タイムトラベラー系の動画配信者になれるチャンス到来か
渡邊光の自宅 東京都
令和五(二〇二三)年 三月二二日 午前一一時四一分
九回裏ツーアウトランナーなし。
ピッチャーが投げたボールは外に大きく外れてワンバウンド。構えたキャッチャーの右足下からバックネットへと飛んでいく。右バッターは頭だけ、キャッチャーとアンパイヤは体ごとボールの行方を追いかけていた。
一〇二マイルのストレートは見送られて、スリーボールツーストライク。
ワールド・ベースボール・クラシック2023決勝戦。日本代表チームは3点。アメリカ代表チームは2点。ピッチャーは日本代表キャプテン。バッターもアメリカ代表キャプテン。
プレーの間に、弦楽器の音を加工したような荘厳な効果音が入るようになった。
試合に集中しすぎて、幻聴が聞こえるようになっていたらやばいと渡邊光は思った。試合を盛り上げようと放送局が入れたのだろうか。球場のスピーカーから流しているならもっとやばいと思った。
野球の試合で、この映画のような演出を光はみたことなかった。
二度フルスイングしたバッターは最後の一球を待っている。ピッチャーが投げたボールは、外角からボールゾーンに大きく動くスライダー。真横に大きく動くのでスイーパーの異名もある変化球をピッチャーは最後に投げた。
フルスイング。
ピッチャーが左手のグラブを投げ捨て、帽子も投げ捨てる。
ボールはキャッチャーのミットの中だ。日本代表チームの選手が、グラウンド、ブルペン、ベンチから一斉にマウンドへと駆け寄っていく。
思わず両手の握りこぶしを肩まであげた反動で、ソファーから軽く光の腰が浮く。大きな声は抑えたが、喉の奥を震わせて出た変な音が、縦長のOの形になった唇から漏れていくのは止められない。
日本中が待ち望んだワールド・ベースボール・クラシック優勝の瞬間だ。
光の通う私立小学校の三学期修了式は、三月一七日金曜日だったが、他の小学校はそうではない。今頃東京の小学生のほとんどが、学校で授業を受けている。何という優越感。
「選ばれる不安と恍惚が私にある」と、思わず光は呟いてしまう。
『WBC優勝おめでとうございまーす!よかった!よかった!いやーーっ、感動の一言だね!』
「えっ」
頭の中から声が聞こえる。大型液晶テレビの側に、もう一人の光が立っている。テレビの映像は止まっている。耳がおかしくなったようで、世界が揺らいでいる。
光はソファーに腰を落とす。体全体がソファーに沈み込んでいくようだった。
『突然ですが、あなたは異世界転移に巻き込まれましたーー』
目の前の自分の口は動いているのに、頭の中から声が聞こえる。耳からは何も聞こえない。
試合のプレー中に聞こえていた荘厳な効果音は幻聴だった。幻視まで見えるようになった。脳梗塞か脳塞栓か何かに違いない。多摩の爺ちゃんが一昨年入院したやつだ。やばい。やばい。やばい。
電話だ。電話しなきゃ。一一九番。
『ちょーっと頭を弄らせてもらうよ。うん。‥‥これでよしっと』
軽いパニックに陥っていた光は、浅く速くなった呼吸が元に戻り、頭も冷えていた。驚くほど冷静になっているのがわかる。
そして、感情をコントロールされただけでなく、今の状況に関する「知識」もインストールされていた。
・ 渡邊光が選ばれたこと。光が選ばれた理由は特にない。仮に理由があったとしても教えられない。
・ 選ばれた光が、転移する世界にどのような影響を与えるのかが観測されること。光がその世界ですることに制限は設けられない。
・ 転移する世界は、一九三九年のパラレルワールド。その年の世界なら、何処でも何時でもよいこと。
・ 異世界転移する際には、チート能力を付与することはお約束なこと。チート能力の一つは、病気にならない健康な体と異世界ファンタジーな回復能力。チート能力のもう一つは、二〇二三年までの兵器を模したゴーレムを召喚できる能力。
・ 光が転移する際には、最初から光が存在しなかった世界、光が行方不明になった世界、もう一人の自分に会う前の光が存在する世界がそのまま続いていく三つの世界が選べること。選んだ世界のその後を確かめることは、光にはできない。
『この部屋の時間は止まっているから。遠慮しないで、一九三九年の何時、何処に行くのか選んでいいよ。ネットもスマホで利用できるから。スマホに課金できるお金があったら、それも使っていいよ』
もう一人の光は、そういいながらソファーの右隣にあるアームチェアに腰掛けた。
「僕が総監督として、WBCで優勝した侍ジャパンを率いる。そして、一九三九年のアメリカに乗り込んで、『一九四〇年から始まるワールドシリーズに僕達が優勝したら、問答無用でアメリカの一州を貰う』ってやったほうが、平和的でいいんじゃないの?ついでに、メジャーリーグとニグロリーグが一緒になれば、オール・アメリカンにもなるかもしれないし。うわっ。一石二鳥で凄い」
「貰う一州はクジ引きで優勝セレモニーの一貫として決めるんだ」と、光が続ける。
『光が好きそうな、そういう世界線もあるかもしれないけど、この世界線の君に求められている役割はそうじゃないんだ。それに、アラスカとハワイは、この時代まだ準州だから。もし、どうしても君がメジャーリーグと絡みたいなら、一九三九年のワールドシリーズ優勝の瞬間に、ロッキード社のF-117ナイトホークか、ヴォート社のXF5Uフライング・フラップジャックに、球場の上空を編隊飛行させるとかさあ‥‥。第一、人間は召喚できないから』
もう一人の光は、光の熱弁を聞いた後で、その提案を切って捨てた。
「それ、一九五二ワシントンD.C.・UFO事件のパクリっぽいんだけど」
『いやいや。スペイン内戦が終結したマドリード上空で編隊飛行させてないから。政治的メッセージは何もないから』
ワールドシリーズの優勝が決まったクロスリー・フィールドがあるのはオハイオ州だからと、もう一人の光は続けた。
光はめげることはなかった。
小さな球場、大きな球場、屋根付き、開閉式の全天候型のドーム球場や、球場のフィールドの形状、フェンスの高さによる打球処理などを説明する。自由に球場を作れる野球ゲームがあって、光はそれでよく遊んでいた。
ボストン・レッドソックスで二九本ホームランの年間新記録を打ったベーブ・ルースは、一九二〇年にニューヨーク・ヤンキースに移籍すると五四本打った。ライトのポールまでの距離七九メートルと、短い馬蹄形の変則的な形のポロ・グラウンドを、当時のヤンキースは本拠地にしていたからだ。
光は、動画サイトで得た知識を語る。今回のWBCで、日本代表選手の海外組が帰ってきてからの俄仕込みだった。
一二の球場を乗せた巨大船舶を二隻実体化させることも。アメリカン・リーグとナショナル・リーグのホーム・ゲーム用の一隻ずつで、二四種類の球場だ。
メジャーリーグの開幕一週間前迄には、相手チームがクジを引いて、当日どの球場で試合するかの日程を決める。
アメリカン・リーグには、侍ジャパンを。ナショナル・リーグには、侍ジャパンに勝った中日ドラゴンズを当てる。
アメリカン、ナショナルの両リーグのチーム数を偶数にする為に、アメリカ側がさらに一チームずつ増やして、一リーグ一〇チーム制にすることなど熱く語っていく。選手の質を考えると、ニグロ・アメリカン、ニグロ・ナショナルの両リーグを母体に、一チームずつ増やすこともありえた。
一種の「戦時下」だとしても、当時のアメリカ社会がそれを受け入れるかどうかはわからない。
当時のベースボールは荒っぽく、審判も信用できない上に、人種差別もあった。
アメリカという国家の命運がかかると、ボクシングのように、試合前に一服盛ったり、事故、事件に巻き込まれかねない。試合中だって、なんらかの工作の可能性もある。
もし、選手にそのような「問題」が生じたら、再召喚で対応する。気付かれることはないだろう。
八百長で、両リーグとも一チームだけが、侍ジャパン、中日ドラゴンズ以外に全勝ということもあるだろう。それもまた面白いではないか。
ワールドシリーズに優勝すると、アメリカの一州ずつを手に入れられるが、負けても光にはデメリットはなにもない。
もし、優勝できなかった年に一州以上を手にしていたら、一州を失うだけだ。
そして、次の年のシーズンの開幕を待つ。
全チームの試合に、死角が生じないよう「カメラ」配置をし、「スタッドキャスト」も導入して、当時のテレビで生放送する。光にその力を与えてくれるのならば、再放送も容易になる。光にもっと力を与えたまえ。
そうすれば、ベースボールは、キング・オブ・スポーツとして、アメリカ社会に永遠に君臨するだろう。
さらに、そのスポーツ動画を二〇二三年の世界に送ることが出来れば最高だ。スポーツ動画でなくても、一九三九年から始まる世界を紹介するタイムトラベラー系の動画配信者になりたい。
人気の動画配信者は、小学生の憧れの職業だ。唯一無二の動画配信者になれる。
二〇二三年の世界にいる家族にも、光がパラレルワールドで元気にしていることを知らせることもできる。
『いや。人間は召喚できないんだってば。その知識はインストールされているよね。それに、一九三九年と二〇二三年の世界では、幾らパラレルワールドでも連絡できないから。ちゃんとそれもインストールされているよね。この部屋にいる間は無限の時間があるからってさあ』
もう一人の光は呆れていた。
不定期更新です。