2 神奈川県のはずれにある「東京都やすらぎ学園」
黒田拓真は東京都町田市で産まれた。
母親と父親にとっては、思いがけず産まれた子だった。若くして親になった二人は、命を毎日預かる責任の重圧に耐えられず、幾度となく衝突した。満足に食事が与えられないこともあった。
それでも、産まれてきた生命は強かった。黒田はたくましく育っていった。成長して手もかからなくなっていき、惣菜や冷凍食品の食事は満足に与えられるようになった。
自我が芽生え始め、自分の思いを、自分の意志を外に出すようになると、黒田のそれは両親にとって「わがまま」と捉えられた。「わがまま」を言って受け入れられないとき、黒田拓真は他の子どもとまったく同じように泣き喚いた。そうすると、きまってその晩の食事はぬきになった。それが何度も続いた。泣けば食べられなくなるのをわかっても、「わがまま」を言うのはやめなかったし、泣くことをとめることはできなかった。それは、込み上げる衝動であり、外の世界とのつながりを探る本能だったからだ。黒田は人一倍それが強かった。
とはいえ、腹は減った。そんなときには媚びることはせず、冷蔵庫を漁った。もちろん子どものいたずらがばれるように当然両親に見つかった。見つかって咎められても、夕食以外の食事をぬくことはしなかった。両親にとって、食事をぬくことは「しつけ」であり「教育」であったが、いきすぎることは許されないという一線は保っていた。
冷蔵庫漁りをどうしても止められないとなると、両親は黒田に手をあげるようになった。
ひと昔前の人々の理解で言えば、頭をげんこつで殴る程度はしつけの範疇だったかもしれない。だが、黒田の両親はその範疇を超えて殴ったり蹴ったりした。
それは。黒田の両親も同じように、かなりの暴力をしつけと称して受けてきたからだった。「体罰はいけない」ということを知識として理解していても、実際に親から受けてきた分、暴力の効果を二人は知っていた。二人とも経験の土壌をもっていたため「これくらいならみんなやっているはず」というように、多少常識を外れている程度にしか思わなかった。多くの大人が車の速度を守らないように。
さらに二人とも非常に気が短かったため、衝動に身を任せて暴力が激しくなるまでにさほど時間はかからなかった。家庭で両親の意見が一致したとき、子どもの意志に関係なく、家庭内のルールはあっという間に変わってしまう。
子どものことがすべて嫌になったわけではなかった。だが、決して豊かとは言えなかった黒田の家庭では、常に苛立ちの気配が立ち込めていた。父親は仕事が長続きしないことは多く、家を空けることも多かった。母親は周囲に見知った人間もいない状況で、孤独にアパートで過ごしていた。一人きりで子どもの泣き声に向き合うことは辛いことだった。諍いも増え、深夜に喧嘩の声が響くこともあった。
そんなとき、黒田は布団に潜って声が聞こえないように努めた。自分の「わがまま」を咎められ殴られることは耐えられたが、両親が言い争うことが何よりも辛かった。何をやってもうまくいかない無力感や、周囲への、社会全体の不満、どうすればいいかわからない焦燥感で生活が満たされていた。
とはいえ、黒田にとってはその生活が当たり前であり、楽しいこともあった。
両親にねだってクレーンゲームをやらせてもらったことがあった。父親が上機嫌だったこともあり、虎のキャラクターのマスコットがとれるまで、何度も挑戦することができた。自分の要求が通ることはめずらしかったので、黒田は素直な子どもの表情で喜んだ。クレーンゲームのガラスに両親の顔が映り、二人が顔を並べて笑ったり、景品がとれず悔しがったりしているのを見ると不思議と心が満たされていった。最後に景品がとれたとき、父親が黒田の頭をくしゃくしゃになでて「やったな」と声をかけた。暴力以外のことで体に触れてもらえたことが黒田は嬉しかった。多くの大人と同じように、たくさんの苦労と、ほんの一さじの幸福。それが黒田の人生であり、それを疑うことはなかった。
黒田が小学校に入学してからしばらく経った頃、突然見知らぬ大人が家を訪ねてくるようになった。スーツを着た男と、もったりした小奇麗な服を着たふくよかな女の二人だった。二人は母親と何かを話して、すぐに帰っていくことがほとんどだった。相手は終始穏やかな口調で話していたが、母親の方はいつも少し苛立っていた。母親に呼ばれ玄関先に出ていくと「元気?」「最近何が楽しかった?」などと当たり障りのないことを聞かれた。
二人の大人が帰ると、黒田は一体誰だったのかと尋ねた。「知らない人だから、何か聞かれてもあまり話さなくていいから。あんたは気にしなくていいの」と言われた。
やがて、二人の大人は黒田の体を点検するようになった。頭のこぶや顔、体の痣を見つけるために「これ、どうしたの?」と聞かれた。そうすると母親がきまって「遊んでたときの怪我だよね」とあくまで自然に言った。黒田は黙っていた。子ども心に母親が何か追及されている感じを悟り、庇うつもりで黙っていた。
小学校ではあまり自分から話すこともなく、休み時間も物静かに過ごしていた。「知らない人とはあまり話さない」という母親のいいつけが影響し、余計なことは話さないよう努めた。学校で会うほとんどの人間は、黒田にとって「知らない人」だった。学級文庫や図書室の本が好きだった。字を読むことで集中できる時間が好きだった。そこには黒田だけの時間がゆっくりと流れ、いつもざわついている心が穏やかになった。
字を追うことはできたが、書くことは苦手だった。字の形を同じように書き写すことができなかった。ノートのマスに収めることはもちろん、どう手を動かせばその形になるのかがよく理解できなかった。真似しようとして手本を見て、いざ書こうとノートに視線を移すと、手本の字のイメージはふとどこかに消え去ってしまう。平仮名でさえそうなので、よく担任に個別に指導をされた。周りの子どもたちがすらすらと書きノートを提出していく中、いつも黒田は取り残された。仕方がなく書いたものを提出すると「もっと丁寧に」というスタンプが押されて返ってきた。
そして秋に差し掛かるころ、ついに黒田は児童相談所に引き取られた。
きっかけは、目の上にできた青痣だった。父親がまた急に仕事を辞め、母親と口論になった。半ばヒステリーのように叫ぶ母親の頬を父親は平手打ちをした。体が吹き飛んでテーブルの角に当たり、額が切れた。黒田はそれを見て、どうしたらいいかわからずただ泣き喚いた。泣くのを止めろと父親は黒田の顔を叩いた。それでも、黒田は溢れる感情を止めることはできなかった。父親も衝動を抑えることができず壁を叩いた、大きく穴が開いた。
それを見て、黒田は瞬時に自分や母親も同じようになると感じた。体に穴を開けられるイメージで頭が一杯になった。同時に、なぜ自分の父親がそんなことをするのかという戸惑いが生じた。黒田は母親も父親も好きだった。多くの「普通」の家庭の子どもたちと同じように。
堪え切れない衝動が沸々と腹の辺りから込み上げてきた。頭の中が空っぽになり、血がめぐっているのを感じた。視界は狭くなったが世界はくっきりしたようだった。気が付いたときには、黒田は父親に跳びかかっていた。
急に機敏な動きで掴み掛ってきた息子に対して、父親は初め目を丸くしたが、すぐにしがみつく腕を離そうと手首を掴んだ。黒田の指が体に食い込み、なかなか離れなかった。尋常じゃない様子に父親も本気になり、黒田の顔に肘を当てた。黒田の体は勢いよく吹っ飛んだ。
その後はあまりに暴れたためか、父親も、黒田も、母親も一旦冷静になった。お互い距離をとるように黙ったままその晩は眠りについた。黒田はなかなか眠ることができなかった。心臓が大きく脈打つのが止まらなかった。
次の日の朝、しばらく三人は動き出さなかった。学校から電話が来たので、母親は「遅れて行かせます」とだけ言って電話を切った。しばらくしてから、冷凍食品を温めて、黒田に出した。「これ食べたら、学校行きなさいね」と一言言って母親は体を布団に沈めた。穏やかな母親の声に黒田はほっとした。うつ伏せの体を起こし、言われた通りに朝食を食べ、歯を雑に磨いた後家を出た。玄関に父親の靴があったので家にいるのは確かだったが、姿を見ることはなかった。
遅れて学校に着くと、担任に「一人で来たの」と聞かれたので頷いた。担任は黒田の顔をまじまじと見ていた。そして「その怪我どうしたの」と聞かれた。何のことかわからなかったが、言われるがまま保健室に連れてかれ、鏡を見てみると、目の上が腫れて青くなっていた。目の半分を覆うように腫れていて、どおりで視界が狭かった訳だと納得した。
その後は保健室のベッドでしばらく眠った。目を覚ましたときには担任と、校長と、スーツを着たいつもの児童相談所の二人がいた。何か説明されたが黒田の頭には入ってこなかった。変に優しい言葉遣いだけが耳に残った。甘ったるいだけの駄菓子のように不快だった。
「しばらくお父さんお母さんから離れて少し休もうね。お友達と一緒にご飯を食べたり寝たりしようね」
と言われたが黒田にはよく意味が分からなかった。大喧嘩をした後で父親に会うのもなんだかばつが悪かったので、言われるがままに二人についていった。
そうして、黒田は神奈川県にある「東京都やすらぎ学園」という児童養護施設で暮らすことになった。この名前は間違いではない。「神奈川県」のはずれにある、東京都の身寄りのない子どもが暮らす施設。「東京都やすらぎ学園」が正式な施設の名称だった。