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日系の渡邊帝国は満州国を外交上承認するのか(5)

   関東軍司令部 新京特別市

   昭和一四(一九三九)年 七月一〇日


「アメリカの戦艦が!本物か偽物かなんて!そんなことはどうでもいい!海軍はな!四面楚歌で戦争をやるなら!少なくとも!ウラジオストクをすぐに取れ!シベリア鉄道を押さえろ!そう言っているんだ!取れるか!取れるというなら!いつ取れるか言ってみろ!」


 参謀次長の中島鉄蔵陸軍中将は、関東軍作戦課の将校達を怒鳴りつけていた。


 中島が東京を離れる時には、全国の一一株式取引所【東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸・博多・広島・長崎・新潟・長岡】と場外取引所で、軍需株の大暴落と、内需株の大暴騰が起きていた。


 七月七日金曜日から、七月一〇日月曜日までの四日間で、日本は様変わりをしていた。陸軍よりも、海軍のほうが、その影響が大きいはずだ。今更、新聞雑誌が何を書こうが、この金の流れは変わらないだろう。統制経済による「統制」も、今からでは間に合わない。


 昨年一一月、当時の陸軍次官東条英機陸軍中将のイギリス・アメリカ・ソビエトによる援蒋ルートに対してなされた、「北方と南方での二正面作戦」発言への反応だった。明治二八(一八九五)年の帝政ロシア・帝政ドイツ・フランスによる三国干渉より分が悪いと、日本の市場は見做したのだ。


 支那事変は、大日本帝国の負け戦になったと。



 幼年学校卒業後、フランスのサン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランス陸軍大学校を卒業し、フランスの軽騎兵第七連隊付を経て、明治四四(一九一一)年日露協会の総裁になった、参謀総長の閑院宮載仁親王元帥陸軍大将。明治二二(一八八九)年海軍兵学校中退後、帝政ドイツのキール海軍兵学校、キール海軍大学校に留学した、軍令部総長の伏見宮博恭王元帥海軍大将二人の退任も決まった。


 支那事変が泥沼化し、イギリス・アメリカとの関係も悪化し、皇族を参謀総長・軍令部総長に就任させた責任問題になっていた。


 平沼内閣で、海軍大臣留任になった米内光政海軍大将も、次の内閣改造でいなくなる。「政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」と、昭和一三(一九三九)年一月一六日の近衛声明「国民政府を対手とせず」に、前近衛内閣での海軍大臣辞職を持ち出してまで賛成したからだ。


 海軍は、アメリカへの対応を巡って、艦隊派、条約派といった枠組みでは、割り切れなくなっていた。



 皮肉なことに、陸軍は、海軍よりはましだった。


 昭和六(一九三一)年九月一八日勃発した満州事変で、同月二一日、朝鮮軍は、混成旅団【歩兵一旅団(一大隊欠)・騎兵一中隊・野砲兵二大隊・工兵一中隊・飛行二中隊・通信隊一隊】を、鴨緑江を超えて、関東軍司令官の指揮に入れてしまう。


 朝鮮軍司令官林銑十郎陸軍中将の専断による統帥権干犯問題だ。


 同月二二日、大元帥である天皇は、奉勅命令である臨参命第一号を発令することで、朝鮮軍による専断派遣を追認してしまう。天皇による最初の最高軍事命令は、昭和三(一九二八)年パリで締結された、国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定した、ケロッグ・ブリアン条約の違反第一号にもなった。


 中国の主権尊重を約束した、大正一一(一九二二)年の九カ国条約違反でもある。


 パリ講和会議で、ヴェルサイユ条約第一条として調印され、大正九(一九二〇)年、国際連盟の憲章として発行した国際連盟規約。大正一四(一九二五)年、国際紛争を軍事によらず仲裁裁判で解決することも含まれていたロカルノ条約。日本は、国際連盟規約、ロカルノ条約、ケロッグ・ブリアン条約と、国際社会における実質的な集団安全保障体制を破壊したことになる。


 日本は、大国間の狭間にある中小国に恨まれることになった。



 日本にも言い分はある。昭和四(一九二九)年の大恐慌後、世界はブロック経済へと移行した。「持てる国」と「持たざる国」だ。総力戦体制を構築するには、資源が必要だった。国力を増強するにも、市場が必要だった。


 それで、満洲国を建国したはいいが、現状は泥沼になっている。


 満州事変をもう一度と、北支事変を起こし、支那事変になり、陸軍は、泥沼から足を抜け出せないままだ。日本経済の粘土の足が、支那事変という泥沼で、少しずつ溶けていた。


 当時の山本五十六海軍次官が、駆逐艦二隻分と評した、東京市でのオリンピック・スタジアム建設だが、これだけ日本が恨みを買っていれば、1940夏期オリンピック開催時、参加国の辞退が相次いでいたかもしれない。


 オリンピック開催に賛成していた、文部大臣の荒木貞夫陸軍大将も、平沼騏一郎男爵総理大臣の興した国本社では理事を、国民精神総動員の委員長も務めている。もし、オリンピックが東京で開催され、日比谷公園の運動場でラジオ体操をするような長閑なものになるようでは、来年の紀元二千六百年記念行事は、悲惨なものになっていただろう。


 もう、統制経済による配給制度など、悲惨なことになりつつある。


 

 ウラジオストクを根拠地に、ソビエト・イギリス・アメリカの潜水艦・爆撃機が活動すればどうなるかは、小学生でもわかることだ。アメリカの太平洋艦隊がウラジオストクに入ったら、その影響力は、日露戦争のバルチック艦隊どころではない。


 それでも、反抗的な関東軍将校達の顔には、戸惑いも浮かんでいた。参謀次長とはいえ、中島が、ここまで頭ごなしに、関東軍の面目玉を踏み潰しているのが信じられないのだろう。中島は、こう思った。



 日本本土の土を踏んだら、玉手箱を開けた浦島太郎の心持ちがするだろうよ。

 不定期更新です。

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