変わらなかった関係、変わっていく気持ち5
如月杏奈は考える。楠本達哉との関係を。
本当であれば、彼女は彼の気持ちを完全に遠ざけるつもりだった。
何故なら、自分たちの間には大きすぎる身分の違いがあって、あまりにも深すぎる立場の溝があって、どう考えても致命的すぎる程カラダのつくられ方に差があった。それぞれの立場や住んでいる世界が違いすぎて、実は知り合うことすら罪なのではないかと思うほどなのだ。気持ちを受け入れるどころか、どんな想いを寄せられているかすら知ってはいけなかったのではないかと思っているほどだ。
それなのに今日、達哉は、杏奈が元々男だったことや、実験体という立場で人工的に造られた躰を持つと知ったというのに、今までと接し方を変えなかった。それはつまり、杏奈を自分と同じ人間として扱っているということで。それが彼女からすれば不思議で仕方がない。
どうして未だに自分を人間として見ていられるのか。
どうして未だに自分を女として扱うことができるのか。
杏奈が逆の立場だったら、恐らく迷うことなく関係を考え直していると思うのだ。人として見ることをやめなくとも、恋人にしようとは絶対に思わない。
逆にいえば、いつかはそうなると思っていたからこそ、今まで頑張って平静さを保ってこられていた。
そして、いつか距離を置かれるだろうと思っていたから、彼の好意を突っぱねることができていた。
そして今日、予想していたよりもその日が早くやって来た。唐突な来客で、彼女からすれば予想もしていなかった出来事ではあったが、思ってもいないタイミングだったからこそ、揺さぶられつつあった決心をしっかりと形にするべき時が来たと覚悟ができたというのに。
達哉は、全く態度を変えることがなかった。
だからこうして色々と悩んでいるのだが……。
もう悩むのはやめよう!
と、杏奈は考えることをやめる決断をする。
元々何かを深く考えることなんてしてこなかったというのに、ここ一ヶ月ほどは悩みごとや心配ごとがあれこれと積もり積もっていたのだ。そろそろ、不安を抱え続て気持ちを張り詰めるのにも限界が来ていた。
それに、前向きに考えれば今日は良い日だとも言える。
自分の秘密を知ってそれを受け入れてくれた、理解者が増えたのだから。
つまり色々と頼りやすくなったということだし、隠し事が無いのなら気兼ねなく接することもできるのだ。
その日、タイムセールは逃してしまっているが、上機嫌で達哉と並んで買い物をする杏奈の姿があった。
そんな彼女には想像なんてできていなかった。
数十分後、
「オレももう限界なんだ。だから杏奈、お願いっ!」
切羽詰まった様子で頭を下げる達哉を、目を丸くしながら顔を真っ赤にして見つめることになるなんて。
◇◇◇◇
買い物を終えて帰ってきた杏奈の隣には、当然ではあるが達哉の姿もあった。
「ただいまっと」
普段から一人暮らしの杏奈ではあるが、帰ってきた時にはいつも声を出して「ただいま」と言っている。
しかし今日は一人ではないし、達哉には買った荷物を持ってもらっている。狭くはない玄関とはいえ、スペースを広く開けるために手早く靴を脱いで達哉を招き入れた。
「えっと、ただいま?」
「ん、おかえり。荷物持ってもらって助かったよ、ありがとな」
本来であれば達哉はお客さまだ。そんな彼に荷物持ちなんてしてもらっては申し訳ないし、家に上がるのだって手が塞がっていれば靴を脱ぐのも少し大変になる。そう思ってエコバッグを受け取ろうとしたのだが、
「大丈夫だよ、そんなに重くないし。リビングまで運んでおくね」
なんとも優しいことを言われてしまった。
とはいえ楠本達哉とはそういう男なのだと杏奈は思い直す。例えばこれまでもあったと思われる文化祭などの行事でも、準備のための買い出しをすればどんな女子が相手でもこういう言動をするのだろう。
思いやりの気遣いか、はたまた良く思われたい格好付けか。
数時間前までの杏奈なら、どうせ良く見せたいのだろうと決めつけて無理矢理にでも反発して見せていたのだが、今は冷たくあしらう根拠を見失ってしまっている。
「……ありがと、テーブルの近くの置きやすいところに置いておいてくれるか?」
しかし彼の優しさに変に慌てることもなく、運んで欲しい先を伝えてリビングへと送り出すのだった。
そして、揃っているとはいえ爪先がこちらを向いている達哉の靴を整え、自分のも彼が帰るときの邪魔にならないように端へと寄せてからリビングへと向かうと、
「ここに置いておいたよ」
「さんきゅー」
達哉によってダイニングから一番近い椅子に置かれたエコバッグの中から、そして冷蔵庫からも夕飯に使うものを取り出して、料理の準備を始める。
今日のメニューは、達哉がリクエストした「普通の和食」だ。ご飯と豆腐の味噌汁に、おかずは焼き魚と作り置きしてあった春雨やキュウリなどを使った酢の和え物と、たくあん。
焼き魚の方は、アジの切り身がちょうどいい量と値段でパックしてあるのを発見して、買ってきている。
店内を見て回っているときに、リクエストした本人に食べたい魚の種類はあるのかと訊いてみたのだが、
「んー、特にこれといって無いけど」
と適当すぎる返事だったため、じゃあこれでと決めたものだ。
いつものようにエプロンを付けて、髪を後ろで一つにまとめて、手を洗ったら調理開始。
この一ヶ月の間には、晶たちが二、三度遊びに来たこともあったが、彼女たちが台所に立つ杏奈へと視線を向けていたのは、入学式の日に来たあの時だけだった。
食事の準備ができるまではスマホを触っていたり、雑誌を読んでいたり、ソファに寝そべってテレビを見ていたり、何やら話をしていたり。少女たちは、たった数回来ただけですっかり自分の家のように寛ぐようになっている。
対して達哉は今日が初めて。
そんな彼はダイニングテーブルに座って、カウンター越しに杏奈の姿をじーっと見つめていた。
「杏奈って、料理する時は髪を上げてるんだね。初めて見た」
しかしただ見つめるだけでは足りないのか、達哉はのんびりとした口調で杏奈に話しかける。
洗い終えた野菜を刻んでいる最中ではあったが、
「別に料理の時だけじゃなくて、学校でも体育の時はゴムで縛ってるんだぞ。邪魔だし」
料理をするのも慣れている彼女には、手を動かしながら話をするのも簡単だ。
とはいえ、しっかり考えようとすれば手は止まるし、驚けば怪我をしてしまうかも知れない。あくまで冷静に、作業することに集中しながら。
「そうなんだ。うちは男女別だからね。たまには女の子と一緒に体育やりたいなぁ」
「確かに、たまにはいいかも知れないな。とは言っても、多分お前は女子たちから重い期待を背負わされるだけだと思うけど」
「そうかな?」
「個人競技だろうと団体競技だろうと、カッコいいプレイを期待されて、応援とかキャーキャー騒がれたりとかするんじゃないか? で、そういうのが結構プレッシャーになったりしてさ」
「んー、個人的にはあんまり気にならないけどね。どうしたら格好良いかなんて、一々考えながらスポーツするわけでもないし」
「あはは、そりゃそうか」
杏奈は話しながら、火にかけておいた鍋のお湯に出汁を取るためのカツオの削り節を入れていく。いつもは水から沸騰させているのだが、今日は時間短縮のためにポットで沸かしてあったお湯を投入していたのだった。
そして、灰汁をとりつつ味噌汁に入れる具材を切ったり、アジの下処理を進めていく。
あっちもこっちもと忙しなく動いていると、話をしている余裕もないというように見えるのだろうか。達哉は再びその姿を見つめるだけになった。
彼女の動きを追い、彼女の視線を追い、時にはその後ろで揺れる束ねられた髪に目を向けて。
飽きもせずそうやってずーっと杏奈を観察しているが、彼女からすれば、キッチンに立つ人間を観察して何が楽しいのかはさっぱり分からない。
なぜなら、杏奈は自分で料理するようになってからというもの、他の誰かが料理を作る姿なんてじっくり眺めたことなど無いのだ。
食事やお菓子は作るなら自分で全てやってしまうことが大半で、そうでなくても、もう既に用意されているものを食べるとか、誰かが料理をしている時は一緒にキッチンに立っていることがほとんどだった。
こちらを観察することで何か楽しいことがあるのか、それとも何もしてないよりはマシでやっぱり退屈なのか。
肌の露出なんてほとんど無いし、向こうから見える体の範囲なんて良くて腰から上だ。ダイニングテーブルとの間には高くなったカウンターがあるせいで手元が見えるわけでも無ければ、つまみ食いができるわけでも無い。
さらに不可解なことに、この男、薄く微笑みが浮かぶその表情は普段よりも目尻が優しげに下がっているのだ。無駄な力がほとんど入っていない、今まで見てきた中で一番リラックスした様子である。もしかしたら、次に目を向けた時にはテーブルに伏せて眠っていても不思議ではない。杏奈がそう思ってしまうほどに。
調理中にふと気になって、ちらりと一瞬だけ目を向けた時の彼の姿がそんな感じだった。
ただ、いくら杏奈に話しをするくらいの余裕はあっても、アジを焼き始めるタイミングをいつにするか決めるために野菜や豆腐を入れた鍋の様子を見つめている。そしてセット済みのグリルに火を入れ、鍋に味噌を溶かし込んだり、かと思えばサバをひっくり返したり。自分から達哉に話しかけるということはしていない。
もし寝てたら夕食ができた後にでも起こそうと思っていたのだが、彼は眠ることなく、杏奈の姿をずっと見つめていた。
「よし、完成」
「できたんだ? 運ぶの手伝うよ」
「よろしく。適当に並べといて」
盛り付けの終わった二人分の食事を杏奈がキッチンカウンターに乗せて、達哉がそれをテーブルに並べる。飲み物とコップ、そして箸を二膳用意したら、食べる準備は完了だ。
「すごい、何かホントに思ってた通りの和食になってて……美味しそう」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ、口に合うかはやっぱり心配だな」
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