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10「やめ、ろ」

 東海林と別れてから黒田はリュックの中からヘッドフォンを取り出して、静かに着けた。


 耳に残るざわざわとした雑音が少し小さくなった気がする。いつも耳の奥で鳴っている喧噪の中に常に放り込まれているような不快な音。それから逃げるように耳を塞ぐ。騒がしいのが嫌なので口をつぐむ。いつの間にか自然とそうなっていた。


 しかし、ここ最近は閉ざした口から溢れるように言葉が出てくることがある。黒田はヘッドフォンのプラグの先をくるくると回す。ぐるぐると思いが廻る頭とシンクロする。何か自分の奥の方から、何かが入れ替わっている気がする。


 歩きながら思い浮かんだのは、母親の顔だった。年が経つに連れて、その顔はぼやけて細かいところが思い出せなくなってきた。強い力で乳を吸ったので、離れることになってしまった母親。いつも泣き喚いて迷惑をかけてしまった母親。思い返せば母親と離れて暮らすことになってから不快な音が鳴り響き始めた。だから、また母親と暮らすようになれば音は止むかもしれない。


 東海林に声を掛けられて何となく計画にのった家出にもはっきりとした目的ができる。


 そんなことをぐるぐると考えていると、今度は亜香里のことが思い浮かんだ。亜香里に対しては不思議と自然に言葉が出る。思いが溢れる。雨の日から㈢日くらいは経っただろうか。あれ以来口はきいていない。何か最近周りのクラスメイトの亜香里に対する反応が冷たくなった気がする。亜香里はあまり気にしていないようだが学校で全然笑わなくなった。


 自分の心のこともよくわからないのに、人の心のことなんて黒田はわからない。なので、どうすればいいのかもわからなかった。亜香里に直接聞けばいいかと、そう思った。



 次の日、登校してから黒田は担任に呼び出された。


「黒田、なんか友達からゲーム機集めてたって聞いたけどそうなのか」


 黒田は黙っていた。


「その都合の悪い時に黙る癖はいいかげんどうにかしろ。友達と話すときは普通に喋っているの知っているんだぞ」


 友達と話していた記憶が黒田にはなかったので何のことを言っているかさっぱりわからなかった。亜香里と話していたことだろうかと漠然と考えた。


「栗原のお家の人から聞いている。六年生の学園の仲間と一緒だったんだろ。とにかく学園の職員さんには連絡しておくからな。余計なことをしてトラブルを起こそうとするんじゃない」


 担任は黒田に目を合わせずにそう言った。特に怒りも浮かべず、ただただ面倒だといった様子だった。説教はそれで終わり、いつもに比べると随分とあっさりしていた。栗原というのは「母親に止められた」と言っていた子どものことだ。東海林と言う通り面倒なことになりそうだと黒田は思った。



 休み時間になって黒田は亜香里のいる五年二組の教室へ向かった。途中藤澤とすれ違ったが特に言葉は交わさなかった。藤澤はいつもと比べて顔が強張っていたし、目も合わせなかった。機嫌が悪い時の顔だ。特に話すことがあるわけでもないし、触れないでおこうと黒田は思った。

 

 教室の前で亜香里を待った。今日は雨が降っていなかったがじとっとして蒸し暑い日だった。まとわりついた汗がTシャツを湿らせ、なおのこと不快だった。曇り空の合間に晴れ間が見える。心なしか雲も速く動いて見える。カレンダーは七月に変わり七夕のイラストになっていた。少しずつ梅雨の終わりが見えてきたようだったが、まだ灰色の世界は広がっていた。黒田は蛇口をひねり、流れる水を喉に流し込んだ。顔を上げると廊下にいた他の子どもが何人かこっちを横目で見ていた。黒田の方を見てくすくすと笑っていた。ただ水を飲んだだけなのに何が面白いんだろうと思いながら教室の前で亜香里を待った。笑われたことに対しては何も思わなかった。早く亜香里が来ればいいのにと思った。

 

 五分くらい待ったところで、亜香里が教室に戻ってきた。


「亜香里」


と声を掛けたが、ちらりと黒田の方を向いただけでそのまま教室へ入っていってしまった。


その様子を見ていた周りの子どもたちはにやにやしながら黒田の方を見ている。


「『亜香里』だって」


「振られてるし。笑えるんだけど」


などとからかっている声が聞こえる。そうやって面白がって、亜香里と自分を馬鹿にしているということは黒田にも分かった。


 黒田は声の方へ足早に向かった。にやにやと笑っていた女子二人はスイッチを切り替えたように、一転して強張った顔になった。


「は?何?」


と強気に女子の一人は言った。もう一人は「行こうよ」と仲間の袖を引いて逃げようとしている。黒田はまっすぐに強気な女子の目を見ていった。


「あま、り。馬鹿に、するな」


言葉は途切れ途切れだった。それだけ言って黒田はその場を去った。怒りは沸いていなかった。ただ、亜香里が元気になればいいと、そのことだけを考えていた。



 放課後になって学園に戻り、体育館で一人バスケットボールのシュート練習をした。時間になったので共用の風呂で汗を流し、食堂で夕食を食べた。ルームメイトの新堀もいつもと変わらない様子で読書をしたり専用の部屋でテレビを見たりしていたので、昨日のことは特に口に出さなかった。

 

 二十時が過ぎ、就寝に向けての準備が始まった。窓の外はまだ明るく、風に運ばれて緑の匂いがした。まだ湿気は残っていたが、夏の訪れが身近に感じられるようになってきた。歯磨きを済ませて部屋に戻ったが、新堀の姿はなかった。しばらく図書館から借りた星座の本を読んで時間をつぶしていたが二十一時近くになっても新堀は戻ってこなかった。基本的に模範的な子どもであった新堀が就寝時間間近になっても部屋に戻ってこないということは今までなかった。

 

 黒田は寝間着のまま部屋を出て、B棟四階へと向かった。四階に続く階段に近づいたところで、学園の職員に出くわした。安っぽい色の金髪の職員だった。名札には「安田」と書かれていた。


 「黒田、もう就寝時間だぞ。早く部屋に戻れ」


安田は面倒くさそうに言った。黒田は黙ってそのまま動かなかった。


「おうい、黒田。どうした。最近は聞き分けがいいと思っていたんだけどな。また家出か。もうB棟の玄関扉は施錠されてるぞ。あきらめて寝ろ」


黒田は動かなかった。


「そうかわかった。そんな風に反抗的だと、最後に大変な思いをするのは自分だぞ」


と言って安田は黒田の腕を引っ張って無理やり部屋に連れ戻そうとした。途中応援の筋肉質な職員も加わり、結局黒田は部屋に押し込まれた。


「おとなしく寝ろよ」


と扉の向こうから声が聞こえ、その後どんと何かが扉にもたれかかったような音が聞こえた。おそらく職員が扉に寄りかかったまま座り込んで、妙なことをしないか見張っているんだろう。すぐさま扉を閉められたので新堀の不在には気付かなかったのだろう。

 

 その時、開け放していた窓の方からうめき声のようなものがかすかに聞こえた。黒田にはそれが新堀の声だと分かった。

 

 すぐに窓に向かい、網戸を開けた。網戸の先にも事故防止のための柵がある。黒田はその柵を握って何度か揺らした。すると柵は簡単に外れた。東海林と同室だった時に施した細工だ。柵を部屋の中に置き、壁伝いに這うように付いているパイプに足を載せる。更にそのパイプに手をかけ鉄棒のようにぶら下がると、一階の玄関部分の屋根に着地することができる。そっと飛び降りて黒田は四階の端の部屋、馬宮の部屋に目をやる。以前はこの方法で東海林たちと学園を抜け出したが、四階に侵入するにはいどうすればいいか。

 

 その時、再びうめき声が聞こえた。よく見ると馬宮の部屋のすぐ横、非常階段で影が動いている。黒田は屋根づたいに移動し、飛び降りて地面に着地した。それから非常口につながる螺旋階段へと走った。螺旋階段の入り口の柵をよじ登り、四階へと駆けた。非常階段の踊り場のようなところに二人はいた。新堀は腹を抱えて座り込んでいる。その隣に馬宮が立っていた。暗闇の中で石像のようにどっしりと立っていた。


「黒田か、お前どうやってこんなとこまで来たんだ。お前が知らせてくれたからな、こいつちょっとヤキ入れとこうと思ってな」


そう言って馬宮は新堀の腹を蹴飛ばした。腹しか狙わないのは見える怪我をさせないためだ。


「やめ、ろ」


黒田が言った。


「あ?」


馬宮が目をしかめて言った。


「新堀を、痛めつけるの、やめろ」


一瞬、沈黙が場を包んだ。


「黒田君、いいんだ、大丈夫」


新堀が言った。目には涙が浮かんでいた。


「なんかお前もむかつくんだよな最近」


馬宮が黒田の方に向き直り、肩を掴もうと手を伸ばした。黒田は身を翻してそれを避け、馬宮の腰に掴み掛った。そのまま床に押し倒そうとしたが力が足りない。根をはっているように動かない。馬宮が背中に向けて肘を勢いよく下ろした。強烈な肘打ちをくらって黒田は呻いたが、掴んだ腕は離さなかった。そしてそのまま馬宮の横腹に噛みついた。


「いてえな、くそ」と苦痛の声が漏れる。


「お前調子乗るんじゃねえぞ」


と黒田を勢いよく蹴飛ばした。


 ふわりと浮いた黒田の体は子どもに投げられた玩具の人形のように成すすべなく吹き飛び、そのまま非常階段を転がり落ちた。


「黒田君!」


すぐに新堀が駆け寄った。「やべ、やりすぎた」と馬宮が呟いたのが聞こえた。

黒田といえば頭を階段にぶつけてから、脳が揺れる感覚を味わっていた。暗闇も、湿った空気も、わずかに風に揺れる葉も、非常灯の緑も、空を覆う雲も、固いコンクリートの感触も全てが気持ち悪かった。新堀が現れたのがわかったが、まるで遠い世界の出来事を見ているように眺めることしかできなかった。振り返ってみれば、今までの暮らしもいろいろなことがあったけど、眺めてるうちにあれこれ変わっていったなと黒田は思った。電車の外の風景みたいに代わる代わる。電車を降りて、少し落ち着いて歩いてみたいなと、そう思った。


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