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3「大人だって、間違ってるんじゃないかって」

警察との一件があってから、季節が春から夏に変わる頃、黒田、東海林、藤澤の三人はもとのやすらぎ学園の生活に戻っていた。万引きと警察に抵抗したことについては、初犯ということもあり、保護観察処分となった。


黒田は以前まで東海林と同じ部屋で過ごしていた。やすらぎ学園では、中学生になるまで同性二人一組に対し一部屋があてがわれていた。東海林は十二歳、黒田は十一歳で年も近く、同じ小学校の六年生と五年生だったので、黒田は東海林によくついてまわった。東海林と黒田だけでなく、五年生の藤澤やその他のやすらぎ学園の子どもたちも同じ小学校に通っていた。


しかし、万引きの件があってからは、二人はそれぞれ別の部屋で暮らすことになった。それも、建物の別の棟に離された。新しいルームメイトは新堀(にいほり)という気の小さい十歳の少年だった。


新堀は「ぼくね、本当は女の子になりたいんだ」としきりに周りに言っていたことで、同世代の少年たちにあまり溶け込めていなかった。黒田は基本的にあまり口数が多くなかったこともあり、よく話す新堀の話を聞いてやることが多かった。話の内容は、新堀の好きな男性アイドルや、読んだ漫画の感想、学園の職員や同じ棟に暮らす友達について、学校での出来事などが多かった。


「黒田くん、ぼくたちって、十八歳になったら学園をでなきゃいけないよね。その後どうするかって考えてる?」


黒田は考えた。つまりは今までは考えたことがなかった。


「ぼくはね、すぐ働くんだ。働いて、自分の暮らしがしたい。可愛いもので部屋を飾りたいし、きれいな服も欲しい。自分のお金で、いろいろな場所に行って、きれいな景色をみたい。あ、もちろん職員さんにも何かお礼のプレゼントもあげるんだ。ここは不自由もあるけど、みんなとても良くしてくれているから」


黒田はまだ黙って考えていた。


「今は学校で必要なものとか、あとちょっとのお小遣いでしか物は買えないし、自由にお店に行くこともできない。なにより一日中いろんなルールに従わなきゃいけないのがなあ」


新堀は穏やかな調子で話を続けた。新堀の話はいつも長く、なかなか終わることがなかったが、終始ゆったりと話すので、黒田は聞いていて苦ではなかった。新堀の言う通り、ルールや細かく決められた一日のスケジュールに縛られた暮らしの中で、流れる雲のようにゆっくり流れる時間は嫌いではなかった。


やすらぎ学園の子どもたちは、午前六時に起床、その後着替え、洗面所で顔を洗う。洗面所をいつも混雑して朝から騒がしい。なので、子どもたちは自然と、洗顔や歯磨きを短時間で済ませるようになる。


食事は体に良いであろう質素のメニューが多かったが、季節によって旬のものが出たり、クリスマスなどのイベントごとでは特別なメニューになったりと工夫が凝らされていた。自分の誕生日には好きなものをリクエストできた。黒田は何を食べてもそれなりに満足できるので、その日に食べた食事のメニューと同じものをリクエストし、職員を困惑させた。


一人の子どもに対し、二、三人の職員が担当としてつき、二十代か三十代前半と若い世代の人間がほとんどだった。黒田の担当職員は全員二十歳前半と若かった。金髪の担当職員はよく黒田に話しかけたが、黒田はあまり会話をしなかった。


「本当の親みたいに頼っていい」と言われたものの、職員は輪番でやすらぎ学園に通っていて、四六時中いるわけではなかった。当然、それぞれの職員に学園以外での生活があるのを、黒田も、他の子どもも知っていたため、無意識のうちに、距離を保って接していた。


職員はよく陰で子どもたちの話をしていた。聞こえないよう、それなりに配慮はしているようではあったが、大体のことは子どもたちに筒抜けだった。


「○○は頭悪すぎて困る」

「△△の担当にだけはなりたくない」


といった具合の仕事の愚痴がほとんどだった。○○や△△の中には、黒田の名前が入ることも多かった。


熱意や愛情をもって子どもに接する職員は少なく、面倒ごとにならないように壁一枚を隔てたように接することが多かった。職員たちは、休みの日にはパチンコに興じたり、飲み放題の居酒屋に行ったり、カフェで甘いものを食べたりした。そのときには子どもたちのことは頭の中になかった。


学校には担当職員が引率をした。このときに親のような顔をしてついて来られるのが、黒田は嫌だった。やすらぎ学園の子どもは、それぞれの教室に一~三人程在籍するくらいに人数が通っていた。情緒が安定しなかったり、学習機能に遅れが見られる子どもが多かったため、特別支援級に通う子どもも少なくなかった。一日のうちトラブルが起こらない日の方が珍しく、学園の職員は、よく学校に電話で呼び出された。喧嘩や暴力を初め、脱走、行方不明、金品の盗難などと多種多様なトラブルが起こった。


放課後は、自由時間が少しだけある。黒田はバスケットボールをしたり、学校の図書室で借りた本を読んで過ごした。たまに職員の引率のもと買い物に出かけることもあったが、限られたごくわずかな小遣いしか使えなかったので、子どもたちは金や物に飢えていることが多かった。


そんな風にして、やすらぎ学園の日々は過ぎていった。



新しいルームメイトとの暮らしが始まり少し経った時のことだった。就寝時間の九時に差し掛かり、歯を磨こうと洗面所に向かった時、黒田は東海林にふいに声を掛けられた。


「よう、久しぶり。ここじゃすぐばれるから、体育館に行かないか」


言われるがままに黒田は東海林と一緒に体育館に向かった。施設は子どもたちが生活する部屋の他、園庭、体育館などの活動場所があったが、当然就寝時間間際には使用禁止であった。体育館の鍵は閉まっていたが「こうするんだよ」と言って、東海林は扉に全身を預けて押しながら何度か鍵をがちゃがちゃと回した。数回の挑戦で鍵は開いた。


二人で体育館に入ると、東海林は奥の器具室からバスケットボールを取り出して、黒田の胸元にパスを投げた。


「元気だったか?」


黒田は頷いてパスを投げ返した。東海林の胸元へは届かなかったが、上手く体を移動させ、低い姿勢でそれを受けた。


「ワンオーワンは、音が響くからなしな。今日はパスだけ」


二人はしばらくパスをし合った。薄汚れたスニーカーと体育館のフロアが擦れる音が響き渡る。窓からは薄い雲に隠れた月が見える。隠れてはいたが、透き通って月の薄明りが見えた。その明かりだけで、十分ボールを捕ることができた。


「なあ黒田、俺は四人兄弟の一番上なんだけどさ、一番下の弟が学園のD棟にいるだろ。残りの弟二人はさ、学園の生活が合わなかったのか、職員も手が付けられなくて別のもっと厳しい施設に連れてかれたんだ」


黒田はその話はすでに聞いていた。言うことを聞かない子どもがいると「東海林みたいにもっと厳しい施設に連れてかれるよ」と脅す職員が何人かいた。


「お前はなんでこの学園に来ることになったんだっけ」


そう聞かれても黒田は黙っていた。


「まああまり言いたくないならいいや。俺はさ、父親が蒸発したんだよ。朝起きたらいなくなっててさ、家の中はもちろん周りも探した。母さんもいろんなところ連絡したんだけど全然だめで。結構新しい家建ててたんだけど、結局売って別のアパートに引っ越した。母さんも働きはじめたんだけどなかなかうまくいかなかったみたいで、アパートの家賃も払えなくなってさ、貯金もなくなって、どうしたと思う?」


東海林はそう言ってパスをした。手元が狂ったのか、バスケットボールはパスコースから大きく逸れたが、黒田は大きく跳んでそれを捕った。


「車で生活することにしたんだよ。車は母さんにとって大事なのかなんだったのかよくわからないけど、手放してなくて。母さんは運転席、俺は助手席で、弟三人は後ろのシート全部倒して寝たんだ。弟三人は小さかったから、きゃっきゃ言って楽しんでたけど、俺はもう小学校入ってたし、何かよくない状況なんじゃないかってのは感じてた。あ、でもスーパーの半額の弁当分けて食うようになってからはさすがに兄弟も文句言ってたな。あのときは起きてから寝るまで腹減ってたな」


そう言って東海林は、ははと笑った。


「車は公園の近くに停めてることもあったし、日中は大きなスーパーの駐車場に泊まってることもあった。トイレと水飲む場所があったからかな。母さんも帰ってくる時間が遅くなってきて、俺が面倒みなきゃいけないから学校行くこともなくなって。あまり洗ってないからくさい服着てさ。腹減ったってうるさい兄弟と毎日毎日一緒に狭いところにいるのがほんと辛くてさ。そういうときに限って、車の窓から、見えたんだよ。両親と手繋いで歩く子どもが。おしゃれな服着て、楽しそうに笑ってんだよ。その日はちょっと大きなショッピングモールの駐車場にいてさ。父親はでかいおもちゃ屋の袋持ってるんだ。おもちゃなんて買ってもらったのはいつだったっけって、俺はまだいいんだけど弟たちなんて全部俺のおさがり使ってるから買ってもらったことなんてほとんどなかったし、なんかもう悔しくなってさ。訳わからなくなって、そのとき思ったんだ。『こんなのが許されてるんだ』って。こんなみじめな思いを子どもにさせることを世界は許してるんだって」


そう言って投げられたパスは今までよりも明らかに強かった。


「こっちのことなんか気にもせずみんな歩いてるんだよ。車のドア一枚隔てているだけで、こんなにも世界は違うんだって思った。こんな近くにいるのに、全然違うところにいるみたいだった。そしてその時初めて思った」


黒田が返したパスを東海林は受け損ねた。体育館のフロアにバスケットボールが弾む音が響いた。


「大人だって間違ってんじゃないかって」


そう言ってから、東海林は黙ってボールを拾った。


「じゃ、大人のつくってる世界だって、幾ら今まで数えきれないくらいの人が積み上げてきたからって、間違いがあってもおかしくない。そう考えてから、ルールを破るの割と平気になった。まあそれで、スーパーで食い物盗ってるの見つかって、それから学園に来ることになったんだけど、どうだろう、そんな風に考える奴はあまり信用できないか」


黒田は静かに首を掻いた。それ以上は何も反応はしなかった。「相変わらず反応薄いなあ」と東海林は一言言った。二人はパスし合うことを止め、体育館に置いてあった跳び箱の上に飛び乗り、腰を下ろした。


「俺は、また近いうちにここを出るつもりだ。そして、母親を見つけて、『車で生活すんのは違うぞ』って言ってやるんだ。それで兄弟におもちゃ買ってやる。こないだ学園を出てから考えてたんだけど、どうやら俺はただここを出たいだけじゃないらしい。なんだかんだぎゃあぎゃあうるさい兄弟も気になるからな、今度は蓮もちゃんと連れていく。あ、一番下の弟な。そうしたら黒田もまた一緒に行こうぜ」


その時、体育館の扉が開いて一筋の光が入ってきた。懐中電灯の光のようだった。黒田と東海林は、とっさに跳び箱の間に姿を隠した。懐中電灯の光は体育館のいくつかの場所を順に照らしていった。見えづらい場所には、光は数秒留まっていた。


跳び箱も同じように光が当たった。泳ぐように光がくるくると回っているのが見える。光だけでなく、足音も近づいてきたが、跳び箱を過ぎ去ってやがて入口へと戻り、何事もなくまた暗闇と静寂に包まれた。


「見つかるといろいろ不自由するからな」


そう言って東海林はぬらりと姿を現した。「またそのうち声かけるわ」と言って東海林は去っていった。黒田は体育館に留まった。


月明りに照らされた体育館に静けさが戻った。非常口を示す緑色の表示が点滅している。黒田は体育館のフロアに寝ころんだ。冷たくて固い、木の感触が伝わる。手足を好きなだけ伸ばしてみてもぶつかることがない。


体育館の窓から見える雲は川の流れのように過ぎ去っている。雲の流れが心地よく体に入ってくる。外から中へ、入って抜ける。夜の闇と一つになった気さえする。流れを漂うのは心地よい。脳を動かす、何かから解放してくれる。何かの正体がわからずとも。


東海林は口数が多いが、流れを作るのは得意だ。漂って行きつく先に興味があるわけではない。留まって腐るよりかはいい。


黒田は留まっていることが苦手だった。できないと言ってもいい、留まっていると血管が揺れる感じがした。初めは水のさざめき程度の揺れはそのままにしておくと、やがて風に煽られる枝のように震え、そして地響きのように感じられるようになっていく。それは抑えの効かない衝動だった。


人がいない広い空間で自由に手足を動かすことができるのはとても楽なことだった。普段はその衝動を運動で解消していた。特に、黒田を初め、やすらぎ学園の子どもたちはバスケットボールを好んだ。そして、どれだけ上手にドリブルでボールを運べるか、どれだけ遠くから正確にシュートできるかを競った。それによって学園内のヒエラルキーの上に立つことができた。集団の中では、時に、その他の集団ではそれ程重要とされないことが、非常に価値をもつことがある。閉鎖的な空間であればある程、その価値は増していく。


黒田はバスケットボールを掴んで、ゴールに向けて放った。直線に近い軌跡を描いて、ボールはゴールリングに当たった。フロアに落ちてボールは、音を立てて弾んだ。


今度は、用具倉庫を開けて、バスケットボールがいくつも入っている金属製のかごを運び出した。車輪がついていたのですんなりと運び出せた。そこからまた一つボールを掴み、放り投げた。放たれたボールは音を立てずにリングを通り、また繰り返し床で弾んだ。音が鳴ろうが職員が来ようが、どうでもよかった。残りのボールを掴み壁に次々に投げつけた。特に何かに苛立っていたわけではない。体中に脈々と流れる血の「流れ」に従ったまでだった。そのとき、思考は置いてきぼりになる。


黒田が行動するときは、大抵そうだった。


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