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第4話「誰も助けてくれない世界で」

朝の陽射しが石畳を照らし、レグランツの街は今日も活気に満ちていた。

行き交う人々の明るい声、鼻孔をくすぐる香辛料の香り。

市場の喧騒に包まれながら、漣はひとり、石畳を踏みしめて歩いていた。


(今ごろ、どうしているだろう……)


思い浮かぶのは、昨日見かけた獣人の少女。

檻の中、鎖に繋がれながらも鋭く強い瞳でこちらを見据えていた。


(せめて……せめて良い人の元に買われていれば……)


そう願わずにはいられなかった。

だが、それを祈るしかできない無力な自分に漣は唇を噛んだ。


心を落ち着けるように、今日はこの街の主要な施設を確認しておこうと気持ちを切り替える。


歩くうち石造りの建物が並ぶ静かな一角に、ひときわ重厚な扉を構えた施設を見つけた。


「ここは図書館か……この世界の歴史や文字の勉強もできそうだな」


扉を押し開けて足を踏み入れると、ひんやりとした空気と紙とインクの香りが鼻腔をくすぐった。

壁一面に本が並ぶ書棚。その背表紙を眺めると、不思議なことにそこに書かれた文字の意味が自然と頭に入ってきた。


(……やっぱり、読める)


なんとなく感じていた“違和感”が、確信へと変わる。

女神から授かったスキルの影響だろうか。だが、それにしても——


漣は机に置かれた紙と羽ペンを手に取った。


(……書けない)


異世界の文字を書こうとしても手が止まる。形が浮かばない。

頭の中では意味が理解できていても、それを指先で再現する術を持っていなかった。


(読むことはできる。けれど書けない……これじゃ、メモだって残せない)


自分の意思を言葉として“遺す”ことができない。

この世界で生きていくために、それは決定的な障壁になるだろう。


(まずは……この壁を乗り越えなきゃ)


当面の課題がはっきりと見えた。そうして漣は図書館を後にした。


次に彼の目に飛び込んできたのは、この街の中心に堂々と建つ高い尖塔を持つ白い建物。

そっと中を覗くと、神聖な静けさに包まれた礼拝堂の奥に、女神の彫像が祀られていた。


(本当に……ファンタジーの世界みたいだ)


その荘厳な雰囲気に息を飲んでいると、背後から優しい声が響いた。


「どうかされましたか?」


振り返ると、そこに立っていたのは一人のシスターだった。

淡い青色の長髪、柔らかく微笑むおっとりとした瞳、そして包み込むような優しさを纏った気配。

まるで聖母のような存在感だった。


「えっと……この街に来たばかりで、いろいろな施設を巡っているんです」


漣が少し緊張気味に答えると、彼女はふわりと笑った。


「あら、そうでしたの。ようこそレグランツへ。よろしければ、聖ルミエル教会の中をご案内しましょうか?」


その穏やかな口調に、漣は思わず頷いていた。


教会の内部は、色とりどりのステンドグラスから差し込む光が幻想的な模様を床に描いており、厳かな空気に満ちていた。

礼拝堂の奥では参拝者たちが祈りを捧げ、その姿がどこか神秘的に見える。


「ここは五百年以上の歴史を持つ教会でして、女神様の加護のおかげか大きな損傷も一度もないのですよ」


案内してくれたシスターは、通路を歩きながら丁寧に説明してくれる。


「ここでは、女神様の教えを守り、孤独な思いをされている方々に手を差し伸べているんです。私自身も、かつてこの教会の孤児院で育ちました。家族は早くに亡くし、この場所で多くの方々に支えられ、祈りとともに育てられました」


エリシアはそっと微笑むと、ふと遠くを見つめるように目を細めた。


「だからこそ、今の私がいるんです。ここで救われた命を今度は私が救う番だと、そう思って巫女として歩んでおります」


その声には、聖職者としての誇りと温かみが宿っていた。


「申し遅れました。私はシスター兼巫女として従事しております、エリシア・ローレンスと申します。何かお困りごとがあれば、遠慮なくお申し付けくださいね」


その名乗りに、漣は安心したように深く息を吐いた。


「ありがとうエリシア。俺は霧島漣。昨日この街に来ました」


するとエリシアは目を見開き、ぱっと表情を明るくした。


「……あなたが漣様でしたのね!実は昨日、女神様から“異世界から来た漣様をサポートするように”と信託が下りたのです。これはもう、教会として全力でお支えせねばなりませんわ!」


胸に手を当てながら、エリシアは使命感に満ちた声で続けた。


「食事でも学びの場でも、お手伝いできることは何でもいたします!どうかご遠慮なくお申しつけください!」


その姿に、漣は思わず苦笑する。

これまでこんなふうに歓迎されたことなどなかった。


「……実は俺、この世界の文字が“読める”んです。でも、書けないんです。図書館で試しても、全然手が動かなくて」


少しばかり気恥ずかしそうに打ち明けたその言葉に、エリシアは力強く頷いた。


「まあ、それは大変でしたわね。でも大丈夫です!女神様の教えに“学びは力の礎”とありますもの。明日からでも、私が文字の書き方を丁寧にお教えいたしますわ」


「本当ですか?……ありがとうございます」


「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですわ。では、明日の朝から始めましょう。今日はちょっと来客があるもので」


エリシアの柔らかな微笑みに、漣は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


「分かった。じゃあ、明日の朝またここで!」


晴れやかな気持ちで教会を後にし、街の散策を続ける。


商業地区を抜け、ふと思い立って少し足を伸ばしてみると、街の一角に広がる住宅街へと足を踏み入れていた。


活気ある市場や広場とは打って変わって、そこは薄曇りの陽光のせいか、どこか影の落ちたような静けさが漂っていた。

人通りはまばらで、閉ざされた窓と無言の石造りの建物が並ぶその光景には、少しばかりの寂寥感すら漂っている。


(静かだな……こっちは住居区ってことか)


そんなことを考えながら歩いていた漣の視界に、ふと端の方で動く影が映り込んだ。


(あれは……昨日見た奴隷商人!?)


フードを深くかぶってはいたが、歩き方や体格——

それらが昨日、市門前で見た男と完全に一致していた。

そして、隣にいるのは——あの獣人の少女だった。


奴隷商人は、街の目を気にするように背をすぼめ、フードを深くかぶっていた。

その表情は確認できなかったが、足取りはせわしなく、それでいてできるだけ注目を集めぬよう気配を消すように歩いている。


彼の脇を歩く獣人の少女は、両手で大きな麻袋を抱えていた。

袋は体の半分ほどもあり、重みに耐えるように背中を丸めて歩いている。


体には傷や汚れが目立ち、昨日よりもさらに消耗しているようだった。

つり目気味の瞳は伏せられ、息も荒い。


そしてその手の甲には、青白く光る何らかの紋章がくっきりと浮かんでいた。


昨日、馬車の中でベラムが教えてくれた。

「契約紋がある限り、たとえ強制であっても“形式上”は合意とされる。だから誰も手出しはできんのですぞ」と。


それが今、まさに目の前で現実として突きつけられている。


街行く人々の表情は、どこか沈んでいる。


彼らは、獣人の少女の状況を理解していた。

契約紋があるということは“合意”の証。しかし、それが形式上のものでしかないことも、誰もが薄々感じている。


助けたい。あんな小さな子が、重荷を抱え傷ついたまま歩かされているのを見て、心を痛めない者などいない。

けれど、誰も手を差し伸べようとはしなかった。

街の空気は重たく、誰もが視線をそらして歩いていく。


“合意”とされた契約に干渉すれば、奴隷商人たちの報復が待っている。

それがどれだけ理不尽でも、裏社会との繋がりの深い彼らに逆らうことは市民にとってあまりにもリスクが大きすぎるのだ。


彼女を哀れに思いながらも、誰も何も言えない。

その沈黙こそが、この街で生きる人々の現実だった。


俺は深く息を吐き、意識を研ぎ澄ませる。

《並列思考》を展開すると、思考のレイヤーが脳内で静かに広がっていく。


ひとつの思考は奴隷商人と少女の歩調を読み取り、目的地の予測に集中する。

もうひとつは通行人の流れや視線の向き、建物の配置から最も自然に尾行できるルートを探る。

そして別の思考では、万が一気づかれた場合の退避行動を即座に取れるようシミュレーションを続けていた。


(この街の人たちが無力なのも怖れているのもわかる。でも……)


俺はこの力を持っている。《努力模倣》も、《並列思考》も。

ならば、今ここで、せめて“見届ける”ことくらいはできるはずだ。


そう自分に言い聞かせながら、慎重に距離を取りつつ、俺は彼らのあとを静かに追い始めた。


奴隷商人は少女を連れ、辺りを警戒するように肩越しに周囲を何度も振り返りながら、ゆっくりと裏路地へと足を踏み入れていった。


その動きは慎重で、明らかに誰かに見られることを避けようとしている。


漣もまた距離を保ちつつ、その背を追う。


裏路地は薄暗く、人通りもなく、建物が密集していて死角が多い。

足音さえ響きそうな静けさの中、まるで空気そのものが沈黙を強いているようだった。


足音を殺し壁際を伝って慎重に進む。その目は奴隷商人の動きと少女の様子を逃さずに見つめていた。

その時だった。少女が抱えていた荷物を落とし、思わずしゃがみ込む。


「何やってやがる!」


怒声と同時に、奴隷商人が少女の腹を蹴り上げた。


蹴り上げられた少女の小さな体がくの字に折れ、地面に倒れ込む。

その瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。


意識する間もなく、身体が勝手に動いていた。

気づけば足が地面を蹴り、口からは怒りが叫びとなって飛び出していた。


「その子に何をしてるんだッ!」


怒鳴り声が裏路地に響き渡り、奴隷商人がぎょっとしたように振り返る。


一瞬、漣の怒声に驚いた様子を見せた奴隷商人だったが、すぐに眉をひそめ、冷笑を浮かべる。

落ち着きを取り戻したその動きは、慣れた手つきで少女の腕を掴み、ゆっくりと漣の目の前へと突き出す。


「...何を言ってるのか分かってるのか?見ての通り、こいつの手には契約紋があるんだよ」


少女の小さな手の甲には、青白く淡く輝く紋章がくっきりと刻まれていた。


「この紋があるってことは、正式に合意した契約ってわけだ。つまり、俺が何しようが“契約の範囲内”ってことなんだよ」


紋章の光を見せつけるように奴隷商人は肩をすくめる。

まるで当然の権利であるかのように、何のためらいもない声音だった。


少女は苦しそうに顔をゆがめながら、それでも何かを言おうとしていた。

痛みに耐えながらも、何かを伝えたいという強い意志が震えるまつげの奥に見て取れた。


漣の胸の奥が締めつけられる。


(この表情……明らかに、“納得していない”)


あの契約紋が、どれだけ無理やり刻まれたのか。

言葉にできない思いが、その一瞬にすべて込められていた。


「この子の表情からは合意したとは思えないが……! 無理やり結ばされたんじゃないのか!」


「おいおい、何を人聞きの悪いことを。俺たちは正式なルートで、協定に則って——」


その言葉を遮るように、少女の叫びが響いた。


「違うの!」


声は震えていたが、必死だった。

恐怖に支配されながらも、たった今与えられた機会を逃すまいとするような、渾身の叫びだった。


「同意なんかしてない! 私の村がこいつらの仲間に襲われて——」


その瞬間、奴隷商人の表情が豹変する。

舌打ちと共に手を上げると、何の躊躇もなく《電撃》のスキルを発動した。


バチッという音と共に、青白い稲妻が少女を襲う。

少女の体が痙攣し、力なくその場に崩れ落ちた。


「商品にもなれなかったクソ獣人が……それ以上喋るんじゃねぇ」


男は舌打ち混じりに吐き捨てた声で言うと軽蔑と苛立ちを隠そうともせずに少女を見下ろした。

その目には、まるで物に対するような冷たい光しかなかった。


そしてゆっくりと漣の方へと振り返る。

今度は声のトーンをぐっと下げ、静かに、しかしじわじわと圧をかけるような口調で告げる。


「今日のことは忘れろ。こいつは今日の競売の売れ残りだ。獣人のくせに力もねぇし、体も強くない。だからこうして“鍛えて”やってんだよ」


言葉の端々には、自分の行為が当然であり、善意ですらあるかのような傲慢な自己正当化が滲んでいる。


「……もういい。俺たちに刃向かうとどうなるか分かってんだろ? 今ならどっか行けば見逃してやるよ。俺は優しいんだ」


その目は笑っていなかった。

凍りつくような圧力と、いつでも次の攻撃に転じる準備を内に秘めた冷静さがそこにはあった。


そんな会話をしている中、俺の視界には奴隷商人のステータスが映っていた。

《契約紋章管理》

どうやらこのスキルが、少女の手に刻まれた紋章を維持・操作している鍵のようだ。


(もしそうじゃなくても……試してみる価値はある)


俺は表情を落ち着け、わざとわずかに肩を落とした。

「……分かったよ。引き止めて申し訳なかった。せめて、詫びに握手させてくれないか?」


その言葉に、少女の顔がハッとこちらを向く。

さっきまで助けてくれようとしていた少年が、敵に膝を屈するかのように頭を下げた——

その事実が、少女の心を深く傷つけたのだろう。


その瞳から光が消え、唇がかすかに震える。

信じたかった希望が、打ち砕かれたかのように。


だが、俺は彼女の視線を正面から受け止めることができなかった。

ただ、一歩前へと進む。


「おう、わかればいいんだよ。話が早えじゃねえか」


奴隷商人は警戒心を完全には解いていないようだった。

その目は笑っていても、油断はしていない。

右手を差し出す仕草には、確かな間合いの取り方と、何かあればすぐにスキルを発動できるように構えた緊張感がにじんでいた。


「いいな?今日のことは忘れるんだぞ」


その手が、俺の目の前に差し出される。


——触れたその瞬間、脳内に衝撃が走った。


《契約紋章管理》、模倣——成功。


スキルの構造が流れ込んでくる。視界の隅に無数の紋章の記録が一瞬だけ映り、どれも過去に“契約”された存在の情報であることが直感的に理解できた。


その直後、圧倒的な情報の奔流が脳内に流れ込んでくる。


無垢な瞳を恐怖に染めた少女。

親と引き離され泣き叫ぶ少年。

契約という名の鎖に縛られ、物のように扱われた獣人たち——その数は数えきれない。


奴隷商人は、このスキルを使って何十人、いや、何百人もの命と尊厳を踏みにじってきた。


冷酷で効率的な支配の記録。

無理やり契約を結ばせ、暴力と恐怖で黙らせ、従順に仕立て上げた過程が、まるで自分が体験したかのように頭の中で再生されていく。


その中で——少女のものと一致する紋章の構造が、鮮明に浮かび上がる。


《並列思考》、起動。


ひとつの思考が契約紋の構造をなぞり、もう一つの思考が解体手順を組み立てる。

そして、中心の意識が《契約紋章管理》を発動——少女の紋章にアクセスし、解除処理を実行した。


少女の掌が淡く光り、契約紋が静かに消えていった。


「なっ……!?」


奴隷商人が異変を察知し声を詰まらせ、少女の手の甲に目を凝らす。


そこには、さっきまで確かに存在していたはずの契約紋が、影も形もなく消えていた。


「おい……どういうことだ……? 他人の契約紋を……お前が消したのか..?第三者が破棄できるなんて……そんなの、ありえねぇ……!」


言葉を失い、瞳を見開いたまま後ずさる。


「お前、何者だ……? 何をした……?」


漣は静かに、少女の手を見つめながら言った。


「どうって……その子の契約は今解除した。もう自由だよ」


「バカな! 他人の契約なんざ、外せるわけが——」


言葉を途中で切り、男の顔が青ざめる。


「このスキルは……俺が組織でのし上がるために、死ぬほど努力して鍛え上げたスキルなんだ……そんなはずはねえ、欠点なんか、ねえんだよ……」


自分に言い聞かせるように、必死に繰り返す。だがその声には力がなかった。

漣の前に立つその少年が何をしたのか、なぜ解除できたのか——

その答えは、奴隷商人自身には分からなかった。


(まさか……この俺のスキルを、理解し、上回ったってのか……?)


胸の奥に冷たいものが染み渡っていく。


どこまでも底が知れない。

目の前の少年が持つ力に、理由もなく、理屈もなく、ただ“恐怖”が湧き上がってくる。


(今……こいつに逆らっちゃいけねぇ)


そう本能的に悟った奴隷商人は、わずかに後退りながら、歯を食いしばるように唇を噛み締めた。


「……お、おぼえてろ……!」


絞り出すような声でそう吐き捨てると、奴隷商人は顔を歪ませ、悔しさに拳を震わせながらも踵を返す。

その背中には、怒りと屈辱と、何より“恐怖”がにじんでいた。


足取りは早く、しかし無様なほどに不規則で、何度も後ろを振り返りながら裏路地の闇へと姿を消していった——。


漣は静かに少女に近づき、しゃがんで目線を合わせる。


「……立てるか? 君はもう、自由だ」


少女はおそるおそる、震える手で自分の掌を見つめた。

そこには、数分前まで確かにあったはずの青白い契約紋が、きれいさっぱり消えていた。


それを確認した瞬間、少女の瞳が大きく見開かれる。

そして——こくん、と喉が鳴るように息を呑んだその直後、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


静かに、しかし止めどなく頬を伝う涙。


「ほんとに……消えてる……自由に……なれたの……?」


その声はあまりにか細くて、けれど、確かに喜びと安堵がにじんでいた。

漣はそっと手を差し出す。


「とりあえず、一旦うちに来ないか? 休もう。……それから、話を聞かせてくれ」


少女は少しの間、躊躇うようにその手を見つめていたが——やがて震える指先で、漣の手をそっと握った。

その温もりに、また一滴、涙が落ちた。


* * *


薄暗い部屋の中。埃はまだところどころに残っている。

簡素な木製の食器には、湯気を立てるスープと焼きたてのパン、素朴な煮込み料理が並んでいる。


獣人の少女、震える手でスプーンを握り、目を潤ませながら口に運んだ。

一口、また一口と、まるで食べることそのものを忘れていたかのように、夢中で口を動かす。

温かな味が舌に広がるたび、ほっとしたように瞳が緩み、喉が動く。


何日ぶりのまともな食事だったのだろう。

食べながら、目から涙がこぼれても、彼女は止めなかった。

漣は向かいから静かにその様子を見守る。


「ゆっくりでいいからな」


そう声をかけると、小さくこくんと頷いた。

頬に残る涙を拭おうともせず、ただ、今この瞬間の温かさに身を委ねていた。


しばらくして、ようやく一息ついた少女の顔には、少しだけ穏やかな色が戻っていた。

スープの最後の一滴を飲み干した少女は、そっとスプーンを置いた。

肩の力が抜けたように深く息をつき、その顔には、わずかにではあるが穏やかな表情が浮かんでいた。


その様子を確認してから、漣は静かに口を開いた。

「君は……どこから来たんだい?」


少女はしばらく沈黙したまま、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

震える肩が、小さく上下している。


やがて、ぽつりと呟くように言葉が落ちた。


「……私は、ここから遠い、山の麓にある獣人族の村から来ました。あの人たちが来るまでは……あったかくて優しい、いい村だったんです。」


思い出を大切に抱きしめるように言葉を選びながら話す。

目にはうっすらと涙が浮かび唇はかすかに震えていた。


「お母さんもお父さんも、村のみんなも、みんな優しかった……」


懐かしさと悲しみが混ざった声。

少女の目は遠くを見つめ、そこにあるはずのない村の景色を追っているようだった。


「でも……奴らが来たんです。あの、奴隷商人たちが……“獣人は力がある。見た目もいい。だから高く売れる”って……」


語る声に怒りと悔しさがにじむ。


「……村を焼かれて、私たちは逃げられなくて……でも“契約すれば、家族は助けてやる”って言われて……私、信じて……契約したんです」


次の言葉が出ない。膝に顔を伏せた少女の肩が、再び震える。


「でも……結局、目の前で……家族は殺されました……! 助けてもらえるなんて、全部、嘘だったんです……っ!」


その瞬間、感情の堤が決壊し、ぽろぽろと涙があふれ出す。

言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ひたすらに泣いた。


「……すまない。辛い話をさせてしまった」

漣はそれ以上何も言わず、そっと待った。涙が止まるまで。




やがて、涙が落ち着き、少女が小さく呼吸を整えながら、ぽつりと口を開いた。


「……ミミ。ミミ・ニャレルです」


その声はまだか細いものの、確かに芯のある響きを帯びていた。

自分の名前を口にすることで、彼女は一歩、前に進んだのかもしれない。


漣は穏やかに笑って頷く。

「ミミか。可愛い名前だな。俺は漣。霧島 漣だよ」


お互いの名前を交換したその瞬間、僅かに張り詰めていた空気がふっと緩んだ。


漣は視線を落とし、少し迷うような間を置いてから口を開いた。


「……ミミ、よければなんだけど、しばらくここで一緒に暮らさないか?」


その言葉に、ミミは目を見開いた。

驚きと戸惑い、そして少しの不安。

だがすぐに目を伏せ、静かに自分の気持ちを確かめるように考え込んだ。


やがて、小さく、けれど確かな頷きが返ってくる。

「ありがとう。この家でひとりだったからさ、君がいてくれたら心強いし嬉しいよ。」


漣の言葉に、ミミは少し頬を赤らめ恥ずかしがっていた。


“居場所”という言葉が遠い夢のようにしか思えなかった少女にとって、それはあまりにも温かく優しい提案だった。

こうして、身寄りのない少女と彼女を迎え入れた少年の、ふたりだけの静かな生活がここから始まった。


* * *


漣とミミが静かな夜を迎えているその裏で、街の片隅にある薄暗い建物の地下にはいくつもの蝋燭に照らされた静かな空間が広がっていた。

石造りの階段を下った先、重たい扉の向こうでは何人かの人影がひそやかに会話を交わしている。


その奥、窓もない一室。

簡素だが丁寧に整えられた机の前に、一人の男が腰をかけていた。


報告を受けた男は静かに目を閉じ、しばし思案の沈黙を保った後、椅子の背にもたれながら口元に薄い笑みを浮かべた。


「……なるほど。契約紋が、解除されたと」


声は驚くほど柔らかく、抑揚も少ない。だがその奥底に微かな冷気が混じっている。


「契約紋とは、本来絶対の拘束。解除など通常では考えられません。 もしそれが事実であるならば……気になる話ですね」


男はそっと帳簿に視線を落とし、指先で表紙をなぞる。何かを確かめるように、ゆっくりと。


「……念のため、様子を見ておきましょう」


控えていた者たちが一礼し、静かにその場を離れる。

男は再び視線を上げ、仄暗い天井を見つめながら、ほとんど独り言のように呟いた。


「ふふ……さて。どんな人間なのか、楽しみですね」

名前:霧島(きりしま) (れん)

種族:人間

職業:模倣者(イミテーター)

レベル:2

HP:32/32

MP:18/18


■ 保有スキル

努力模倣(イミテート)

 └ 触れた対象の“努力”に応じてスキルをコピー(最大5つ)

 └ 模倣したスキルを固定化(模倣枠を使用せず永続的に使用できるようになるが、努力値の更新が不可能になる)


 【模倣済みスキル】

  ・《ウィンドカッター》(努力値:23)

  ・《交渉術》(努力値:51)

  ・《価格看破》(努力値:49)

  ・《並列思考》(努力値:5)

  ・《契約紋章管理》(努力値:28)

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