空を飛ぶ少女
視点:冬夜
呼吸を満足に行えず、目が覚めた。
口の中に水が浸入している。肺に入り込もうとする水を、反射的にせき込んで吐き出した。
自分はコンクリートの地面に横たわっている。コンクリートはいくらかひび割れている。そのひびから浸水しているのか、周囲は三センチぐらいの高さに水が満ちていた。
息を整える。周囲を見る。
外壁が崩れて中身が丸見えのビル群に、多くの草木が鬱蒼と生い茂っている。人の気配はなく、それどころか小さな虫すらもいる気配はない。繁栄していた都市から人がいなくなって、それから数十年の時が経ったような印象だった。
さっきまで飛行機にいたと思ったら今度はゴーストタウンにいる。
ここが第十一世界なのだろうか。
しかしビルを見れば、冬夜のいた世界と同じような造りだし、植物だってなんて種類かわからないけど見たことがないような奇抜なものではないし、空を見上げれば青い空と白い雲がある。塩が降る以前の冬夜の世界と変わらない空だ。
塩に侵されていないだけ、もしかしたら冬夜のいた世界よりもこの世界はずっと良いところなのかもしれない。
冬夜の履いている長靴の中に水が入ってくる。靴下まで濡れて気持ちが悪い。
はあ、とため息を吐いた時に、空から音がした。
空気を切り裂いて、なにかが落下してくる音だ。
「なんだ?」
首を上に向ける。
小さな黒い点がこちらに近づいてきてどんどん大きくなっていく。姿を視認すれば、それが人型であることがわかる。なんだったら肌色の眩しい美脚も見える。
冬夜の目の前に、少女が降ってきた。
少女を中心として水が爆ぜる。もちろん爆心地に近い冬夜はもろに水を浴びる羽目になったが、冬夜が着ているのは塩を防ぐ簡易の防護服だ。その姿は、かつて雨を防いでいたレインコートに近い。降りかかる水しぶきは防ぎ切った。
顔以外は。
「やあ人間君。初めまして、そんでもっていらっしゃいませでこれからよろしくって感じで。カッパの人」
キャップを被っている黒髪の少女だ。一見すれば少年にも見えるかもしれないが、顔立ちは快活な少女そのものであり、デニムのショートパンツから伸びる脚は女性のそれだ。
少女がこちらに手を伸ばしてくる。
握手でもしようとしているのだろう。
しかし彼女は手を引っ込める。こちらの顔が水で濡れていることに気づいた。
「あ、ごめん。水被っちゃった? ハンカチとか持ってなくて。私の服で拭く?」
少女が自分の白いシャツを引っ張ってみせる。彼女の服に顔をうずめて拭けということだろうか。
「なんてな。服で拭くもダジャレじゃないからな?」
彼女が言葉を言い切る前に、要望通りに彼女のシャツで顔の水を拭こうとした。それはもう、凄い勢いで突っ込んでいったのだ。
「うわあ!」
避けられた。勢い余って水の溜まっている場所に顔から滑り込んだ。さらに濡れた。
「なにしてるんだ。これが変態か!?」
服の中にまで水が入ってきて、防護服の中のシャツが肌に張りつく。さらなる不快感が冬夜を襲う。少女の言葉に反論する。
「お前がなにしてるんだ。拭けって言ったからその通りにしようと思ったのに」
「冗談だって言ったろ。いきなり女子の服に顔をうずめるなんて常識的にあり得ないだろう。しかもあんな勢いで。いや、待て。偏見はよくない。カッパの人の世界では常識だったのか? だとしたら私が悪いのかもしれない。どうなんだ?」
自分の世界の常識を思い返す。
「そりゃあ初対面の女子に突進する勢いで顔をうずめに行くのは非常識だろうな」
「非常識を認めたぞお前」
じっとりとした目つきで見つめられる。この話を続けると不利になる気がする。とりあえず立ち上がり、体を震わせてレインコートについた水滴を払う。
一息入れて、さっきまでの出来事がなかったように振る舞う。
「まあ冗談は置いといて、君は誰だ?」
なるべく声のトーンを落とし、真面目な雰囲気を作った。
そのつもりだったが、なぜか彼女のこちらを推し量るような視線は変わらない。さっきまでのやり取りを冗談ですませることはできなかったようだ。ファーストコンタクトを明らかに間違えた。しかしここで彼女を逃すつもりはない。この世界について知るために、彼女から色々と情報を聞き出したい。
それに、彼女は明らかに冬夜に会いに来ている。目的が冬夜であれば、ここで引き下がることもないだろう。
彼女が観念したように息を吐いた。
「私はトウコ。改めてよろしく、人間君。たくさんの疑問はあるだろうけど、とりあえず君を私たちの庇護下に置かせてもらう。この世界は危険だらけだからな」
彼女が手を伸ばす。
「俺は冬夜だ。よろしく」
彼女の手を握る。
「じゃあ、飛ぶよ?」
「ん?」
そのまま彼女に体を引き寄せられる。彼女の細腕からは考えられない力だ。冬夜はまったく抗えなかった。そのままトウコに抱きかかえられる。お姫様抱っこのような形になる。男として多少情けない姿になっているような気がして、抗議の声を上げようとしたが、とんでもない重力が降りかかってくる。
トウコが飛んだ。跳躍するために膝を曲げることもなく、当たり前のように空に向かって落ちていく。水溜まりを脱し、廃ビルを飛び越し、空が手を伸ばせば届く距離にあると錯覚する。雲が近い。青空が近い。三つある太陽が近い。
飛行機から眺める景色よりも低い位置だけど、風を感じることで自分が飛んでいると実感できる。
「どう? こんな風に空を飛んだことないでしょ?」
トウコは得意気な顔をしている。飛行機で出会った少女の言葉を思い出した。——天使たちによろしくね。そう言っていた。空を飛べる少女は、それこそ天使と呼ぶにふさわしい。
「君が天使か?」
トウコが驚いたように目を丸くする。
「なんだ、この世界について少しは知ってたのか。そうだよ。この世界は天使の住む世界だからな。これから色んな天使に出会えるさ。ちなみに天使がみんな空を飛べるわけじゃないぞ。私だから飛べるんだ。迎えに来たのが私じゃなかったらこんな風に飛べないんだからな。感謝しなよ」
「ああ、ありがとう。晴れてる空を見るだけでも嬉しかったのに、空まで飛べるなんて、夢が二つも叶ったみたいだ」
トウコは冬夜の言葉に若干の引っかかりを覚えながらも、冬夜が純粋に喜んでいることが伝わって機嫌を良くしているようだった。自分の特技を褒められて不快になるものはいない。そして、さらに良いところを見せたいという欲望は、天使でも人間でも変わらないみたいだった。
「こんなもんじゃないぞ。楽しいのはこれからだ。ちゃんと掴まってろよ」
言われたように、トウコの肩に腕を回して彼女にしがみつく。
「行くぞ」
強い推進力を感じる。見える景色が線になっていく。歯を食いしばっていないと体の一部が吹っ飛んでいきそうな勢いだった。
自由自在にトウコが飛んでいる。目的の場所に向かっているようだが、彼女はサービスだとでも言わんばかりにアクロバットな飛行を試みていた。上下左右の方向感覚が麻痺し、頭が色んな方向に揺さぶられる。
楽しいだろみたいな声が聞こえた気がするが、すぐ傍にいるはずの彼女の声は遥か後ろに取り残されてまともに聞こえやしない。なんだか胃液がせりあがってきた気がするし、意識はどんどん手放されていくような気がした。
一緒に空を飛ぶことは、今後は控えてもらおうと冬夜は決めた。