収穫の歌
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よう、つぶらやじゃないか。いいのかい? こんなところでぶらぶらしていて。確かお前に任せておいた企画案、GW明けまでだと思ったが、もう終わったのか?
――え? 根詰めてばかりじゃ、効率は上がらない?
ほう、そうかい。ずいぶんと余裕をこいているじゃねえか。まあ、徹夜とかで時間を費やして、体を壊すよりはましか。
だが、それも内容が伴っていれば、だな。いかにも寝ぼけまなこで、できそこないのものを出しながら「頑張りました〜」とでも言いたげな態度は、はっ倒したくなるんでな。
長え時間をかけても、それが質に結びつかねえ自己満足、自己弁護に過ぎないんだったら、「とっとと寝ろ」と思う。寝不足で体調崩してまで、自分が仕事を終わらせられない無能アピールをしたいとは、とんだ嗜好をお持ちのようで。
あと、俺が同じくらい嫌いなのは、口先だけの野郎だな。こいつもまた、ちゃんと仕事をやりやがらねえ。大口を叩く割にな。舌回すより頭回せと何度思ったことか。
有言実行。シンプルだが、これができる奴は評価を高めることにつながる。ただ目的を公にする分、邪魔も入りやすいんだがな。
お前、どうせ今は気が乗らないんだろ? ならこの話、みやげものだと思って、持って行けよ。
むかしむかしのとある村。将来を担う者たちとして、子供たちは野良仕事を教え込まれていた。
その日も日暮れ前まで働かされる。そこまででもかなりくたびれるし、夜には内職の手伝いをしなくてはいけない。「最後の仕上げは自分たちがやるから、家で休んでいろ」と大人たちから指示を受けて、ぞろぞろとあぜ道を歩いて行く子供たち。
その帰り際。大人たちが仕事を終えて、今は無人となっている田んぼの方から、人の声が聞こえる。
「せっせ、せっせ。準備、準備。秋に向けての実りの準備。おっきく実れよ、僕らの仕事。せっせ、せっせ」
小気味よい拍子で繰り返される、かすかな歌声。それは自分たちと大差ない年頃の、子供たちによるものと思われた。
「おーい、今日はもう仕事はいいってさ」
集団の中のひとりが、歌が聞こえてくる方角へ向かって、声を張り上げた。しかし、歌が止む様子はなく、「誰だか知らないが、放っておけば戻るだろ」と子供たちは引き続き、家への道を歩いていく。
田んぼは広大だ。今日も、村の者が全員一カ所に固まっていたわけではなく、まばらに散って作業をしていた。明日にでも、歌の主を探してみようという流れになったとか。
ところが、翌日になって朝飯前の仕事を始める時間。昨日、自分たちと違う区域を担当していた子たちへ話を聞いたところ、あの歌を歌っている人はいなかったとのこと。それどころか、初めて聞いたという子ばかりで、かえって驚かれてしまったとか。
大人たちにも尋ねてみるが、「拍子をとる歌でもあるまいし、そんなことよりとっとと仕事を覚えろ。じきに『お田植』をお前たちに覚えてもらわねばならないのだからな」と、ぞんざいに一蹴。早く子供たちを野良仕事の戦力にしたいと、急いている気持ちが、にじみ出ていた。
彼らの住んでいた場所では、秋の豊作を願い、田植えに置いて特別な儀式を行っていた。笛太鼓を用いてはやし立て、女たちは着物にたすきをかけた「早乙女」の姿になって、苗を植えていく。
それぞれの家では、これらの道具の準備が、入念に行われていたんだ。
一向に信じてくれない大人たちに対し、子供たちは姿の見えない歌い手たちへの不安を、ますます募らせていたらしい。時間を見つけて声がした場所を探ってみても、それらしい人影は見えなかった。
すでに田んぼには水を張り始める時期。もしも田んぼに入っていたならば、逃げる時に水音が立ってしまうし、あぜ道も大いに濡れるだろう。なのに、あぜの砂利には不審な足跡などは残っていない。
――もしかしたら、田んぼの神様の歌なのかも。
そう、子供たちの一部が口にし始めた。自分たちが仕事をしていない間に、神様が実りに対する祈りを、歌に込めて広げているのではないか、と。
本当にそうだとすれば、ありがたいこと。けれど、それならばなぜ、自分たちの前へ姿を堂々と見せないのだろうか? 何か事情があるのではないだろうか?
子供たちは考えを巡らせてみたが結論は出ず、やがて「お田植え」の時がやってきた。
当日は水温が高く、風が少なめで陽もかげり気味と、田植えにとっての好天だったという。
お田植えはまず、豪華に着飾った牛が田の周囲を巡ることから始まる。これから執り行われる田んぼに敬意を払い、祝福を与えるためとか。
年配で田植えの指揮を執る人は、百をも超える種類の田植え歌を奏で、拍子と共に仕事がはかどるように考慮する。
子供たちが話す田んぼからの歌声に対し、大人たちがいい顔をしない一端はここにあった。よその歌に引かれて、伝統ある歌い上げを、崩されてはたまったものではないからだ。
早乙女たちはその歌に従い、田植えの作業を。男たちは楽器を演奏して囃し方となる。いずれも普段の農作業とは違う、華やかかつ疲労が溜まる行事だった。
だが、その末席に加わる子供たちの意識は、例の歌声へ傾いている。聞こえてくるんだ。やはり、この時も。
いくつも変化していく田植え歌に混じり、終始変わらない幼子たちの小さな歌が。
「根をはれ根をはれ、僕らの実り。深い深い地の底で。育って育って、獲り放題。何がにょっきり顔出すか。いずれもいずれも、露知らず」
お田植えが続いている間、子供たちの耳にはずっとその歌が響き続けていたそうだ。一度、あしらわれてしまった大人たちへ、この話題をふる気は、とうてい起きなかったとか。
――神様のいう実り。何を意味しているんだろう。
子供たちは時間を見つけては、こっそり談義を続けていた。
苗は植え終わった。これから暖かい季節に身を任せ、根を深く張っていき収穫の時を待つのは自分たちも分かっている。けれども、歌の後半部分が気にかかる。
「何がにょっきり顔出すか。いずれもいずれも、露知らず」
自分たちは苗が稲穂へと育っていくことを知っている。それはもう、物心つく頃から目にし、たたき込まれてきたことだ。
それが「露知らず」と歌われてしまった。自分たちが全く知らない何かが、今年の秋に生まれ出ようとしているのでは……。
「父ちゃんたちはくだらないことと言っているが、俺はそうは思わない。先に手を打って、父ちゃんたちを守るぞ」
一同はうなずきあい、早くもその日の深夜に、こっそり起き出して行動へ移した。
彼らはみんなが多大な労力を払って植えた稲たちを、引っこ抜き始めてしまったんだ。
根をはり、地の底で育つ何か。それを先手を打って、潰してしまおうという腹だった。自分たちの食料に、被害を与えるとしても。
けれども、親たちの目をあざむくことはできなかった。夜中に目を覚ました大人のひとりが、子供の姿がないことをいぶかしみ、田んぼで暴挙を働く子供たちを見つけてしまったんだ。
瞬く間に集まった大人たちにより、子供たちはたちまち取り押さえられてしまう。駄目にしてしまった苗たちの前で、きつく折檻される子供たち。
例の歌のことも話したが、火に油を注ぐ結果となった。その日から彼らの仕事量は倍以上に増やされ、くたくたになるまで働かされたという。
そして収穫の時。例年にないほどの豊作に恵まれ、駄目にした苗の分を差し引いても余りある量の稲穂が、田で揺れることになった。これもそのほとんどが、子供たちの手で刈り取られた。
だが、問題はそれからだった。年貢として献上され、あるいは蓄えとして村へとどめ置かれた米たち。これを食した者はたちどころに腹を下してしまうばかりか、三日も経たないうちに命を落としてしまうことになった。
その上、体の腐敗も早く、一刻(約2時間)も放っておけば、もはや体中のあちらこちらが黒ずみ、悪臭を発するようになってしまったという。
葬儀もそこそこに、すぐさま焼かれてしまった遺体たち。不気味な有様に、残った骨は一カ所にまとめられ、葬られたらしいんだ。
他の者の墓からは距離を置かれて、用意された骨の塚。そこからは夜な夜な、骨をかじったりしゃぶったりする音が聞こえたが、その主の姿を見た者はとうとういなかったという。
あの歌の歌い手たちは、自分たちが口にした通りの収穫に、ありつけたのだろうな。