1「家に帰るために、家出するんでしょ」
コンビニエンスストアの青白い灯りに、虫が引き寄せられている。
店の隅の暗がりには、ビニール袋が捨てられている。割箸と、発泡スチロールの容器と、食べ残しの汁がはみ出している。暗がりの中に影が動いていた。一人の少年だった。
少年の癖か、体を小刻みに震わせている。貧乏ゆすりのような謙虚なのではない。体の中からこぼれそうな何かを抑えるように、不規則に揺れている。見る者に不安を与える、不安定な動きだ。
耳にはヘッドフォン。今はもう存在しないメーカーのヘッドフォンをしている。その先は、スマートフォンにも、音楽プレーヤーにも繋がっていない。宙ぶらりのイヤホンジャックが暗闇の中に煌めく。
自動ドアが開き、店の中から足早にもう一人、背の高い少年が現れた。背格好の割には細く、猫背のせいか縮こまって見える。灯りに照らされた目は鋭く光っている。
「おい、行くぞ黒田」
と背の高い少年はヘッドフォンの少年に声をかけた。黒田と呼ばれたヘッドフォンの少年は、暗がりの中からぬらりと姿を現した。二人は少しずつ、コンビニエンスストアの灯りから離れ、夜の中へと進んでいった。
何分か歩いたところで、二人は公園のベンチに腰を下ろした。足元には薄汚れた桜の花びらが、アスファルトに張り付いて外灯に照らされている。歩くのを止めたことで、黒田の体は再び不安定な揺れを始めた。
背の高い少年がジャンパーの両方のポケットに手をつっこみ、ひっくり返すと、チョコレートバーや缶詰などがいくつか飛び出てきた。
「こんなものだけだけど、この先のこと考えると、腐らないものがいいだろ。それにこういうのが置いてあるところの方が人目につきにくかった」
やがて、公園にもう一人、少女が現れた。少女は二人の前に立ち、
「大丈夫。ばれてなかった」
と言った。
「ありがとう藤澤」
背の高い少年は、礼を言って持っていたチョコレートバーを差し出した。藤澤はそれを受け取り、ビニールを開けた。
「お前も食べろよ」
そう言われて黒田もチョコレートバーを受け取った。朝食をとってから今まで何も食べていなかったので、空腹だった。固いチョコレートバーを齧ると奥歯の虫歯が傷んだ。
外灯は夜の公園の一部だけを照らしている。蝿や蛾や、名もわからないような虫が灯りに吸い寄せられている。静かな中でそこだけが賑やかだと、黒田は思った。
ふと足元に目をやると、六本足のまた別の生き物が地面を這っていた。一生懸命に足を動かしていても、ゆっくりとしか進んでいない。それどころか、右に左に進路がぶれて一向に前に進まない。ついには、黒田の薄汚れたスニーカーにぶつかって転がり、仰向けになって動かなくなった。黒田はつま先でそれを小突いて、元に戻してやった。
遠くに車の音が聞こえる他は、音のない夜だった。いつも騒がしい場所にいた三人は、沈黙を味わいながら、黙ってチョコレートバーを齧り続けた。藤澤がまず食べ終わり、残った袋をためらいなく地面に捨てた。
「東海林、今日どこに寝るの」
東海林と呼ばれた背の高い少年は、
「公園のベンチ」
と答えた。藤澤は癇癪を起したように甲高い声で叫び出し、髪の毛を掻き毟った。元から絡まっていた髪の毛がさらにぐしゃぐしゃになった。「静かにしろよ」と東海林が不機嫌そうに言った。
「明日は、明後日はどうするの」
「その頃には東京に着いているだろ。その前には横浜にだって寄れる。電車賃はあるんだから。明日には相模大野の駅に着く。そうすれば、後はそれぞれの家に帰ればいい。俺たちの目的は」
「『家に帰るために家出すること』でしょ」
東海林の言葉を遮るようにして藤澤が言った。「ああ」と東海林は一言言って、食べ終わった後のごみを投げ捨てた。風に吹かれて、それと藤澤が捨てた袋の両方が黒田の足元近くへと届けられた。黒田はそれらを黙って拾い、自分の食べ終わったのと一緒にポケットにしまった。東海林は大きくのびをしてからベンチに体を横たえた。
「それにしても、久しぶりに盗ったわりにはうまくいったな。藤澤も見張りお疲れ。店を出
るときにも何もなかっただろうな」
「大丈夫。だれも気付いていなかったから、これももらってきた」
藤澤はポケットから何かを取り出した。アイマスクだった。
「公園もほら、灯りが結構あるでしょ。暗いこところじゃないと眠れなくて」
「ばか、お前それカメラに映る場所にあっただろ、なんで俺がわざわざ見張り立ててカメラ
の死角でやったと思ってるんだよ」
東海林はベンチから跳び起きた。
「もう少し人目のつかないところに行こう」
動き出したところで、公園の側に静かに近づいてくるパトカーが見えた。三人は急ぎ公園から駆け出した。深夜にも関わらずメガホンのようなものを使って呼び止められたが、気にも留めなかった。
黒田は二人よりも走るのが遅かった。一歩、二歩とだんだん離れていく。すぐに呼吸が乱れ、動悸が激しくなってきた。息をしようとすると却って苦しいが、息をしないと走れなかった。ヘッドフォンのコードが絡まりそうになったのでポケットに押し込めた。振り返ると、パトカーが止まり、中から二人の警官が出てくるのが見えた。走って追いかけてくる。一旦立ち止まって息を整えた。手を膝につけて背中を曲げると少し楽になった。すると、すぐに東海林が戻ってきて「早く来いよ」と背中を押した。仕方なく黒田は走り出した。
公園を出て、住宅地の中を三人は走った。たくさんの人が、たくさんの家族がいるはずの町は誰もいないように静かだった。自分たちの荒い息の音だけが耳に響いていた。
少し行ったところで、藤澤の、続いて黒田と東海林の足が止まった。成長期を迎えたての体にはこれが限界だった。やがて、さっきのとは別のパトカーが止まり、三人は目を合わせて静かに座り込んだ。
「こんな時間にどうしたの。お父さんお母さんは」
パトカーから降りてきた眼鏡をかけた警官が尋ねてきた。もう一人の警官は無線機でどこかに連絡をしている。三人は少しの間黙っていたが、やがて順に口を開いた。
「きっと寝てる。車の中で」
「わたしの親は遊んでんじゃないかなあ。友達連れ込んで酒飲んでるんじゃない」
黒田はずれたヘッドフォンを直して、黙っていた。
警官は納得したような、「ああそういうのなら仕方ないか」とでも言ってるような顔をして、とりあえずと言ってパトカーの中に入るよう促した。
黒田は大人のこの顔を見るのが嫌だった。自分を見るとき、大人は決まって同じような顔をする。小学校の教室で、偏見をなくそうと担任は言っていた。大人は、自分に対しては、他の子どもに向ける顔とは違う顔をする。不快な感情を抑えようと、左の二の腕のをぎゅっとつねった。
東海林はじっと警官の目を見ながら、たまに辺りを確認するように目を動かしている。藤澤はつまらなさそうな顔をしていたが、急に警官の脛を軽く蹴り始めた。
「何をしてる。やめなさい」
と警官はため息をつきながら言った。藤澤はやめなかった。「ほんとやだ。ああやだ」とつぶやきながら蹴り続けた。
無線機で連絡をしていたもう一人の警官も、その様子を見かねて藤澤を抑えにかかった。藤澤は二人の大人に掴みかかれ、狂ったような叫び声をあげた。輪をかけて暴れ始めたので、警官二人も力を込めて体を抑え始めた。東海林が騒ぎに乗じて、眼鏡をかけた警官の腰にある帯革に手を伸ばしたが、躱され、手首を捕まれた。
「こいつ!」
と警官は東海林の体をアスファルトに押し付けて制圧した。顎を打ち付けて東海林はうめき声をあげた。黒田は、右腕をつねったまま、今度は反対の手で左腕も強くつねった。血の流れがいつもより早く、脈打つ音が大きくなるのを感じた。体のどこか知らないところから熱さがこみあげてきた。藤澤は無線機をもっていた警官によってパトカーに押し込められた。
連絡を受け集まったのか、二台のパトカーが来て、中から応援の警官が出てきた。東海林は三人に取り囲まれ、黒田も同様に二人に体を捕まれた。
「どうしようもないやつらだな」
警官の言葉を聞いたとき、体の熱さは震えになり、震えは疼きになり、気付いた時には、黒田は警官の顔を拳でふっとばしていた。そして、もう一人の警官に掴みかかり、爪を、歯を、体に刺しこんだ。さすがの警官も痛みに叫び声をあげた。
頭の中が吹き飛んだような衝動に、黒田は何も考えることができなかった。警官に体を振り回されても、離さなかった。
警棒で殴られた痛みでようやく体の暴走は終わった。残ったのは骨の芯に響くような痛みだけだった。騒ぎが収まり、東海林が、
「子どもの夜更かしくらい、大目に見てくれよ」
と捨て台詞を吐いた。その瞬間、東海林を抑えていた警官の手に必要以上の力が入るのを黒田は見逃さなかった。
いつもそうだ。子どもは、自分たちは、大人には敵わない。特に、自分たちのような、施設の子どもは、偏見で見られ、危険と言われ、力で抑えられ、仕組みで縛られる。大人のつくった社会で、大人のルールに則って生きている限りはずっとそれは続く。
声を聴かせるには、ルールを破らなければならない。