8.仲間
『カラン』
喫茶店のドアベルが優しく実花を迎え入れる。
「おはようございます……」
重たい大きな影を背負ってバイト先の喫茶店に入る実花。
翔太と沙彩の音楽室での出来事を目撃してからというもの、急激に元気を失くした彼女を、森下駿は心配していた。
彼は音大ピアノ科2年生で実花の学校の卒業生だ。
王子様のような端正な顔立ちに、包み込むような優しさ、そしてピアノの高い技術を持ち合わせている彼に女性が黙っているはずがない。
それでも全くぶれることなく今でも実花を想い続けている。
翔太に再会するまでも、実花の孤独な心は、駿のピアノに何度も癒されて、救われてきた。
ところが去年の文化祭の舞台上で、ずっと想いを寄せてきた実花に、駿はひょんなことから告白することになってしまったが、悲しい事にピアノの演奏も彼女も、翔太に完全に持っていかれててしまう。
それでも彼は卑屈になることなく、二人の想い合う姿に心動かされ、完全に敗北を認めていた。
とは言え、駿の中ではやっぱり実花以外の女性に、今だ目を向けることが出来ず、辛い状況に置かれていた。
「実花ちゃん……、狭山君となんかあった?」
実花の元気のない顔を見ていると、やっぱり放っておけない。
「……そんなこと……」
俯く彼女の姿が今にも壊れそうで、とても見ていられなかった。
「あれ? 実花ちゃん、今日シフト入ってたっけ??」
厨房の中から出てきて声を掛けるのは、駿の妹である、森下ユミだ。
彼女も、最終的には実花と翔太の絆を目の当たりにし、失恋を認めざるを得なかった一人だった。
ユミはサッカー部のマネージャーだった。
当時、翔太の彼女だと自分で噂を広め、美男美女でお似合いだと、周りもそれを信じて疑わなかった。
しかし、駿と同じく文化祭の一件で、実花と翔太の関係が公になり、ユミは翔太の囲いたちにあることない事を言われてしまう。
自分が二人にしてしまった事へのしっぺ返しなんだということは、ちゃんと分かってはいたが、だんだんマネージャーとしてサッカー部に居づらくなっていった。
結局退部を余儀なくされ、行き場を失くした彼女は、兄と実花のいる喫茶店でバイトを始めていたのだ。
翔太の恋人のポジションに我が物顔で居座っていたユミに、実花は過去にはたくさん辛い思いをさせられていた。
でも今となっては怒りや憎しみなんて感情は全くなく、むしろ美人で女性らしい彼女に憧れを抱いていたし、話してみればとても魅力的で情に厚い女性だと知り、快くユミをバイト仲間として受け入れていたのである。
「今日はシフト入ってないんですけど、なんだか気が付いたらここに来ちゃってました」
恥ずかしそうに作り笑いをする実花が、痛々しくユミの目には映る。
「……さては、木内って娘の事でしょ??」
翔太と沙彩の噂は、ユミの耳にも届いていた。
「えっ……と……」
ユミの直球な質問に、言葉を濁す実花。
「分かるわよ。学校で噂持ちきりだもんね……」
ふぅ……、と呆れるようにため息をつく。
「翔太君がそんな簡単に実花ちゃんの事手放そうって思うかしら……?」
文化祭で披露した翔太の熱烈な実花への想いは、とても簡単に揺るぐことのないものだと、ユミは当時の事を思い出す。
「……ん? 沙彩? 木内沙彩?」
駿が思い出したように名前を確認した。
「そうよ? まさか、お兄ちゃんも知ってるの??」
意外そうな顔でユミが駿を見る。
「あぁ……。うちの大学のイベントとか、定期演奏会とかある度に顔出してくる娘だよ。ピアノ科でも結構知ってるやつ多いと思うよ? 彼女可愛いし……。なに、相手その娘なの……?」
駿は怪訝そうに、ユミの表情を伺った。
「そうよ!! 翔太君とよく音楽室でイチャついてるって噂で最近持ちきりなんだから!」
そう言い終わった後に実花の存在を思い出して、両手で口を塞ぐ。
「ごめんね……実花ちゃん……」
すまなそうなユミに気を遣わせまいと、実花は頑張って笑顔を作った。
「やっぱり、木内さんの事、好きになっちゃったのかな……?」
ポツリと呟いた実花の悲しそうな顔に、駿は翔太に対して怒りを感じ始めていた。
「実花ちゃん、今日これから僕とデートしてくれないかな??」
突然の駿の言葉に、ユミも実花も耳を疑う。
「そんな、私翔太がいるのに無理ですよ!」
実花は動揺しながら即答した。
「じゃ、デートじゃなくて、コンサートに付き合ってくれないかな? 実花ちゃんの好きなピアニスト、この前ロシアから来日するって言ってたでしょ? チケット二枚もらっんだけど、やっぱり本当に聴きたいって思ってる人と行くほうが楽しいし。実花ちゃんの感想も聞いてみたいしさ!」
にっこりと笑う駿の瞳の奥には包み込むような優しい温かさがあった。
「……でも……」
過去とは言えども、駿の気持ちを知っている実花はためらった。
「実花ちゃん、たまには息抜きしたら……? 辛い事ばっかりじゃ、いつか爆発しちゃうよ?? お兄ちゃんは一度実花ちゃんにちゃんとフラれてるんだから、これ以上何か求めようなんて思わないよ、ね?」
チラッと駿を見ながらユミは言う。
「もちろん。安心して!」
ユミに背中を押されながら、優しい駿の笑顔に少しずつ、心が動き出す実花。
このまま翔太の事ばかり考えていたら、気がおかしくなってしまうかもしれない……
気分転換に好きなピアニストの演奏を聴くのもいいかな……と考え直した。
「じゃあ、駿先輩。連れてっていただけますか?
ペコリとお辞儀をする実花に、ほんの少し笑顔が戻る。
ユミは翔太が沙彩と付き合うようなことは絶対ないと確信していた。
それだけ実花と翔太の絆が強い事は、もう十分すぎるくらい見せつけられてきたからだ。
でも、翔太には心が繋がっていれば、周りにどう見られようが絶対に大丈夫だ、そんな過信があるように見えて、それがどうしてもユミには納得いかなかったのだ。
いくら自分が相手を想い続ける自信があったとしても、伝わる行動をしなければ実花にしても沙彩にしても、無駄に傷つく人が増えると言うことを、自分もその被害者の一人として、翔太に肌で感じ取り気づいてもらいたかった。
「実花ちゃん、駿と一緒に行ってきな!」
遠くから様子を見ていた金谷店長がそう言って、駿に目配せする。
(本当は俺と行く予定だったのに……)
店長の気を利かせた笑顔の裏には、一緒に行く予定だった楽しみにしていたコンサートを蹴ってでも、駿と実花の事を想う親心があったのだ。