日系の渡邊帝国は満州国を外交上承認するのか(6)
ヤンキー・スタジアム ブロンクス区 ニューヨーク市
昭和一四(一九三九)年 七月一一日 午後一時三〇分
1939MLBオールスターゲームは、午後二時から始まる予定になっている。
一九三九年のベースボール観戦で、渡邊光が一番驚いたのが、スコアをつけないのかと聞かれたことだ。今日も、二つ折りのオールスターゲーム・プログラム兼スコアカードを手にしている。ダンボール色の紙に、紺の字体が目につく紺と赤との二色印刷の表表紙。紺一色の印刷になる表紙・裏表紙の裏。赤の字体が目立つ紺と赤との二色印刷の裏表紙になっていた。
ゴテゴテとした広告の中には、タイムズ・スクエアのホテル・アスターとあった。今、光が宿泊しているマンハッタン区のウォルドルフ・アストリアと同じで、ニューヨークの地主と呼ばれているアスター家が開業したという。ウォルドルフ・アストリアは、一九一メートル、四七階建てと、世界一の背の高さを誇るアール・デコ様式のホテルだ。アメリカ一の格式と言っても過言ではない。
一九三九年に転移して一一日。ニューヨーク以外の世界は見たことはない。それでも、宣戦布告なしに真珠湾攻撃をした日本は気が狂っていたというのが、光の結論だ。
以前の動画視聴では、一九四一年一二月フィリピンのルソン島近くで、アメリカの陸軍航空隊の爆撃機により、日本帝国海軍のヒラヌマ・クラスの二九〇〇〇トン戦艦が撃沈したというアメリカ陸軍司令部の「大本営発表」を笑ったこともあった。アメリカとの早期講和も、ミッドウェー海戦の大敗北がなければ、夢物語ではなかったかもと思ったこともある。
だが、一通りのニューヨーク観光を終えた光の感想は、一言でいうと、「これはヤバい」だった。
戦艦大和の建造は、朝鮮民主主義人民共和国による大陸間弾道弾開発以下の価値しかないというものだ。光の「観艦式」で、世界第二位の「ネオン・ワンダーランド」に転落したが、一九三九年のタイムズ・スクエアの威厳というのは、凄まじいものだった。
だが、世界第一位になった、光の「観艦式」には、一日として、同じ出し物はない。
七月七日の「観艦式」はこうなっていた。低く垂れ込めた夜の雲を染め上げる、船体を飾ったイルミネーションだけではない。何万、何十万という曳光弾のような短いレーザー光、一本の長いレーザー光を、全方位に打ち出していた。ゴーレムによる制御で、レーザー光が、人や動物の目に入ることはない。レーザー光が「命中」した見物客も、それを見た見物客も大盛り上がりだ。
夜のローワー・ニューヨーク湾は、1939ニューヨーク万国博覧会以上の盛り上がりになっていた。
一九三九年の世界に転移して、一一日。光の世界認識には、少し変化が生じていた。
ヘンリー・ルイス・ゲーリッグは、一九二五年から、「ルー・ゲーリッグ病」の別名もある筋萎縮性側索硬化症と診断された一九三九年まで、二一三〇試合連続出場という当時の世界記録を更新し続けた。その頑丈さから、「アイアン・ホース」と愛されたゲーリッグは、史上最高の一塁手とも称された。
そして、ニューヨーク・ヤンキースのキャプテンとなり、背番号「4」は、MLB史上初の永久欠番になった。
一九三九年七月四日、ヤンキー・スタジアムでのワシントン・セネターズとのダブルヘッダーで、ニューヨーク・ヤンキースは、ルー・ゲーリッグ感謝デーを試合後に開催した。感謝デーの式典が終わり、ルー・ゲーリッグの伝説のスピーチが始まるはずだった。それを見る為に、光は、この日のヤンキー・スタジアムに来ていた。
その日、ルー・ゲーリッグのスピーチは無かった。
式典の途中から降り出した小雨が、式典の終わる頃には大雨となっていた。「ルー・ゲーリッグを惜しむご贔屓衆の涙雨」「ルー・ゲーリッグの涙雨」と呼ばれたが、この時に、光は、一九三九年の世界に来て初めて歴史が変わったことを実感した。
七月五〜六日の二日は、マディソン・スクエア・ガーデンで、午後八時から始まるガールズ・インドア・ソフトボールを観戦した。ドーム型球場でのナイトゲームになるのか、光の率直な感想は、楕円形の野球盤でのソフトボールというものだった。
縦に短く、横に長い時計板に見立てると、一時・五時・六時・七時・九時・一一時・一二時に、扉がある壁に囲まれた、ホームベースを一〇時、サードベースを一二時に向けた左右非対称の球場だ。ファーストベースのライン側から、サードベースのライン側の壁面には、一塁打、二塁打、三塁打、ホームラン、二塁打、一塁打と、変則的な進塁打の線が引かれていた。
両チームのベンチ前には、サッカーのゴールのような、長方形のネットが置かれている。ラインのすぐ側で、走塁だけでなく、守備にも影響があるのが、一目でわかる。
ソフトボール選手のユニフォームを見た感想は、ミニスカートのナースだ。マジソン・スクエア・ガーデンで、太ももに視線を釘付けにしている、ソフトハットの若い男達には、既視感があった。
コニー・アイランドでは、下からの強い風で、そこを通過すると、マリリン・モンローのようにスカートが捲れるアトラクションがある。白人・黒人を問わず、凝視のあまり石像のような、直立不動の若い男達がいた。光は呟いた。
「これは、間違いなくチー牛ですわ」
七月八日、「観艦式」について、「苦情」を受けていた光は、1939ニューヨーク万国博覧会への「展示協力」を申し出ることになる。
光は、列車搭載型・車両搭載型の二種類の展示物を用意するので、万博会場の一角に、列車搭載型展示物の為に、短い線路を敷いてくれるよう頼む。そして、車両搭載型の展示物は、明日提供できることを約束した。
「世界が驚くこと間違いない出し物です!」と、光は、太鼓判を押した。
七月九日日曜日午前一一時、1939ニューヨーク万国博覧会の会場で、世界初の人工衛星が打ち上げられた。
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