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日系の渡邊帝国は満州国を外交上承認するのか(2)

   陸軍築城部本部 東京市 麹町区

   昭和一四(一九三九)年 七月八日


 今年の三月九日、陸軍築城部本部長に着任したばかりの野口正義少将は、粒子の荒い引き伸ばした電送写真を手に取っていた。陸軍省からの問い合わせだった。


 陸軍築城部は、要塞建設における砲台配置、砲台の備砲工事などを担っているので、それに関する問い合わせ自体には何の問題もない。


 七月一日から、ニューヨーク湾で、戦艦を模した艀だか筏だかを電飾で飾り立てて、夜な夜な「観艦式」を仕立て上げ評判になっていることは、野口も知っていた。


 それが、太閤秀吉の墨俣の一夜城のように、一夜で、水上に要塞を建設できるかという問い合わせになるとは、野口には、思いもしないことだった。



「一六インチ五〇口径砲。それも、三連装を戦艦の砲塔に収める?‥‥どう考えても、戦艦を建造したほうがましだろう」と、野口は、写真を机に投げ出した。


 上から撮った航空写真を含め、二枚の電送写真がそこにあった。


「本部長閣下。一六インチ砲は兎も角。水平をとって、浅瀬に乗り上げた砲艦に、後から装甲を貼り付けて、水上のトーチカにするということでしたら、事前の準備があれば、出来ないことはないと思いますが‥‥」


 事前に、船体に合わせた杭を打って、それから砲艦を水上に固定するという手もありますと、もう一人が続けた。


「‥‥この戦艦擬きは、潮の満ち引きでも、喫水線が変わらないらしいぞ。そして、船体全部が、海底に埋まっているとも記されている。水線長凡そ二七〇メートル、水線幅凡そ三七メートルだと?」


 アメリカの陸軍工兵隊ならやってのけるだと、野口は、腹に据えかねたように続けた。


「事前に、どんな準備をするにせよ。多摩川・隅田川・荒川・江戸川で。どの河口でもいい。そんなことをして気づかれないと思っているのか?連中は」



 明治四一(一九〇八)年五月、野口は、陸軍士官学校を卒業し、同年一二月工兵少尉として任官した。


 明治三七(一九〇四)年二月から始まり、明治三八(一九〇五)年九月まで行われた日露戦争には、野口も、大きな影響を受けていた。日露戦争では、戦地からの電報、写真の掲載による新聞社の競争も激しかった。


 大正五(一九一六)年七月、院外学生として、野口は、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業している。その後、長い間、陸軍技術本部に籍を置いた。工兵の技士としての矜持もある。



 写真、文字を電送する基礎になるファクシミリの英国での特許取得は、天保一四(一八四三)年で、アレクサンダー・グラハム・ベルによる米国での電話機の特許取得よりも、三〇年以上も前のことだ。原理だけで、実用化には程遠かったが、明治維新よりも前のことだ。


 昭和三(一九二八)年一一月天皇陛下の即位の義で、日本電気のNE式写真電送機が、フランス・ドイツの写真電送機に勝るとも劣らない出来を見せ、大いに気を吐いた。文字と写真では、白黒の色のトーンをそのまま出せる、写真の伝送の方が容易だった。


 昭和一一(一九三六)年八月のベルリン・オリンピックでは、日本電気のNE式写真電送機で、ベルリン中央電信局・ナウエン送信所・埼玉県小室受信所・東京中央電信局を繋ぎ、キャビネ判(一三〇ミリかける一八〇ミリ)の写真一枚を、一五分から二〇分で送る無線電送実験に成功している。


 

 日本陸軍では、その兵力数から、アメリカの陸軍を軽んずる風潮があった。野口は、同じ工兵として、アメリカの陸軍工兵隊を侮ったことはなかった。侮れるはずがない。


 それにしても、これはない。


 陸軍省の問い合わせの数字では、水平を取ろうとするだけで、ほとんど鉄橋の建設と大差はなかった。マンハッタン島が、高層建築物の立ち並ぶ強固な土台であることは知っているが、誰にも気づかれないようにというのは不可能だ。



 大正四(一九一五)年に、マンハッタン島の東を流れるイースト川を跨ぎ、マンハッタン区とブルックリン区を繋ぐ、正式に「ブルックリン橋」と呼ばれるようになった橋がある。イースト川に、二基の塔を建てて、その塔から伸びる鋼鉄のワイヤー・ロープを用いて、垂直方向と斜めの二方向から橋を支える構造になっていた。


 その塔の土台は、ひっくり返した木の箱をイースト川に沈め、水が入ってこないよう、その中に高圧空気を入れて、岩盤までの土砂を作業員が除去した後、その木の箱の上に塔を建設した。


 ブルックリン橋は、旧暦の明治二年一二月一日(一八七〇年一月二日)に建設が開始され、明治一六(一八八三)年五月二四日に開通した。旧暦の明治元年一二月二三日は、グレゴリオ暦一八六九年二月四日のことだ。旧暦から新暦への移動により、旧暦の明治五年一二月三日(一八七三年一月一日)が、新暦の明治六(一八七三)年一月一日になった。



 潜水士を使った工事だとしても、人目につくことは同じだった。ニューヨーク港の港泊図・海岸図と、戦艦擬きの位置を、比べてみるまでもなかった。


 潜水士船ではなく、酸素ボンベを積んだ小型の潜水艦からヘルメットまでホースを繋いで、夜間に灯火管制をしながら水中での作業をしていたとしても、一六カ所もある。コニー・アイランドになると、大海水浴場のすぐ側の遠浅の海岸線だ。


 明治三一(一八九八)年四月に始まった米西戦争から、アメリカの陸軍工兵隊は潜水士を抱えて、それ以来、アメリカの国内外で活躍しているのは、野口もよく知っていた。


 それにしても、これはない。


 明治維新の頃には、既に蒸気機関を利用した浚渫機が用いられている。大ニューヨーク港は、アメリカ陸軍工兵隊の監督下で、世界屈指の浚渫船の艦隊が水路を維持していた。


 オーストラリアで、真珠取りに従事していた日本人の潜水士は、最盛期三〇〇〇人を数えたという。その三〇〇〇人の潜水士が気づかれないよう、夜間にバケツリレーで浚渫をしている光景を想像し、野口は口を歪めた。



 今の陸軍では、国家総力戦構築の実現を目指す統制派が、陸軍を牛耳っている。野口は、一人の技士として、統制派の出している数字に根拠があるのか、疑問に思っていた。そこにこの戦艦の問い合わせがきた。


 これでは、統制派と皇道派の争いは、玉川勝太郎の講談『天保水滸伝』と、頭の中身が変わらなかったのではないかと、野口は思った。


 陸軍大学校の卒業者は、上衣右乳部下方に着ける徽章がある。天保通宝に似ていた事から「天保銭組」と称せられた。明治四(一八七一)年一二月、天保通宝は八厘通用となった。それで、一銭に満たないという意味で、知恵の足りない者、役に立たない者を嘲る意味もあった。


 野口は思った。


 これでは、天保銭の天保とは、明治五年の明治改暦で、新暦のグレゴリオ暦となり、旧暦となった天保暦のことではないかと。


 

 


 

 不定期更新です。


 ファクシミリの特許取得は、五月。電話機の特許取得は、三月なので、西暦と和暦で用いた年の間に、齟齬はないはず。

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