怪我などしていなかったが、保健室に連れていかれた。頼んでもいないのに「大丈夫」「大変だったね」と数人の女子が付き添いで来た。



家に帰ってからは、しばらく自分の部屋のベッドに寝ころんでいた。両親は仕事で、家の中は空っぽだった。外の音は家を囲む大きな壁と分厚い窓に遮られ、時計の針が進む音だけが聞こえた。


学校から連絡が入ったようで、母親が「大丈夫だった?」と電話をかけてきた。


「別に何ともないよ。心配しないで」


「そう。それならよかった。災難だったね。世の中には色々な人がいるのは仕方のないことだから、上手に距離をとらなきゃ駄目よ。みんなと同じように仲良くしなくてもいいの。あなたは賢いから、わかるでしょ」


「うん、大丈夫」


「じゃ、今日も遅くなるから、英語教室行ったら、晩御飯は用意してあるの食べてね」


「うん、わかった」


「今日も愛しているわ亜香里」


そう言って母親は電話を切った。最後の「愛しているわ」は本棚に並んでいる育児指南書の受け売りだった。両親は亜香里の目を見るよりも、育児書のノウハウを蓄える時間の方が長かった。


亜香里はスマートフォンを開いて「やることリスト」と書かれたメモを開いた。一番上には〈英語教室〉と書かれていて、その下にも数行に渡ってびっちりとやることが書いてあった。


画面をスクロールして亜香里はため息をついた。


またごろりと体をベッドに横たえた。右足に何か当たっているような感触が残っている。初めて人を蹴った。そこまで強く当たった訳ではないが、痛めつけようとしたわけではなく、あくまで防衛のためだったが、人を蹴ってしまった。小さな頃保育園の友達の髪の毛を引っ張っただけで母親に長時間説教をされた。


「あなたの気もちは分かるわよ」という共感から始まったねっとりとした母親の話は、一般的には説教とは言えないかもしれなかったが、一時間以上それが続くのは苦痛だった。


両親からは、激しい感情を向けられることはなかった。いつも壁一枚隔てたような、「どうせ子どもだから」といって本音で向き合わないような、そんな接し方しかされなかった。それはまるで、抗菌室の植物を育てているかのようだった。


なので藤澤から向けられた激しい感情に、どう対応すればいいか、混乱してしまったのかもしれないと寝ころびながら亜香里は漠然と考えた。


考えてみれば、自分ははっきりと藤澤の腿を蹴ったのに、何も咎められていない。藤澤はそのことは何も言わなかった。それに比べ、机を蹴っただけの藤澤はこっぴどくやられてしまった。


亜香里は腹の奥にしこりのようなものを感じた。実際に何かあるわけではかったが、釈然としない思いが産まれ、寝転がったままでは大きくなっていくばかりだった。


薄手の襟付きコートに袖を通して、姿見も確認しないままに、亜香里は玄関を飛び出した。



亜香里はアパートや一軒家の並ぶ住宅地を抜け、やすらぎ学園へと急いだ。お世辞にもきれいとは言えない家がぎっしりと並んでいる。もともとは東京に住んでいたが、医師である父が地元で開業したいと言って五年前に引っ越してきた。家は密集していたが、その他の施設や店は決して多くはなかった。その中で、若干小高い土地に建った亜香里の家は不釣り合いなものだった。家一軒が建つような広さの庭があり、それ以上の広さの土地に建てられた家は、白い壁で囲まれて生活の様子は感じられなかった。亜香里も少しずつそのことに違和感や、恥ずかしさを感じるようになった。


やすらぎ学園は町のはずれにあった。亜香里がそこに辿り着く頃には、すでに夕日が沈む頃になっていた。やすらぎ学園は、無機質な白い壁に囲まれた大きな建物だった。五つ程の棟に分かれ、それぞれが連絡通路で繋がっている。棟の周りには生垣や木々が並んでいて、咲き初めのアジサイが申し訳程度に彩りを添えていた。広い園庭にはサッカーゴールが置かれていて、野球のフェンスのような高い網が周りを囲んでいる。Tシャツとジャージ姿の子どもがボールを追いかけ走り回っていた。思いの外開放的な施設だと亜香里は思った。



門には誰もいない。自由に出入りできるようだった。一番大きな建物の中を覗くと、守衛にしては少し歳の取った男が、ガラスの向こうで座って新聞を読んでいる。何と言って入ればよいか亜香里は考え始めた。ふいに笑い声が近づいてきた。振り返ると、藤澤と、同じくらいの年の少年二人がバスケットボールを手に近づいてきていた。藤澤はボールを少年たちと投げ合っている。大きめのスウェットパーカのフードがその度にはねる。ボールを受け取り、藤澤は、ドリブルを始めた。アスファルトに跳ねるボールの音と、亜香里の心臓の鼓動が重なった。


「あの」


亜香里は攻めた。藤澤の飴玉のような目がどろりと動いた。


「あ、後ろの席の」


敵意はなかった。さらに亜香里は攻めた。


「今日、授業で、痛かった」


痛かった?と言いたかった。ごめんも付け足したかったが唇がつまずいたように止まった。


「ああ、机思い切り蹴ったんだから、痛いでしょ、だから」


そうじゃなくて、わたしが、蹴って、ごめん。の言葉は頭の中で完結した。


「お前、よく来るの」


「え」


「だから、この学園によく来るのって。小さい子は放課後遊びに来たりするけど、あたしたちくらいの

はあまり来ないから」


亜香里は、それを初めて知った。


「ま、いいや、遊ぼう」


「え」


「バスケ、黒田と東海林、あたしとお前でチームね。これで二対二になるから。体育でやってるから、できるでしょ」


一緒にいた黒田と東海林は藤澤の後ろでパスを始めていた。藤澤はスウェットパーカにショートパンツ、黒田と東海林はオーバーサイズのTシャツによれたジャージーのセットアップ。亜香里はカーディガンとスカート。不釣り合いな恰好も気にせずに藤澤は言った。


「じゃ、体育館あっちだから、行こう。亜香里」


「え、名前」


「あたし女子は名前で呼ぶの。女子の名前ってかわいいじゃん。男子は苗字」


そうじゃなくて。


「ほら行こう。早くいかないと、体育館使えなくなるから」


藤澤は、そう言って東海林から受け取ったボールを亜香里に回した。


そうじゃなくて。


まあいっか。



夕暮れ時まで、バスケは続いた。


汗の染みたシャツも、弾む息も、亜香里は心地よかった。ボールが跳ねる度に、弧を描く度に、心は踊った。邪魔になったカーディガンはきちんとたたんで隅に置いた。


「お風呂の時間だ」


と言って、藤澤はそそくさと体育館を出て行った。歩きながら、教室で歌っていた、例の歌謡曲のような昔の歌を、また口ずさんでいた。まったく知らない歌だったが、夕焼け空と相まって、懐かしい風景を呼び起こされるような感覚があった。東海林は体育館のフロアにモップをかけている。亜香里もモップをもとうとしたが「息が上がってるぞ」と東海林に言われ、黒田と一緒に跳び箱の上に座って休むことにした。亜香里は六段、黒田は八段の跳び箱の上で息を整えた。


黒田は跳び箱の上で小刻みに揺れている。呼吸のリズムと別のリズムを刻んでいるように。イヤホンジャックをぷらぷらと遊ばせて、音の鳴らないヘッドフォンをつけて、夕暮れ空を眺めている。


やすらぎ学園の子どもは、違う世界に生きていると亜香里は思っていた。この町に引っ越すことに、母は反対していた。電車もほとんど通らず、アパートや古い家が所狭しと並んでいる。やすらぎ学園や少年院のような施設がある。電車の時刻表を気にせず通勤したり、車の排気ガスを浴びずに通学したり、季節を無視した果物が、数字を間違えたんじゃないかと思える値札をつけて真っ白な棚に並んでいたりと、そんな今までの生活とはかけ離れている町だった。きっかけは父が故郷に歯科医院を開業したいと言ったことだったが、猛烈な父の両親の後押しがなければ住むことはなかっただろう。


そんな町の中でも、特に目立つ建物がやすらぎ学園だった。非行に走る子ども達の巣窟、退園後は反社会的な組織と関わる者が数多く、そうでなくとも非社会的な生活をする者がほとんどという噂が、まことしやかに流れていた。特に、大人の中で。


さっきまで同じ空間にいる藤澤は、東海林は、自分は、同じように呼吸し、走った。ゴールのリングに音もせずボールが入ると、言葉にならない声を上げて喜んだ。亜香里にとって新鮮な感覚だった。曇天の中、ふと見つけた雨粒に映る世界が、思いの外きれいだと思ったときのことを思い出した。


それでも、隣にいる黒田は少し違った。


黒田は笑わなかった、言葉を発することもなかった、呼吸が荒くなっても顔色がほとんど変わらなかった。亜香里が今まで出会った子どもや大人の中には、それに近い存在がいなかった。


意識し始めると、急に黒田という人間が気になり始めた。何を考えているか分からない。体の揺れも、音の流れないヘッドフォンも、言葉の出ない口も、分からない。しかし、話しかける勇気はなかった。


黒田は、手持ちぶさたにヘッドフォンのコードをくるくると回し始めた。時折、亜香里の方を横目で見ている。亜香里も、視線に気付いてはいたが、声はかけない。


夕焼けの光が、運動で舞った埃を照らす。薄灰色の雲の隙間から伸びるオレンジ色の光。

亜香里は何となく落ち着かなくなり、足をぱたぱたと動かし始めた。


「あの」


ふと声が聞こえた。


亜香里はどこからの声か分からなかった。


「あの」


「何か、話してみて」


黒田の声だった。いきなりだったので亜香里も分からなかったが、間違いなく黒田は亜香里の方を見て話しかけていた。耳にはさっきまでのヘッドフォンはなかった。顔は薄汚れて、歯は不揃いで、前髪に隠れていたが、目だけが煌めいていた。


「えと、話ってなに、なにを話せばいいの」


「何でも、いい。何でもいいから」


黒田の押しに亜香里はたじろいだ。一呼吸おいてから、言われるがままに口を開いた。


「バスケ、楽しかった。よくみんなでやってるの?」


「だいたい、毎日。体動かすと、体が落ち着く。俺は上手じゃないけど、大丈夫。お前もそんな上手じゃなかった」


悪意はなさそうだということは黒田の笑顔から感じ取れた。


「今日は、なんで学園に来た?」


「あ、藤澤さんに、その、謝ろうと思って。学校で喧嘩しちゃって」


「そうか。でも藤澤は、別に怒ってな

かった。あいつはいつもそう。怒りと喜びが、ジェットコースターみたいに変わる。感情の起伏が激しい」


「難しい言葉知ってるんだね」


「本読むのがすきだから。学園には本があまりないけど、学校の図書室からよく借りてくる」


「そうなんだ」


言葉はそこで途切れた。圏外に入った通信機のように突然に。


「めずらしい。黒田がそんなに話すなんて。俺でもそんなに会話したことない。おい、黒田大丈夫か」

東海林の言葉に亜香里は黒田の方を見た。まくしたてるように話したせいか、黒田の息は上がっていた。


「お水、飲んで来たら」


「そうする」


亜香里に言われて、黒田は水飲み場へ向かった。


体育館の開けっ放しの窓から風が入る。風は緑の香りを運んでくる。紙がめくられる音がする。黒田の座っていた跳び箱の上に、一冊の本があるのを亜香里は見つけた。


「それ、あいついつも読んでるんだよ。ずっと前から飽きもせず、繰り返し繰り返し。変なやつだよな」


東海林はそう言って笑った。手に取って表紙を見てみると「ギリシャ神話」と書いてあった。


「そろそろ俺も戻るわ。またバスケやろうぜ」


モップを片付けて東海林は出口の扉へと向かったが「あ、そうだ」と踵を返して、


「でも、近々俺たちいなくなるかもしれないから、早いうちにな。ここから出ようと思ってるから。誰にも言うなよ」


と屈託のない笑顔で笑いながら言った。亜香里は、秘密なら言わなければいいのにと思ったが、抑えきれずににやにやし続ける東海林を見て、言葉を飲み込んだ。「じゃあな」と言って東海林は去っていった。


やがて、口元を拭いながら黒田が戻ってきた。


「東海林と、何か話してたか」


「あ、うん」


「きっとここをみんなで出る話だろ。みんなに言いふらしてる。秘密と言いながら」


「はは、そうなんだ」


「でも、あいつはきっとそうしない。俺は知ってる。俺は知らせを聞いたから」


また黒田が勢いづいてきたので、亜香里はどうしようかと考えた。早めに切り上げて帰らないと、そろそろ日が落ちる頃だった。


「亜香里は話しやすい。久しぶりに思ったこと、たくさん話した」


「そうかな、何も他の人と変わんないよ。藤澤さんや他の友達とはあまり話さないの?」


「最近は大丈夫だけど、すぐには言葉がでない」


「初めて会った私とこれだけ話ができるんだから、きっと話せるよ」


「そうか。亜香里にそう言われたらできる気がする」


そう言って、黒田は本とヘッドフォンを掴んで跳び箱から飛び降りた。


「またな」


とだけ言って、黒田は去っていった。


話が終わって亜香里は急に疲れを感じた。それと同時に英語教室に行かないといけないことを急に思い出し、慌ててカーディガンを羽織った。耳には、バスケットボールの弾む音がまだ残っていた。


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