12「もっと簡単で、面白いやり方」
車の中では母は妙に明るかった。車のスピーカーからは夏の流行歌が流れている。
「小さな頃から亜香里はずっとお出かけといったらプレジャーランドだったわね」
「メリーゴーランドがお気に入りで、『車じゃなくてこれに乗って帰る』って言って聞かなくて大変だったんだから。ねえ亜香里、覚えてる?」
覚えてる訳がない。物心つく前の自分なんてもはや他人だ。楽しい空気を作り出そうとしている母がいじらしくて調子を合わせ続けていた亜香里だったが、少しずつそれも辛くなってきた。町が、建物が、人が、窓に流れては消えていく。それを見ていると、亜香里は車に乗って進んでいるはずなのに自分だけが置いてけぼりになっているような気持ちになる。これだけの人が溢れているのに、自分に関心のある人間なんていないのだろう。隣に座っている母親ですら、本当に今ここにいる自分を見ているのだろうか。なぜこんなに孤独な気持ちになるんだろうか。
目的地に辿り着き、二人はアトラクションを周った。空から急降下するフリーフォールや爽快な風が吹くジェットコースターは気持ちの半分を嫌でも高揚させた。それはそれで亜香里は自分が嫌になった。アトラクションンが終わって少しでも笑顔が漏れると「ほらね」とでも言いたそうな母の笑顔に捕まるのがくやしかった。
「あれ、佐竹さん」
と母が呼び止められたのは食べ物を売るワゴンを探している最中のことだった。「あ、安藤さん久しぶり!」と母も一オクターブ上げた声で言った。「安藤さん」とそばにいる三人の家族を見て亜香里はまた少し憂鬱になった。「安藤さん」は亜香里の同じクラスの安藤花音の母親で、家が近かったこともあり亜香里の母と親しかった。
安藤花音とは亜香里も昔遊んだことがあったが、高学年になってからは特に理由もなくお互い別のグループの女子と関わるようになっていった。最近ではこっちを見ながらひそひそと話していたり、トイレで鉢合わせるとわざと距離をとったりと明らかに亜香里を避けている節があった。母親二人は談笑を始めたが、花音と亜香里は互いに目を合わせようとはしなかった。
「花音ちゃん、亜香里は最近どう?あまり学校のこと話してくれなくて」
そんなこと聞かないでよ。と亜香里は唇を噛んだ。
「えーすごいしっかり勉強してますよ」
と花音は答えた。
「あらそうよかった。また学校で亜香里と仲良くしてね」
「はーい。じゃあね、亜香里ちゃん」
白々しい会話だ。お母さんが聞きたかったのは私がちゃんと勉強してるかではなく、何かトラブルを起こしてないかとか問題はないかというそんなところだろう。花音はとの学校で決して私に話しかけないだろう。そう思った。
「別に友達じゃないじゃん」
花音と別れようとしていたその時、聞こえるはずのない声が聞こえた。
「別に仲良くないじゃん」
藤澤だ。花音を指さして亜香里にそう言った。花音は面倒ごとを避けようとしたのか、聞こえていない様子でそそくさと家族と一緒に行ってしまった。
「えっと……ひめかちゃんだったよね?」
亜香里の母に尋ねられて藤澤は頷いた。
「一人で、どうしたの」
「一人じゃない。職員と、他の学園の子と来た」
「あらそう、今日の目的地は一緒だったのね。それなら、職員さんたちのところに戻らなくちゃね。きっといなくなって心配してるよ」
「大丈夫、トイレ行くついでに亜香里を見つけて来ただけだから。ていうか、さっきの子別に亜香里と仲良くしてないし、むしろ何か無視し」
「ちょっと変なこと言わないで!」
亜香里は藤澤の言葉を遮るように声を上げた。
「別に変なことなんて言ってないし。それより、何で遊園地来てるのに楽しくなさそうなの。わけわかんない」
そう言われて亜香里は口をつぐんだ。
「ねえ、一緒に周ろうよ。今職員に言ってくるからさ。亜香里も一緒に来てよ。いいでしょ?」
亜香里の母は藤澤の勢いに圧倒されて「ええ」としか返事ができなかった。藤澤は亜香里の手を引いて行ってしまった。
「ほんとは一人で来た」
とにやにやしながら藤澤が言った。
「どうして、どうやって?」
と亜香里が状況を飲み込めないまま尋ねた。
「公園に行ってくるって適当に言って、後は電車とバスで」
「駅のどこで降りるとか乗り換えとかはどうやって調べたの」
「調べてない、わかんなくなる度に聞いた」
亜香里は唖然としたが、藤澤のたくましさに驚いた。
「さあ行こう、ばれないように帰らなきゃいけないから、そんなに長くはいられない」
「でも、どうしてわざわざこんなところまで来たの?」
そう聞かれて藤澤は繋いだ手をそっと握り返して言った。
「別に。楽しそうだったから。友達と遊園地行ったことなかったし」」
まっすぐな視線で「友達」と言われて亜香里は思わず視線を外してしまった。それでも、悪い気はしなかった。遊園地のアトラクションに色が戻ったように、急に明るく見えた気がした。
その後亜香里の母と合流し、奇妙な三人連れのまま遊園地を周った。初めて乗ったジェットコースターでは藤澤と息を合わせて両手を離して乗った。勢いよく流れる景色は頭の中を空っぽにしてくれて心地良かった。
お化け屋敷は「びっくりするから嫌」という母を残して子ども二人で入った。どっちが先頭に立つかで揉めに揉めて、じゃんけんで負けた藤澤が前になった。仕掛けを楽しむ間もなく、ところどころで叫びながら藤澤は急ぎ足で前に進んだ。気が付くと手を握り合って走っていた。「叫びすぎだよ」「は?そっちこそ後ろから押してたし。怖がりすぎ」と互いを罵りあいながらも『もう一回行こう』と二人は声を揃えた。
ゴーカートでは藤澤が亜香里に執拗に車体をぶつけてきて係員に何度も注意をされた。あまりにしつこかったのでやりかえすと、降りた後に豆腐を崩さない程度の強さで、藤澤が腿を蹴飛ばしてきた。「こないだの仕返し」と藤澤は歯を見せて笑った。亜香里もうさぎにマッサージするくらいの強さで藤澤を小突いた。
昼食時になって母が「ねえ亜香里、お昼の時間だしそろそろ……」と耳打ちしてきたので藤澤とは一旦別れることにした。そのことを告げに行くと、
「じゃあ、最後あれ乗ろう、二人で」
と観覧車を指さした。亜香里は母に、
「観覧車、最後にひめかちゃんと一緒に乗ってきていい」
と聞いた。一瞬苦虫を噛んだような顔をしたが、すぐに表情を戻して
「ええ、楽しんでおいで。お母さんは座れるところで休憩してるから」
と言った。
色とりどりの観覧車まで二人は走っていった。遠くから見るとゆっくり動いていたが、近づいてみるとそれなりの速さで動いていて、藤澤は興味深そうにそれをしばらくじっと見ていた。観覧車に乗ると藤澤が亜香里の隣に座ったため、片側に重さが寄ってぐらぐらと揺れた。それがまたおかしくて二人はけらけらと笑った。
藤澤がまた、例の歌謡曲のような歌を口ずさみ始めた。狭いところにいるせいか、いつもより声が響い て聴こえる。歌の中には「あたし」という言葉が度々出てくる。女性はどうやら帰ることのできない故郷と、もう会うことのできない昔の恋人に想いを馳せているようだ。小学五年生が歌うには抒情的すぎた。ひめかちゃんはどこでこの歌を知ったんだろう、と亜香里は思った。
みるみるうちに地面から離れていき、人や建物がミニチュアのように見えた。気付けば雲のない青空が広がっていた。遮るもののない日差しで中は暑かったが、二人はぴたりとくっついていた。このまま雲の上まで飛んでいきそうだと亜香里は思った。藤澤は目を大きく開け、まばたきをほとんどせずに黙ってじっと外を見ている。その横顔を亜香里が眺めていると、気付いた藤澤が恥ずかしそうに笑った。
「こんな高いところ初めて」
「えー、そうなんだ。飛行機とか乗ったことはないの」
「うん。乗り物なんて電車もバスも何回かしか乗ったことなかった。うちは貧乏だったから」
それなら一人で電車とバスを乗り継ぎプレジャーランドまで来るのには、勇気が必要だっただろうと亜香里は思った。考えてみると、飛行機も、高層マンションも、駅のデパートも、高さのあるもの程お金がかかる。
「実は、遊園地も初めて」
と外を眺めながら藤澤はぼそっと言った。亜香里は数えきれない程両親と来ていたが、そのことは口に出さないでおいた。
「見て、あっち。横浜かなあ」
藤澤は遠くに見えてきた立体的な灰色の一画を指さした。一際高い建物が集まっていて、陽の光できらきらと煌めいて見える。
「そうだね。ランドマークタワーもあるし」
「やっぱりそうだよね。久しぶりに見た。懐かしい。小さい頃はよく眺めてたんだけど」
「ひめかちゃん、横浜にいたの?」
「うん。って言っても街中ではないけど。裏側の汚いとこ。酒臭い母親と」
そう言って藤澤はけらけらと笑った。観覧車は少しの振動でもぐらぐらと揺れる。
「ねえ、母親と言えばそういえばさ。亜香里のお母さんは、亜香里に何であんなに遠慮した感じなの」
亜香里は驚いた。そんな風に藤澤が人を観察しているとは思っていなかったからだ。
「うちのお母さんそんな感じだった?」
「よそよそしい感じだった」
亜香里は考えた。ちょうど観覧車は頂上に差し掛かっていた。すっきりとした青空が広がり、遮るものがない。地球の天辺にきたようで心地よかった。
「気を遣ってるのかもしれない。私ひとりっ子だし。ガラスのコップみたいにちょっと間違ったら割れてしまうとでも思ってるんだよきっと。小さな頃の私がずっと頭の中に残ってて、とんでもなく弱いものだって、勝手に考えているんだ。すぐに心が傷つくから慎重にしなきゃって、だからきっとそう見えるんだよ」
せき止められていたダムの水が解放されたかのように、言葉が溢れ出てきた。そして自分の言葉を聞いて、そんな風に考えていたことに自分でも驚いた。
「そんなんじゃないのに」
「ふーん」と景色を眺めながら藤澤は気のない返事で返した。
「私のこと、結局ちゃんと見てないんだよ。今の私を見ないで、本とかインターネット
の情報ばかり見てる」
「でもさ、よくそこまでわかるね、自分のお母さんのこと」
「え?」
「よく考えてることわかってるなって。直接聞いたの?」
「いや、聞いたわけじゃないけど」
「それならそうじゃないかもしれないじゃん」
「そうだけど……」
きっと、お母さんのことだからそんな風に考えているに違いない。という言葉を亜香里は一度飲み込んだ。
「そうかもね。気を遣ってちゃんと話せてないのは私もなのかもしれない」
思わずため息をつくと、ゆりかごのように観覧車が揺れた。それを聞いて、藤澤は立ち上がって亜香里の顔を覗き込んだ。藤澤の顔は薄黒かったが、大きな飴玉のような目は透き通っていて綺麗だと亜香里は思った。ぎょろりと動いた眼の奥には亜香里の姿が映っていた。そして藤澤はけらけらと笑い出した。
「そんなわけないじゃん」
「え?」
「だから、亜香里は気を遣って話せないなんて奴じゃないじゃん、あたしに対して、あんな風に話しかけてきたのは亜香里だけだし。他の奴らは怖いのか何なのかわからないけど、それこそ亜香里のお母さんみたいだった。あれがきっかけで仲良くなったんじゃん」
そうだったんだ。亜香里は藤澤の心の内が初めて少しわかって嬉しかった。その目は変わらず亜香里を捉えていた。まっすぐな眼差しを見ていると、藤澤の人となりが見えてくるようだった。今まで勘違いしていてごめん、と亜香里は心の中で謝った。
そして、藤澤は座席に戻ってから窓の外をまた眺め始めた。
「うん……そうかもしれないけど、そうかな……なら、やっぱりちゃんと伝えたいこと伝えた方がいいのかな」
「うん、でももっと簡単なやり方があるよ。もっと簡単で、面白いやり方」
そう言って藤澤は足をばたつかせてまたけらけらと笑った。藤澤ひめかという人間がどういう人間か、判断するのはまだ早い。嫌な予感と同時に亜香里はそう感じた。