表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/31

4「何言ってんの。ばかじゃないの」

黒板の字が見えない。正確には、頭に入ってこない。


佐竹亜香里は、それならば何とか話を聞こうと耳から入ってくる情報に集中した。目はつぶらなかった。授業を聞いていないと思われたくなかったからだ。黒板を見ると、日本の国土と近隣の国々について触れていることはわかった。「日本の近くの国について知ろう」という学習のめあても書いてあった。五年二組の教室は、ある一画を除いて落ち着いていた。


「帰りたい」


「何言ってんの」


「ああやだ、ほんとやだ」


耳に入るのは、ぼやき声にしては大きな前の席の女子一人の声だけだった。だめだ、先生の声が頭に入ってこない。そんなに嫌なら学校に来なければいいのに。亜香里は鉛筆の先でノートをこつこつと叩いた。時々「ああ」とか「うう」とかいううめき声まで聞こえ、なおのこと亜香里の集中力を削いだ。担任の教師も半ばあきらめているのか、特に注意もせず淡々と授業を続けていた。


前の席の藤澤ひめかは、椅子の前足を浮かせ、背もたれに寄りかかるようにぐらぐらと揺れている。ぼさぼさの箒のような後ろ髪が亜香里に近づく。亜香里は鉛筆でノートを叩く音に集中し、気付かないようにした。メトロノームのように一定のリズムでこつこつと叩いた。


藤澤がやすらぎ学園の子どもだということは知っていた。やすらぎ学園の子はどことなく怖いと思っていたので、最低限の関わりしかもってこなかった。三日前に席替えをして同じ班になってからは、嫌でも藤澤の姿が目に入るようになってきた。


授業を聞かずとも、日本の近隣の国々の名前や位置関係はすでに知っていた。しかし、話を聞いてないと授業で自分の考えや問題の正答を発表することができなかった。「意欲的に授業に参加している」という事実が重要だった。


亜香里は産まれてから、ずっと、人生の八割を褒められて生きてきた。物心ついたときには、両親が子どもに求めることは一通り難なくこなした。成長が早かったのか、求められる以上のこともやった。三歳のときには平仮名も片仮名も書いていたし、鉄棒も回れた。耳にした英語の歌を何気なく歌った時には、両親は神の啓示を与えられたかのように、目を丸くして驚き、喜んだ。比較的裕福な家庭だったこともあり、一人っ子の亜香里に対して、時間も金も惜しまず与えた。


しかし、成長するにつれてその神童ぶりには陰りが見えてきた。というより、一般的な子どもと同じような成長速度に近づいたといいうべきか、良くも悪くも周囲の子どもと変わらず、大きな病気や怪我もせずに育って行った。


両親はそのことを咎めなかった。ただ、亜香里の才能は疑わず、その才能が伸びないのは自分たちのせいだとか、教育の方法が間違っていたとか、そのように考えるようになっていった。かける時間も金も惜しまなかったが、その分亜香里は期待の重圧を感じるようになっていった。期待に応えるためには、与えられた最良の方法で、その場にあった最適な思考をしていかなければならない。集中力をすり減らして、ついていかなければならない。そのことは、亜香里の行動や考えを狭め、窮屈さを感じるようになっていった。


才能の落ち込みは一瞬で終わった。両親は、新しい学習塾の教え方が良いとか、モンテッソーリ式の教育は合っていなかったとか、自分たちのやり方を変えたことが功を奏したと信じて疑わなかった。


しかし、亜香里の成長を支えていたのは紛れもない亜香里自身の努力だった。それからも、勉強も習い事も、当たり前のように人一倍の成果をあげていった。一瞬一瞬のとてつもない集中力がそれを可能にしていた。窮屈さは日に日に増していったが、亜香里にはその正体が何なのかわからなかった。亜香里にとっては、親に褒められることは「普通」であり、惜しみない愛に応えるために努力を続けることは「普通」のことであった。


ふと気が付くと、藤澤が自分の目を見ていることに気が付いた。椅子の背もたれに寄りかかりながら、そのまま顔を逆さにして亜香里の目をじっと見ていた。長い前髪がだらんと下がり、額のにきびが顔を出した。洗っていないのか顔も薄汚れている。まるで生首が天井からぶら下がっているかのようだった。


さっきまでとは違いだまりこくって、ただただ目を見つめていた。藤澤の目は飴玉のように透き通り、長いまつげで飾られている。そのためか、にきびと薄汚れた顔でも、不思議と醜い印象はなかった。


「何」


急なことだったので、亜香里は思わず声を出した。しまった。不愛想で嫌な言い方だったかもしれない。藤澤を不快にさせてしまったかもしれない。彼女は何をするかわからない。穏便に済ませなければならない。


藤澤はしばらく黙っていたが、やがて右手を亜香里に差し出した。手の中には消しゴムがあった。


「あ、それ私の」


「かわいいの、落ちてた」


そう言って藤澤はずいと手のひらを亜香里に近づけた。「ありがとう」と小声で言って亜香里はそれを受け取った。パステル調の人気のキャラクターの形をした消しゴムだった。藤澤はすでにぷいと前を向いていた。異国との交流が成功した、そんな瞬間だった。

 

そう思ったのも束の間、藤澤が急に歌を口ずさみ始めた。最近の曲ではない。いつだったかテレビから流れてきた昔の「歌謡曲」に似ているなと思った。静かに流れる川のようなリズムに合わせて体を揺らしている。体に歌声が抵抗なく染みこんでくる。不思議と心地よかった。


しかし、今は授業中だ。視覚も聴覚も、授業に何一つ向けることができなくなった。亜香里は、交流が上手くいった機に乗じて、歌声を何とかやめてもらおうと考えた。どうやら言葉は通じるらしい。そう思って藤澤の肩をとんとんと指で軽く叩いた。


「ねえ」


「何」


「ちょっと集中できないから、静かにしてもらえないかな」


「は?別になにもしゃべってないし。お前何言ってんの。ばかじゃないの」


急に罵声を浴びせられて、亜香里はたじろいだ。しかし、藤澤の顔を見るとそこまで怒っているわけではなかった。


どうやら藤澤の世界では「ばか」はそこまで相手を見下す言葉ではないらしい。「何言ってんの」は会話の中に頻出の言葉らしい。そう考えて負けじと亜香里は異文化交流を続けた。


「さっき、『何言ってんの』とか『帰りたい』って言ってたよ。そう思うなら、いっそ帰っちゃえば?」


「何言ってんの、まだ授業中じゃん」


思わず常識的な答えが返ってきたので亜香里は面食らった。もちろん、亜香里だってそう簡単に帰っていいとは思っていない。藤澤国の文化に合わせた精一杯の提案だった。


「なら、最初からうだうだと言わなければいいのに。集中できない」


しまった。と思った。たまに、摩擦力を失ったような一言が滑り出るのが亜香里の癖だった。


藤澤の眉間が、ちょうど黒板に貼ってある世界地図の山脈のようにでこぼこと盛り上がった。それだけでなく、怒りも湧き上がってきたようで、一発の蹴りで亜香里の机を吹っ飛ばした。流石に担任もまずいと思ったようで、慌てて藤澤の体を掴んだ。周りの子どもも突然のことに硬直していたが、そのうちの一人が隣のクラスの担任を呼びに行った。


掴まれながらも藤澤は亜香里のほうに無理やりに近づいて行った。亜香里は生まれて初めて向けられた敵意に、冷静に、一発の蹴りで反撃した。幼い頃から、困難は自分の手で何とかしなければならないと知っていたからだ。亜香里のおぼつかない蹴りは藤澤の腿に当たった。    


そのことが状況をさらに悪化させ、藤澤は顔を紅潮させ「ばか」「死ね」と数少ない藤澤国の会話フレーズを口にしながら暴れた。机の上にあった鉛筆を握って振り回した。亜香里はすんでのところでそれを避けた。近づいた藤澤の目が潤んでいるような気がした。


その後、隣のクラスの担任が応援に来て、藤澤を別の空き教室に連れていった。亜香里の体は熱く、血が脈打っているのを感じた。頭は働かず、ただ座っていることしかできなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ