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杏奈さんは少女初心者  作者: 秋瀬 満月
少女の初心者は高校生に。
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初登校日7

 夕方の五時半を少し過ぎた頃。

 杏奈は近所の生鮮食品スーパーから、一人エコバッグを提げて帰ってきていた。本日二度目の買い物である。

 その中には、五時からのタイムセールで勝ち取った戦利品が入っていた。そこでは新鮮な鮭の切り身を手に入れ、今日の夕食は鮭のムニエルにする予定だ。


 真奈たち三人はと言えば、買ったケーキを食べた後、三時半頃に帰って行った。

 何故そんな中途半端な時間に帰って行ったのか。その理由は、意外にも早く動き出した赤緑線にある。


 線路の通る高架に穴が開くというかなり大きめな器物破損事件(だと杏奈は思っている)があったにもかかわらず、電車は午後二時過ぎに運行を再開した。


 大穴が発見されてからわずか二時間半ほど。


 警察の現場検証が終わったとも思えないのに再開してもいいのか。その辺りの事情は良く伝わってこない上に、晶が昼に見ていたあのテレビの速報以来、現場を直接映した映像は流れなくなっていた。

 恐らく今後もこのことはニュースなどでほとんど話題にされることなく、忘れ去られていくのだろう。

 杏奈たちの知らない、どこかの社会の闇に所属する者たちの手によって封じられて。


 しかしそんな裏社会とは全く関係のない真奈たちにとって、電車が動き出したというのは嬉しいニュースだったに違いない。とはいえ、動き出してすぐはギュウギュウ詰めだから乗りたくないと言って、ケーキを食べてから帰るという話になったのだ。


 駅に着いたらしい紗江からのメールでは、ダイヤはまだ滅茶苦茶なままだが、満員電車には乗らずに済みそうだということだった。

 三人が心配していた明日以降も、再び止まることはないだろうと鉄道会社は発表していて、ほとんど大きな影響はないまま、早くもこの事件は一区切りがついたようだ。


 友人三人がいたリビングはまた一人に戻って広くなってしまったが、それも覚悟していたこと。杏奈は特に気にもしていない。


 この時期のこの時間になると、買い物からの帰り道が夕陽に向かって歩くことになって、かなり眩しいのは辛いが。


 と、その夕陽を背にマンションの入り口より向こうから、人が一人こっちに歩いてくるのが見えた。逆光で人の形だけしか分からないが、そのシルエットや歩き方から男だということだけは分かる。

 そして少しずつあらわになってきたその男は、偶然にも同じマンションに住む同じクラスの男子生徒、楠本達哉だった。


 制服姿でいるところを見ると、まだ家には戻っていなかったようだ。


「今帰ってきたのか?」

 朝の一件でかなり印象を悪くしたかも知れないと予想を付けているが、そんなことは気にしないように杏奈は軽いノリで話しかけた。


 ……のだが、


「? 誰だっけ?」

 相手は杏奈を見てもピンとこないようで、訝しげな目でそう言った。

 嫌われたどころか、覚えられてすらいなかったのだろうか。


「ああ、自己紹介とかしてなかったか」


 朝と変わらず、杏奈には興味が無いというようにエントランスへ入っていく達哉についていきながら、彼女は応える。

「如月杏奈って言うんだ。覚えてないか? 同じクラスでひとつ前の席の。朝もここで声かけたけど」


 朝の話題を出すのもどうかとは思ったが、思い出してもらうにはいいネタになるだろうと、明るい調子で言ったのだが、

「ああ、あの時の子?」

 達哉は、覚えていなかったにしては短い時間でそう答えると、一瞬だけ杏奈を見ると、ため息と一緒に「ホントだ」と言う。


 そしてロビー入り口の自動ドアに近付くと、ドアを開くためのボタンを押す。建てられてまだ数ヶ月しか経っていないマンションの入り口は、ほとんど音を立てることなく開いた。

 このマンションの自動ロックは、エントランスにいる人間が持つカードキーを判別して、このボタンを押した時にウンタラカンタラ……とにかくハイテクな技術が使われているらしいのだが、ただ家に入るためだけに必要なこのひと手間が、杏奈にとっては邪魔に思えてしかたないのだ。


 しかし達哉は特に何も感じていないように、慣れた様子で開いたドアを通り抜ける。

 その合間に、ふとインターフォンの横にある住居者の名前が書かれた全体図を見た杏奈は、「げっ」とほとんど聞こえないような小さな声で呻いた。


「お前は確か、楠本だったよな?」


 そして杏奈は、学校のクラス表で覚えたのだからわざわざ訊くこともないのだが、確認の意味を込めて質問を投げかけた。

「そうだけど」

 すると予想通り、すぐに肯定する返事が返ってきた。


 なぜそんなほとんど意味のない質問をしたのか。それは、全体図の中に「楠本」という苗字がとんでもない所に書いてあったからだ。


 このマンションは十二階建てで、分譲中だった時、見学者はモデルルーム以外にも契約されていない空いている部屋ならどこでも好きに直接間取りを確認することができた。

 初めて見に来た時にはすでに十二階にある唯一の部屋は埋まっていて見れなかった。しかし十一階のたった二部屋しかないうちの一つ、その時は空き部屋だったが今は「楠本」と書かれている一一〇一号室を、杏奈は香織と一緒に見学させてもらっていた。


 その部屋を購入候補としてあげていた訳ではないのだが、

「折角だから見たいじゃない?」

 という、彼女のその場のノリで見学することになったのだ。


 十一階にある部屋は、今住んでいる三〇一号室と比べると倍どころではない程の床面積があったように思うし、値段は今住んでいる部屋を四室買ってもお釣りがきてしまうほどだった。


 ごくごく一般的な所得の人たちには、まず手が届かない物件だろう。


 全体図の他の場所には楠本という苗字の書いてある部屋はなかったから、まず間違いなくこの男は、そんな高額な一室を買えてしまうような金持ちの家の御曹子ということになる。


 しかも楠本といえば、この国で経済界に一番影響力を持つと言われる財閥の名前と同じだ。彼の家はもしかしたらその財閥に所属する企業を持っているのか、いっそ財閥会長の親族ではないか……とも考えてしまう。


 ともあれ、学校では女子の目線を集めていたほどのイケメンで、家はかなりのお金持ち。恐らく成績も優秀なのだろうと杏奈は勝手に想像する。

 まさに絵に描いたようなステータスを持つ人間が、自分と同じマンションに住んでいるなんて、杏奈にはとても信じられなかった。


「オレがここに住んでるってこと、あまり言いふらさないようにしてくれないかな」


 ロビーに入ってからも入り口の方を振り返っている彼女を見て、達哉はそんなことを言う。

 何か周りに知られたくない理由があるのだろうかと杏奈は一瞬考えたが、すぐに思い当たることがあった。


「ああ、マンションから出て速攻で誘拐とかされたら、たまらないからな」

 見たところ細めな体型の達哉は、屈強な男数人に囲まれれば抵抗すらできないまま攫われてしまうだろう。

 黒塗りのワゴン車に連れ込まれてそのまま走り去ってしまう光景が、違和感なく想像できるほどだ。そしてそのまま身代金の要求を……なんて、確かに笑えない冗談である。


「……。そうじゃなくて」

 ところが、達哉にとってはそうではなかったらしい。杏奈にはボケたつもりはないのだが、まるで「そんな下らないこと考えてるの?」と言いたそうな目で見られてしまった。


「押しかけられたくないんだよ。女の子たちに」

「……ぇ」

 そして続けて発せられた本当の理由に、杏奈は一瞬固まってしまった。


 教室での達哉の様子から、最初に思いついたもののすぐに下らないと却下した答えだったのだ。彼女は思わず苦笑いをうかべる。

「分かった分かった。他人の個人情報なんて、そう簡単に言いふらしたりなんかしないって」

「そうかな。本人のいない所で噂話したりするのが女の子でしょ」

 お互い今日が初対面のはずだが、やはり達哉は杏奈に対してイライラしているようで、その感情は不機嫌そうな態度だけではなく言葉にも表れている。


 学校で他の女子たちには社交辞令にも似た作り笑顔で接するような人間が、杏奈に対してはどうしてここまで刺のある態度をとるのか。そして彼女に対してだけではなく、女子たちの噂話を疎ましく思っているようなその発言も、意外だった。


 しかし彼女は、達哉の態度を気にすることはなかった。

「お前が今まで接してきた女子はそうだったかも知れないけど、わたしはそんなことしないよ。ただ、わたしが友達を呼んだ時に偶然出くわすってことは……あるかも知れないけど」

 やんわりとではあるが、杏奈は自分が敵ではないということを言葉にしておく。それでもまだこういう態度を続けられるのなら、彼をあまり刺激せずに済む距離をこれから探っていくしかないだろう。

 今日から一人暮らしとなる杏奈にとって、トラブルを起こさない人付き合いは必要不可欠なのだ。


 一旦ここは引き上げようと、杏奈は達哉に背を向けて一階の奥へと続く廊下を歩き出した。

 振り向かないまま、言葉を続ける。


「無理にとは言わないけど、同じマンションに住んでて同じ学校に通い始めたんだ。友達として仲良くしてもらえると、わたしとしては嬉しいんだけどな」

「……」

「んじゃまた明日。たぶん学校で」


 達哉は杏奈の言葉には何も返さないまま、去っていく後姿を少しの間見つめていたが、しばらくして一階にやってきたエレベーターに乗ると、十一階のボタンを押して自分の部屋へと帰っていった。

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