もう一人の人間
視点:ジンナ
トウコに総力戦を挑んだ四日後。
リトマスマトリックスのリーダーであるジンナは、ふんぞり返っていた。
レンガ造りの倉庫内にはすでに動かなくなった蒸気機関車が数多く展示されている。その内の一台の蒸気機関車の上で、腕を組み、顔を上に逸らし、下々で整列した天使たちに威厳をこれでもかというぐらいに見せつける。リーダーだから偉そうに振る舞うのは当然だ。舐められたら終わりなのだ。「ニューワールド」に辺境とはいえ、領域のフラッグリーダ―を任された自分には、それだけの価値がある。
「く、くにゅううううう」
しかし、あいつはなんだ。
「あの、リーダー?」
トウコ。あいつだあいつ。フラッグリーダーの就任記念に、隣の領域を奪って自分の領域を拡大しようと思ったら、トウコに手も足も出せずにボッコボコにされた。フラッグリーダーを倒せば領域を奪える。つまりはジンナを倒せば領域を奪えるのに、あいつはそれすらしなかった。
「ねえ、聞いてますリーダー?」
耐え難い屈辱だ。
一時期は自分の力を疑った。もしかしたらこの辺りの領域のレベルが高いのかと思ったが、ジンナの領域は順調に拡大している。周辺の領域において、自分は強い。それは疑いようもない。そもそも、この世界における六大天使のどの勢力にも所属していないはぐれ天使なんて、実力などたかが知れてる。そのはずだ。
ジンナの鼻の穴が膨れていく。周囲の空気がジンナの肺に押し込まれていく。
部下の焦った声が聞こえる。
「待ってリーダー! 客人が来てます。人間です。私たちはともかく、至近距離でリーダーの大声を聞いたら色んな穴から血を出して死んじゃいますって‼」
人間、という言葉にジンナの頭がわずかに冷える。
人間は脆い。
倉庫のような密閉空間でジンナの岩をも砕く大声を聞けば、人間はトマトのようにはじけ飛ぶだろう。
口から大量の空気を吐き出すに留める。頭に血が昇ると、すぐに権能を使おうとしてしまうのは悪い癖だ。改めようと思う。そんな何回目になるかわからない反省をしながら、顔を下げる。
学生服とコートを合わせたような、リトマスマトリックス公認コスチュームに身を包む十人の天使が後ろに手を組みながら姿勢を正している中、こちらに近づいてくるやつが一人いる。
灰色のズボンに、黒いワイシャツを着ている。ズボンのポケットに手を突っ込みながら歩くのは行儀が悪いと思ったが、それよりも気になった点があった。
こいつは顔が見えない。
黒のフェイスマスクで、顔をすっぽりと覆っているのだ。
トウコの領域に現れた人間も、雨も降っていないのにレインコートを着ていた。変な格好をするのは人間の特徴なのかと訝しむ。しかしこいつは特におかしい。
「よく来たね。あんたを待ってたんだ。まあ、あんたが来る前に、トウコに勝てればそれが一番よかったが、くっ……」
トウコに負けた記憶がよみがえり、堪忍袋の緒が切れそうになったがぐっとこらえた。
「なあリーダー」
部下のエンテンが、フェイスマスクの人間の周囲を値踏みするような目つきでぐるぐると歩き始めた。彼女はジンナがフラッグリーダーになった頃からの部下だ。忠誠心に厚い一方で、仲間以外のものをとりあえず敵視する傾向にある。
「人間なんかが来てなんになるってのさ。私たちが寝ながらでも倒せるような軟弱なやつらでしょ? こんなやつに時間を割くぐらいなら、一人でも天使の仲間を増やして、数の力でトウコのやつに一泡吹かせたらいいっしょ。なあ、お前になにができるってんだ。か弱い人間さんよ。おお?」
絡み方が明らかにヤンキーのそれだが、フェイスマスクの男はまったく動じていない。いや、動じていたとしても表情がわからないので、なにを考えているのかが読めない。
「俺は」
フェイスマスクの男がくぐもった声を出す。天使には女性しかいないので、低音の声というだけでも聞きなじみがなく、不思議な感じがする。
「いつだって綱渡りだ。さっきそこのリーダーが権能を発揮するだけで死んでいた。か弱く、儚い。だからこそ、お前たちとは違う視点を持つことができる。わかるか? 俺は窮鼠だ。いつだって強大な相手である猫に噛みつき、食い殺す機会を窺っている。信じろとは言わない。だが見てろ。お前たちが信じざるを得ない働きを見せてやる」
フェイスマスクの男は、絡んだエンテンが言葉に詰まるぐらいのはっきりとした意思を表明する。大言壮語と思わせない謎の説得力を含んだ立ち居振る舞いだ。
「ほ、本当だろうな。お前が期待外れなら、あたいたちはいつでもあんたを殺せるんだぞ。わかってるんだろうな」
「やめろエンテン」
ジンナはエンテンの言葉を遮った。そもそもこの男は、『ニューワールド』から派遣された男だ。この世界に君臨する、六大天使と呼ばれる絶対無敵の六人の天使がいる。その内の一人がニューワールドと呼ばれる天使だ。彼女たち六大天使はそれぞれ治めている都市があり、最終的にはその都市へ招集されることがジンナの夢だ。そのためにジンナはニューワールドの下で働き、尽くし、そしてついには彼女の領域の一部を託されるに至った。着実に夢へステップアップしていく中で、障害になっているのがトウコの存在だ。
それを打開するために彼女が紹介してくれた人間が、ただの脆弱な生物であるはずがなかった。
「こいつは信頼できる。安心しろエンテン」
フェイスマスクの男も、その低音で肯定する。
「ああ、そうだ。俺に任せろ。大丈ブイだ」
「リーダーこいつ大丈ブイとか言ってますよ! 本当に大丈夫ですか⁉」
ジンナは首をかしげる。
「大丈夫だと言っているんだろ。なら大丈夫だ」
「いや、ブイって言ってます。ふざけてますよこいつ!」
「まあ落ち着け天使」
「おめえが言うな」
「お前らの依頼。トウコという名の天使がいる領域を自分たちのものにしたい、だったな。お前たちの戦いを見させてもらったが、お前たちに足りないものは、戦力だ」
ジンナは深刻な顔をする。その通りだという自覚があったからこそ、ジンナは以前よりも頭数を増やして挑んだ。それでも戦力が足りないという判断は、自分がトウコにどれだけ劣っているのかをわからされたような気分だった。
フェイスマスクの男に問いを投げる。
「つまり、さらに人数を増やしてから挑んだほうがいいということか?」
フェイスマスクの男はこちらに首を向ける。あれで見えているのかわからないが、視線がこちらに向いていることはわかった。
「戦力は人数だけじゃない。個々の能力、その使い方や使い時、集団戦での役割分担。それを整えるだけでもだいぶ違う。だがしかし、今回は手っ取り早く、俺の戦力である三人の天使を連れてきた。彼女たちに任せて、お前たちは適当に見学でもしていればいい」
エンテンが赤い髪を振り乱して、フェイスマスクの男に敵意のこもった視線を向ける。自分たちが必要ないと言われたようなものだ。気持ちはわかる。しかし、これが『ニューワールド』の意思であれば否定する気もない。
まずは勝利し、トウコをこちらの戦力に取り込む。そうすれば周辺の領域に敵はいなくなる。
「入ってこいお前たち!」
倉庫の入り口に向けてフェイスマスクの男が叫ぶ。
全員の視線が入り口に向かう。
いったいどれほどの天使が現れるのか、そいつらは本当にトウコに勝つことができるのか、期待と疑念が入り混じった視線の先には——先には——誰も現れない。
「少し待て」
フェイスマスクの男が端末を取り出し、画面をスクロールしている。文字を打っているようにも見える。なにかを確認しているみたいで、倉庫の入り口に向いていた視線はすべて男の元に集まっている。
数秒が経ち、フェイスマスクの男は画面から目を離した。
「ショッピング中でーす、らしい」
「は?」
エンテンだけでなく、他の天使からも間の抜けた声が上がる。
「これからトウコのいる領域に攻め込む。お前たちはそのままでも十分に強い。それを証明するぞ。お前たちの権能について確認しながら、目標の領域まで侵攻する。さあついてこい」
全員で顔を見合わせて、最後にはジンナに視線が集まった。リーダーとして最終的な判断を任されている。
迷っていても仕方がない。
彼を信用してもいいはずだ。
うん、きっと、そのはずだ。
「今までの雪辱を果たしにいくぞ。リトマスマトリックス、出陣だあ‼」
天使たちの気合の入った声が倉庫内に響き渡る。
ジンナは蒸気機関車の上から降りて、天使たちを先導し、フェイスマスクの男の後ろについていく。
三十分後
「なあ、トウコどころか、リナもミツクもアーリンも、あの人間だっていないんだが」
領域内を捜索する。トウコたちの住処である校舎にも人の気配はない。
フェイスマスクの男は構わず前を歩く。
「校舎の校門に貼ってあった。これを見てみろ」
「ん?」
フェイスマスクの男は一枚の紙を取り出す。そこにはトウコの書置きが残されていた。
『ジンナへ。みんなで不可侵領域へ出かけてきます。お土産を買ってくるので、校舎は壊さないように。帰ってきたらまた戦ってあげるね。ジンナが大好きなトウコより』
紙を奪い取り、これでもかというぐらいに細かく破いてやった。紙ふぶきが辺りを舞い、それが晴れると獣のように牙を剥くジンナの姿がそこにはある。
「計画通りだ」
「ああ⁉」
「とりあえず、ここに住む天使の部屋に案内してくれ」
「はあ」
よくわからないが、この行動にもなにか意味があるはずだ。
そう信じたい。
信じなきゃ、やってられない。