第6話「証明せよ”解き放つ者”の力を」
その時、冒険者ギルドの空気が変わった。
重い扉が静かに開き、青いポニーテールがふわりと揺れる。軽やかな足取りに見合わぬ金属鎧のわずかな軋み。そしてその中心に立つのは“氷の戦女神”エリザ・ヴァレンタイン。
冷ややかな美貌と鋼のごとき沈黙。彼女の登場にギルドの空気は一瞬で凍りついた。
エリザはまっすぐ受付へと歩を進めた。周囲の視線が自然と彼女に集まる中、受付嬢は息をのむように立ち上がる。
「ひとつ、確認したいことがあるの」
その声音は静かでありながら、どこか人を射抜くような鋭さがあった。
「……この街で流れている、“解き放つ者”という存在について。何か、確かな情報は?」
受付嬢はわずかにたじろぎながらも「あ、あの件ですね……申し訳ありません。ただの噂というか……都市伝説のようなものでして」と首を横に振った。
その瞬間、受付カウンターの前に広がる空間が静まり返る。
ギルド内の冒険者たちは誰もが言葉を発することなく、エリザと受付嬢のやりとりに耳を傾けていた。緊張が空気を支配し、あたかもその噂が現実の輪郭を持ち始めたかのようだった。
そのやりとりを小耳に挟んだ先輩冒険者が、空気を和ませようと苦笑しながら口を挟んだ。
「おいおい、A級冒険者ともあろう人が、そんな眉唾モンの噂を信じてんのかよ」
場に一瞬、笑いが混ざるかと思われた——が。
エリザは返答もせず、ゆっくりと顔を向ける。
その双眸が先輩冒険者の目を射抜いた瞬間、空気が一変した。
氷のように冷たい無言の圧。
ただそれだけで、茶々を入れた男の喉が音を失った。
視線の刃に刺された彼は、まるで心臓を直に掴まれたように一歩後ずさり、引きつった笑顔を貼りつけた。
「……っ、は、はは、冗談だよ。な?なぁ……」
先輩冒険者が顔を引きつらせながら笑って取り繕う中、漣は無言のまま椅子から身を起こし、静かに彼女に視線を向けた。騒がしい空気のなかでも、その視線は一切の動揺を含んでいない。
まるで戦場での標的を絞り込むかのように、彼女の情報が視界に流れ込んでくるのを淡々と受け止めた。
まず目に飛び込んできたのは、彼女のレベル。──レベル45。
数字だけで、その強さが規格外であることを物語っていた。
続いて、彼女が保有するスキルが浮かび上がる。 《多元思考》(努力値48)(《《氷刃乱舞》》(努力値54)。
漣が気になったのは《多元思考》。それは、漣が使う《努力模倣》とまるで対を成すかのような名だった。
恐らく彼女の力は“並列に複数の戦況や思考を処理し、最適解を導き続ける”ような、もう一段階上の思考戦闘スキル。
(この人は……世界をどう見てる? 俺にはまだ見えない領域を見通している……)
エリザは、漣の視線にも気づいた様子を見せることなく小さく息を吐いた。
「……収穫なし、か」
独り言のように呟いたエリザは、踵を返してギルドを後にする。その背中はどこまでも静かで、冷たく、誰も近づけない氷壁のようだった。
漣はしばらく黙ってその背中を見つめていた。だが、心の奥で何かが衝動のように突き動かされれ、足早にその後を追った漣は意を決して声を上げた。
「待ってください!……“解き放つ者”の噂、俺…知ってます」
* * *
漣はエリザを連れて迷うことなく教会の門を叩いた。対応に出たシスターにエリシアを呼んでもらうと、すぐにあたたかな笑顔を浮かべて彼女が現れた。
「漣様、どうされましたか……って、え? エリー!?」
エリシアの反応からエリザとは旧知の仲であることはすぐにわかった。エリシアは目を丸くしながらも、すぐに表情を綻ばせて駆け寄る。
「まぁ、エリー!お久しぶりですわ。この街にいらっしゃってたなんて……!もう、せめて一言くらいご挨拶に来てくださればよかったのに」
エリザはわずかに視線を逸らしながらも「……相変わらず、おしゃべりね」と口元をわずかに緩めた。
そんな中エリシアの傍らから、ひょこりとミミが顔を出す。
その瞬間、エリザの鋭く整った表情が一変し、まるで獲物を見つけた猛獣のような勢いで目を見開いた。
「な、なにこの子……っ、なにこの何個分ものかわいさ詰め合わせ生き物!?」
エリザは信じられないほど歪んだ笑みを浮かべながら、ほとんど跳ねるようにミミに飛びついた。
全身でミミを抱きしめ、頬をすりすり、すりすり、すりすり——もはや攻撃とすら言えるほどの勢いで愛情をぶつける。
しかし、その無邪気な抱擁のせいでエリザの金属鎧がミミの細い身体に圧し掛かり、明らかに苦しそうにしていた。
「おい、ミミが……苦しそうにしてるぞ! やめてやってくれって!」
思わず漣が制止の声を上げるも、エリザはまるで耳に入っていないかのようにミミの耳元でうっとりと囁く。
「へぇ、ミミちゃんって言うんだぁ……ふふ……この耳、やば、すっごく柔らか……」
そのまま小動物を可愛がるように、ミミの耳を口に含みそうな勢いで“はむはむ”し始める始末。
「エリザは昔から、可愛いものを見ると見境がつかなくなってしまうんです……」
エリシアは困ったように微笑みながら説明した。
「私も昔から何度も注意してるんですが……年をとってもこの癖だけは治らないみたいで……」
そう言いながら、エリシアはエリザの耳元に何かを小声で囁く。
すると次の瞬間、エリザはビクッと身体を震わせた。 まるで我に返ったかのようにミミから離れ、血の気の引いた顔で深々と頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……ミミちゃん、今の全部忘れて……本当にごめんなさい……っ!」
その姿を見た漣は、思わず目を見張る。
ギルドで見たときのあの鋼鉄のような冷静さと、今ここでミミを溺愛して暴走する姿があまりにもかけ離れていて、理解が追いつかなかった。
頬をすり寄せ、耳をはむはむと甘噛みしていた様子に、漣は少し引いたような視線を向けてしまう。 それでもどこか憎めない姿にため息を漏らしつつ、苦笑を浮かべるしかなかった。
そんなことがありつつ、ここに来た事情を簡単に説明すると、エリシアはすぐに頷き教会の奥の静かな一室を用意してくれた。
「こちらをお使いくださいませ。」
こうして、静けさに包まれた聖堂の一室で、漣とミミとエリザ、そして彼の活動を以前から知っていたエリシアの4人は、本格的な対話の場を得ることとなった。エリシアはただ部屋を貸しただけではなく、漣の過去の行動を誰よりも理解している存在として、その場に同席することを自然に受け入れていた。
* * *
エリザはいつの間にかミミを膝に抱え込んでいた。うっとりとした表情でミミの頭に顔を寄せ、その小さな頭を撫でながらまるで香水を確かめるかのように頭皮の匂いをふんわりと嗅いでいる。
ミミはというと、完全に諦めたような顔でうんざりとした目つきのままじっと耐えていた。頬を引きつらせ、何度か助けを求めるように漣に視線を送るが全く効果はなかった。
——しかし、次の瞬間、その甘やかな雰囲気を一瞬で吹き飛ばすように低く冷たい声が部屋に落ちた。
「……“解き放つ者”の噂を知っているのは本当なのか?」
滑稽とも言える姿のまま、しかしその眼差しだけは鋭く確かに本気だった。
その視線を正面から受け止めた漣は一呼吸置き答えようとした——だが、その刹那。
「噂も何も、漣様がその張本人、“解き放つ者”なのですわ!」
隣にいたエリシアが勢いよく身を乗り出し、まるで我慢しきれなかったかのように声を張り上げた。
言葉を飲み込んだ漣は、少しだけ目を伏せた。
(……俺が言おうと思ってたんだけどな)
久しぶりのエリザとの再会にテンションが高まっているのか、エリシアは一気に勢いづき止まらなくなったかのようにまくし立てた。
「漣様は異世界から女神様が転生させた、いわば女神様の意志そのものなのです! 神の導きによって現れた救世主ですのよ! そのスキルの力で、契約紋などすべて無効化してしまえるんです!」
「この前なんて、街で困っている方を見つけて、漣様はその人に手をそっとかざしただけで、契約紋をスッと解除なさったんですのよ!しかも、誰にも気づかれずに、ですよ!?手際のよさ、気配のなさ……まるで幻のようにですわ!すごいと思いませんか!?」
「ですから、エリー! この漣様こそが“解き放つ者”なのですわ! ねぇ、信じてくださいますわよね?これほどのことをなさるお方が他にいるとは思えませんでしょう?」
エリザは眉をわずかにひそめたが、否定はしなかった。
その視線の先、漣はというと口を開く機会をすっかり失いやや気まずそうに視線を落としていた。 そんな漣の様子に気づいたのかエリザはほんのわずかに眉根を寄せ、ミミの頭皮の香りを嗅ぎ表情を緩める。彼女の鋭い観察眼はこんなことをしつつも漣の心の動きを見逃すことはなかった。
「いや、そこまで言われたら信じないわけにもいかないが……ただ、目の前の少年が本当に契約印を解除できるのか真実味がない。」
エリシアはその言葉を聞いて一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を赤らめ勢いのまま立ち上がるようにして声を上げた。
「では証拠を見せて差し上げます!漣様、よろしくお願いします!」
(いや、よろしくお願いしますって言われてもな……)
と漣は内心で嘆きつつも、ここで否定するのも大人げないと腹をくくった。思い描いていた伝え方とは大きく異なったがそれでも信じてもらえるなら——と気持ちを切り替え、今夜の契約紋解除の活動にエリザを同行してもらうことにした。
夜の静けさが街を包み込む中、漣とエリザはフード付きの外套をまとい互いに言葉を交わすことなく歩いていた。
月明かりだけが彼らの足元をぼんやりと照らす。エリザは時折ちらちらと背後を気にするように振り返っていたが、それはミミへの未練の現れだった。彼女は明らかにあの小さな獣人と離れることを名残惜しんでいる様子だった。
一方のミミはというと、別れ際にただ一言も発さず明らかに「早く自由になりたい」という感情をその顔に全面的に表していた。彼女の表情は諦めと疲労が混ざったようなもので、エリザの過剰な愛情に耐えてきた疲弊が滲んでいた。
やがて漣とエリザは人通りのない裏通りへと差し掛かる。そのとき、漣がふと立ち止まり視線を路地の奥に向けた。
そこにいたのは擦り切れた服を身にまとい、うつむき加減に歩く少女。足元はよろめき、腕にははっきりと契約紋が浮かんでいた——間違いなく奴隷だった。
裏の市場や夜間取引が行われる日、特に月の半ばから終わりにかけての数日は闇取引のための“品”が街を移動することも少なくない。夜の闇に紛れての移送なら通報や目撃のリスクも減る。 おそらくあの奴隷商人もそういった目的で今まさに動いているのだろう。 表通りでは見かけない顔ぶれが、こうした裏道で目撃される理由もそこにある。
「……あれは間違いなく、奴隷の移送中だな」
漣は囁くような声で呟きながら、視線をそっと先に送った。
暗がりの中、奴隷と思しき少女の周囲には油断なく周囲を警戒する視線があった。漣の目にはそれが明らかに『取引中』の空気を纏っているように映った。
「この時間に外に出ているってことは、闇取引か……あるいは、次の買い手に渡す直前かもしれない」
すると隣のエリザがこれまでとは打って変わったような鋭く低い声で言葉を投げかけた。
「問題は、近くにいる主。……見覚えはある?」
その声音は静かでありながらも、冷気を含んでおりただの観察ではなく確実に“戦闘の準備”が始まっていることを感じさせる緊張感を帯びていた。
漣の視線の先、少女のすぐ隣に立つのは見覚えのない男。暗がりの中でもただならぬ雰囲気を漂わせたその男は、粗末な外套の奥に商人らしからぬ鋭さを潜ませていた。
エリザが少しだけ身を乗り出し、視線を鋭く細めながら言った。
「君が本当に“解き放つ者”だというのなら——あの子の契約紋を解除して証明してみせろ。 ……大丈夫。万が一の時は私が全力でバックアップする。」
漣は一瞬躊躇した。
あの少女の腕に刻まれた紋章、そしてその隣に立つ奴隷商人の鋭い眼差し。視線を交わすだけでも危険を感じさせる相手だ。エリザの「バックアップする」という言葉に嘘はないと信じてはいるが、それでも万が一のリスクが頭をよぎる。
拳を軽く握りしめ漣は呼吸を整えた。そして静かに、けれどはっきりとした声で答えた。
「行きます」
漣は歩きだし少女とのすれ違いざま、目立たぬように手をかざしスキル《契約紋章管理》を発動する。
——パァァッ……!
契約紋が静かにしかし確かに砕け散った。
少女の腕に浮かんでいた魔力の紋が砂粒のようにきらめきながら消滅していく。
次の瞬間、少女は自分の身に起きた異変に気づき、目を見開いた。
「えっ……!」
驚きと安堵、そして信じられないという感情が入り混じったような声を上げる。その声は、夜の静寂を破り通りに響いた。
その反応を聞き逃すはずもなくすぐ近くにいた奴隷商人の目が細くなり、少女の方へと鋭い視線を向けた。
「……何だ今の声は?なんだと、契約紋が……消えている……?」
奴隷商人の顔が強張り、目を見開いたまま少女の腕を凝視した。
異変に気づいた彼は咄嗟に辺りを見回し通りすがりの人影を探る。そして、すれ違ったばかりの漣の背に鋭く視線を突き刺した。
その目は疑念を超え、確信に満ちていた。
「通りすがりを装って何を行いやがった?……まさか貴様……お前が噂の“解き放つ者”か!?」
一歩、また一歩と歩き続ける漣の間を詰めるように近づいてくる。
奴隷商人の手が漣の方に届いた瞬間、静かな冷気を含んだ声が聞こえてくる。
「……遅いわ」
その声は低く、氷の刃のように研ぎ澄まされていた。
エリザのスキル《多元思考》が瞬時に発動。複数の視点から状況を俯瞰し、奴隷商人の視線、足の向き、腕の角度、そして踏み出す重心——すべての動作予測を瞬時に解析する。
次の瞬間にはもう、彼女の身体は空気を裂くように動いていた。
「——動くな」
漣に詰め寄ろうとしていた奴隷商人の喉元すれすれに、冷たく光る剣の刃が突きつけられていた。その動きはまるで瞬間移動のようで、剣の存在に気づいた奴隷商人は思わず動きを止め、額に一筋の汗を浮かべた。
奴隷商人の額から滴った汗が、凍りついた空気に晒されて白く曇り、やがて薄い氷の結晶へと変わっていった。
足元から立ち昇る霜気とともにその全身はゆっくりと硬直し、まるで命を閉じ込められたかのように氷の彫刻と化す。目を見開いたまま恐怖を刻んだその顔が凍りつくまでにわずか数秒。
「殺しはしない、動きを止めるだけ。朝日を浴びれば自然と溶けて戻るわ」
エリザはそう淡々と呟くと、すぐさま契約紋の解消された少女のもとへと向かった。
その歩みは先ほどまでの鋭さとは打って変わって、まるで別人のように柔らかい。
「大丈夫でちたか〜?いたいいたいなこと、されてない?お姉さん心配しちゃったよ〜〜」
そう言いながら少女ににじり寄るエリザは、まるで小動物を愛でるような顔で頬をぷにぷにと両手で包み込み指先でなぞるように撫で回す。少女が目を泳がせて戸惑っていることなどお構いなしにエリザの顔は恍惚とした笑みに染まり、そのまま小さな耳に顔を寄せ——甘えるように“はむはむ”と噛み始めた。
「このもちもち感……ふわふわな質感……尊い……」
その姿はまさに“理性が吹き飛んだ大人”であり、先ほどまでの鋭く凛とした剣士の姿はもはやどこにもなかった。再び、彼女の“悪いクセ”が全開で炸裂していた。
そんなほのぼのとした空間に、まるで刃を突き立てられたかのような異様な空気が一気に流れ込んだ。
「おやおや、その子は私が身請けするはずだったのですが……これは一体、どういったことですかな?」
男の声は静かで柔らかい。けれどその響きにはぞくりとするような冷ややかさがあった。
驚くべきことに、その男はエリザの《多元思考》にも、漣の《並列思考》の警戒網にも一切引っかからなかった。 足音も、気配も、まるで影のように忍び寄り2人の背後に立っていたのだ。
一見して上等な礼服をまとい、所作ひとつ乱れない。だが、その奥に隠された“本物”の気配を、漣もエリザも即座に察知した。
「なるほど……契約紋が解除されている。ふむ……となれば、お二人のうちどちらかが“我々”の商売の邪魔をしている“解き放つ者”ということになりますな?」
男はにこやかに笑いながらも、その視線はまるで蛇のように獲物を見定めている。
場の空気が一気に張り詰めた。
エリザは表情を引き締めながら、漣に向かって小声で囁く。
「こいつは……本当にヤバい。さっきの奴隷商人とはレベルが違う」
そして、男は肩をすくめて微笑んだまま、冷たく告げる。
「ではまあ……ここで出会ってしまったのが運の尽きということで——お二人とも、今この場で殺して差し上げましょう」
言葉が終わるよりも早く、男の指先からほの暗い魔力の残滓が漏れ出す。
その場にいた誰もが、次の瞬間が“ただ事では終わらない”と直感した。
名前:霧島 漣
種族:人間
職業:模倣者
レベル:4
HP:58/58
MP:28/28
■ 保有スキル
《努力模倣》
└ 触れた対象の“努力”に応じてスキルをコピー(最大6つ)
└ 模倣したスキルを固定化(模倣枠を使用せず永続的に使用できるようになるが、努力値の更新が不可能になる)
└他者のレベルを感知することができる。
【模倣済みスキル】
・《ウィンドカッター》(努力値:23)
・《交渉術》(努力値:51)
・《価格看破》(努力値:49)
・《並列思考》(努力値:5)
・《契約紋章管理》(努力値:28)