日系の渡邊帝国は満州国を外交上承認するのか(4)
内閣総理大臣官舎 東京市 麹町区 永田町
昭和一四(一九三九)年 七月一〇日
緊急で開かれた五相会議は酷いものだった。石渡荘太郎大蔵大臣は、首相官邸の車寄せの下から、強くなっていく雨を眺めていた。
今年の六月一六日、国民精神総動員委員会は、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃を打ち出した。それに対する当て擦りのように、ニューヨークでは、七月一日から始まった「観艦式」でのイルミネーションが評判になった。
当初は、四月三〇日開催の1939ニューヨーク万国博覧会の添え物だろうと思われた「観艦式」だったが、七月七日になると、様相が一変した。ニューヨークでの「観艦式」が、今年二月に、海軍主導で実施された海南島占領への反応だと、世界中で報道され始めたのだ。「観艦式」の戦艦一六隻は、いつしかアメリカの国力と陸軍工兵隊の底力を見せつけるパフォーマンスとして扱われていた。
七月七日は、支那事変二周年記念日だったが、日本はそれどころではなくなっていた。それが、今日の五相会議へと繋がった。
支那事変勃発後の同年一〇月、内閣資源局と統合し企画院となった内閣調査局の調査官と、大蔵省主税局長を務めた経歴のある石渡は、統制経済・税務の専門家として、前近衛内閣では大蔵省次官を、平沼内閣では大蔵大臣を勤めている。統制経済への財界・企業の風当たりは強かった。
口さがない者は、こう言っている事を石渡は知っていた。
働かないですむご婦人方の婦人雑誌で、金に纏わる話題は二つある。棚から牡丹餅で金が手に入った自慢話が一つ。守銭奴の様に金を貯める自慢話が一つ。昭和一三(一九三八)年五月の国家総動員法施行後、支那事変完遂に向けて、働いたことのない陸軍統制派、大蔵省・商工省の新官僚・新々官僚の企画院での統制経済の諸政策は、婦人雑誌でのご婦人方の自慢話よりも聞くに堪えないと。
瑞穂の国で白米禁止とは如何なることかという嘲りの声もあると、石渡は聞いていた。
昭和一一(一九三六)年に、ドイツとの間に結ばれた「共産『インターナショナル』ニ対スル協定」は、その名称から、ソビエトに配慮していることがわかる。米内光政海軍大臣は、ロシア語にも堪能で、ロシア帝国・ソビエトの両体制下での駐在体験があった。ロシア革命が起こらなかったならば、帝政ロシアとの同盟関係の構築にも、現実味はあっただろうとは、石渡も思う。
今日の五相会議で、アメリカの陸軍は大したものではないと常々大言壮語していた陸軍は、板垣征四郎陸軍大臣その人が、「陸軍にはアメリカと事を構えるつもりはない」「陸軍が反対したにも関わらず、海軍は海南島を占領した」と、海軍を責めたのだ。海軍は、陸軍の目をソビエトから逸らそうとしていると。
イギリスを屈服させる為、陸軍が、天津の租界を封鎖している大前提は、イギリス・アメリカは可分であるということだ。海軍内部でも、山本五十六海軍次官は、イギリス・アメリカの反発を危惧して、海南島占領には唯一反対していたらしい。イギリスにとっては、香港・シンガポール。アメリカにとっては、グァム・フィリピンへの脅威でしかない。
しかし、それでは、昭和一二(一九三七)年八月の第二次上海事変で、七月の盧溝橋事件からの中華民国との関係悪化中に、陸軍派兵を主張した当時の米内海相の唱える断固膺懲も、陸軍の目をソビエトから逸らす事が目的だったということになりかねない。遡って、昭和六(一九三一)年の満州事変による満洲国の建国自体が、中華民国・アメリカ・イギリスとの関係を悪化させ、陸軍の目をソビエトから逸らすことになりかねない。
一つの事件・事変の影響は、それぞれ単純に割り切れるものではないと、石渡は考えていた。
満洲国建国で、中華民国での対日感情が悪化し、反日排日貨運動を引き起こした。昭和七(一九三二)年の第一次上海事変では、日本に対して、租界に権益を持つイギリス・アメリカ・フランス・イタリアといった列強だけではなく、国際連盟の中小国の反感まで買った。
支那事変は、蒋介石を屈服させ、満洲国を承認させ、華北を切り取り、反日排日貨運動を取り締まらせ、中華民国を従属させる良い機会だと、南京・徐州・漢口・広東を攻略したが、蒋介石は重慶まで逃げた。当時の近衛内閣は、蒋介石を切り捨てる「国民政府を対手とせず」から、蒋介石に妥協を求める「東亜新秩序」まで、後退することになる。
イギリス・アメリカ・ソビエトによる直接の蒋介石支援だけではない。フランス領インドシナ西部のハイフォンから、昆明までの鉄道輸送を利用した蒋介石を支援するルートもあった。イギリスも、アメリカも、ソビエトも、三国とも日本の対立国になっていた。
板垣陸軍大臣は、「観艦式」でジョージ六世を迎えなかったのは、イギリス・アメリカは一体ではないというメッセージではないかと主張した。米内海軍大臣は、「観艦式」の工期の問題だろうと一蹴した。
支那事変は、日本の国力を弱める泥沼になっていた。
昭和一三(一九三八)年七月一五日、閣議で、東京市での1940夏季オリンピック、札幌市での1940冬季オリンピックの返上が決定された。世田谷の駒沢ゴルフ場に、総工費六七六万円で、常設・仮設スタンドを合わせて収容人数一一万人の世界最大級スタジアムを建設する計画だった。
支那事変の勃発から、一年が過ぎていた。前年の一〇月「鉄鋼工作物築造許可規則」で、軍事施設以外の建設に五〇トン以上の鉄鋼の使用が禁止された。一〇〇〇トンもの鉄材を必要とするスタジアム着工は、企画院に容認されなかった。
当時海軍次官の山本五十六中将は、「競技場新設に要する鉄鋼の量はさほどではないが、それでも駆逐艦二隻は建造できる」として、オリンピック開催には反対していた。近衛内閣で、オリンピック開催に、唯一賛成していた文部大臣の荒木貞夫陸軍大将も、スタジアム建設には疑念を示した。
来年開催される予定だった、1940夏期・冬季オリンピックを返上しなければ、今年四月公布した「米穀配給統制法」などの統制経済下で、東京市・札幌市・日本国は、ベルリンでの1936夏期オリンピックと比較するまでもなく、国威が地に落ちていただろう。
支那事変は、日本の国力を弱める泥沼になっていた。
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