変わらなかった関係、変わっていく気持ち4
「そりゃどうも……。まあでも、長い時間無駄話に付き合わせて悪かったな。お詫びになるかは分からないけど、良かったら夕飯食べてくか? 先に買い物行かなきゃいけないし、準備に時間がかかると思うんだけど」
そして彼女は、達哉の発言とは関係なく、しかし確実にしなければいけないことに話を持っていく。
夕飯のお誘いには確かにお詫びの意味も入っているのだが、半分以上は次の行動へ移るための口実だ。提案を受けるのなら一緒に買い物に行くか留守番してもらうことになるし、受けないのならそれじゃあまた学校で、と見送りついでにスーパーへ出かける。
とはいえ、最近は晶を筆頭に遊びに来ることが多くなった友人たちには昼食や夕食をご馳走することも多いし、美味しいと喜んでもらえるのが嬉しくて、それが趣味になっていたりもする。
なにより先程までお喋りしていたのだ、その後いきなり一人になると、やっぱり寂しくなってしまう。
「え、良いの?」
空になったコーヒーカップ二つを流しに持っていく杏奈の背中に、達哉の不思議そうな声が飛んできた。
「ああ。もう既に夕飯が決まってるなら無理にとは言わないけど」
それに彼も一人暮らしだ。
昼過ぎに何をしていたのかなんて杏奈には分からないが、もしかしたら夕飯の支度か、買い物かをしてから来ている可能性も考えられる。だから断ってくれても構わないと言葉をかけたのだが、
「ふふっ。ちょっと、何でそんな顔してるんだよ」
今度は杏奈が小さく笑う番になった。
何せ、流しにカップを置いてふと顔を上げてみれば、達哉が目を大きく見開いて、不思議なものでも見るようにきょとんとしているのだ。
その顔が可笑しくて笑ってしまったのだが、しかし達哉は心ここに在らずという様子で固まってしまっている。
一体どうしたのかと思いつつもカップを洗って食器カゴに入れても、まだそのままだった。
「……ホントにどうした? お前が放心するなんて珍しいけど。わたし、そんなに変なこと言ったかな?」
男言葉の女が料理をするのは変だと思っているのだろうか。
いや、学校には普段から弁当を持って行っているし、そのことは既に達哉も知っているのだ。既に何度か杏奈の弁当からおかずを摘んで食べてもいる。
「あっ、えー……っと。是非お願いします」
まさか今でも疑われているのだろうかと思い始めたところに、ようやく達哉の反応が返ってきた。しかも何故か、丁寧語で頭を下げる動作までくっついて。
「何だよ急に! 頭なんて下げて……」
それほど下手に出られると、杏奈の方が困ってしまう。
普段は意識していないとはいえ、立場が下なのは自分の方だと彼女は思っているのだ。いや、たとえ彼女と達哉に深い事情がなかったとしても、方や一般人、そして方や日本一の財閥の親族だ。この両者には比べ物にもならない身分差があるのは間違いない。
「その、なんだ。心を込めて夕食のご用意をいたします、どうぞ楽しみにお待ちください」
そのことを疑っていない杏奈からすれば、彼が一体なんの冗談でそんなことをしているのかが分からなかった。だから、杏奈も同じノリで冗談と一緒に頭を下げておいた。
何だこれ、と内心では思いながら。
全く意味不明で無意味な応酬だと分かっているのだが、何故かちょっとだけ笑えてくるのも事実だった。
しかも笑い出したのが杏奈だけでなく達哉もで、頭を下げたままの格好で二人してクスクスと肩を震わせているのだから、側から見る人がいれば、混沌とした室内だと思っただろう。
遂には耐えきれなくなってしゃがみ込んでまで笑い始めた杏奈だったが、しばらくすれば謎の笑いたい気持ちも収まったらしい。冷静になってみれば、今していたことがもっと意味不明に思えてきて、自分のことだというのにバカらしくなるのだった。
「あーもーっ、何だこれ!」
その感情を吹っ切るように声を出した彼女は、立ち上がって深呼吸をする。
不思議なのは、こういう時に立ち直るタイミングというのが、示し合わせたわけでもないのに同時になるということだ。彼女が立ち上がると、まだ少し笑いを押し殺しながらではあるものの達哉も顔を上げるところだった。
「いつまで笑ってるつもりだよ、全く」
先に平常心を取り戻した杏奈から意地悪くぶつけられる言葉に「ちょっと待ってよ」と言いながら、彼も深呼吸を繰り返して発作に近いそれを抑え込むのだった。
「あー笑った! 何だったんだろうね、今の」
「知らないよ、お前が先にしたんじゃないか」
笑ったことで無駄に体力を使ってしまった。
しかも酸欠気味になっているのか、少しふらっとしながらもダイニングテーブルまで戻ってきた杏奈は、しかし椅子には座らず、背もたれに腕を乗せる形でもたれかかった。
「わたしは買い物の準備をしたら出かけるけど、楠本はどうする?」
夕食を食べていくことになった達哉が、どうするのかを確かめるためだ。彼の答えがどうであれ、それが終われば杏奈は出かけることになるのだから、座るのは無意味だったのだ。
「あ、オレも一緒に行くよ」
「分かった、じゃあちょっと玄関のところで待っててくれ」
そして彼が同行することを確認すると、一時的に部屋が留守となるため、リビングにあるベランダへの出入り口の戸締りをして、廊下に出て電気を消す。次は一番北にある自分の部屋に戻って、財布やエコバッグ、そして玄関のカードキーの準備をした後、この部屋も戸締りをして電気を消す。
他にもいくつかある部屋の方は普段から使っていないため、掃除のついでに換気をする以外で窓を開けることはない。最初から閉め忘れを疑うことすらせず、彼女は自室を出るとすぐ目の前にある玄関で靴を履き始めた。
そして立ち上がって履き心地を確かめた後、財布やカードキーをもう一度確かめて、
「よし、行くか」
と顔を上げた。
今日の買い物では、出発前から同行者がいる。そっちの準備はどうだ、と問いかける視線を達哉に向けてみれば、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている彼がいた。
いつもとは違って悪戯っぽくはなく、楽しそうでもなく、嬉しそう。このシチュエーションでこの男がそんな顔をしているのは何故だろう、と杏奈は考える。
とはいえ、候補は結構ある。彼女から見た彼は、自分がする日常生活のちょっとした仕草にも「可愛い」とコメントするような変態という扱いなのだ。そんな人間の考えを読むなんて、絶対にできるはずないとも思っている。
それでも、想像してしまうのだ。
例えば。
今あったことから考えると、靴を履くという行為から何かを連想したのか? もしくは単純にそれ自体が彼に「可愛い」と思わせたか? それとも、こうして出かけるのがデートのようで嬉しいのか? あるいは、靴を履くためにしゃがみ込んだ時には既にニヤけていたのだろうか?
自分が男だった頃にこの状況で思うとすれば「既にデートが始まってるみたいでむず痒い」になる。しかし、達哉の感覚が分からない以上はそれも可能性でしかないのだ。そもそも、彼が今更デートごときで嬉しさを表情一杯に出してくるとは思えない。
こいつのことは分からん。
彼女がそう結論を出すまでにかかった時間は一秒も無かったのだが、その短い間でも見つめ合ったことで達哉はさらに笑みを強くして、逆に杏奈はジト目となった。
「なにニヤニヤしてるんだよ気持ち悪い、さっさと行くぞ!」
しかしそれも、裏を返せば照れ隠しだった。
普段は絶対に見せない彼の笑顔が、視線を奪おうとするのだ。もう既に髪に隠れている耳が赤くなっているのは間違いない。達哉からは見えないはずだが、それを悟られないようにさっさと彼にはドアの方を向いてもらって、ぐいぐいと背中を押してやる。
「わ、杏奈! ストップっ!」
「ほら、開けろ。そして外に出ろっ!」
「待ってって! それじゃ追い出されてるみたいだよ!?」
そしてそのまま玄関を出て、外の空気に触れて少し落ち着いたのだが、
「こら、三階なんだから階段で十分だ!」
癖なのかエレベーターの方へと歩いて行こうとする達哉の腕を引っ張って、玄関を出てすぐ左手側にある下り階段へと踏み出す。
手を繋いだわけでもないのに、今度は顔まで赤くなる杏奈だった。
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