初登校日6
買い物袋を手に提げて、杏奈はガチャリとリビングの扉を開けた。
するとそこには、ソファに座ってジーッとテレビを見つめている晶と、ダイニングテーブルに座る真奈の姿があった。
昼食は四人とも如月家で食べることになって、杏奈と紗江が足りない分の食材を買いに行って帰ってきたところなのだが、ソファの晶は、その姿が出て行く前と全く変わっていない。
あまりテレビにかじり付いていると目が悪くなる……とも言いたくなるが、それも今日ばかりは仕方ないのかも知れない。というのも、さっきからテレビでやっている速報のニュースが原因だった。
「午前十一時三十五分頃、一部区間で防音壁に謎の大きな穴が発見され、調査のため、現在該当する区間で上下線とも運転を見合わせています」
これが、ちょうど赤緑線の駅の一つでもある高丘西駅の前を通りかかった時にアナウンスされていた内容だった。しかもその一部区間というのが高丘西と一つ隣の駅にいくまでの間だったのだ。
不運にも真奈たち三人が帰る方向でもあり、このまま運転が再開されなかったら、タクシーかバスの乗り継ぎをするかしないと家に帰れなくなってしまう。
電車を止めている理由が「高架の防音壁に謎の大きな穴が開いた」からというのも、この事件か事故かよく分からない出来事を、速報として報じさせる一つの要因になっているようだ。
それが一体どういう状況なのかは分からないが、もしその穴が線路も破壊しているとしたら、今日中に運転再開するのは無理なのだろう。
ため息混じりにテレビを見つめる彼女の姿が目に入って、杏奈まで心の中で電車が早く動いてくれますようにと願ってしまった。
「ただいまです、真奈ちゃん」
「おお。すまんな、苦労をかけて」
テレビのニュースを気にしている晶とは対照的に、真奈はテーブルに新聞を広げてボーッと目を通していた。止まってしまったものは仕方がないと思っているのか、ほとんど気にしていないらしいその様子は、余裕があるというよりもまるで他人事であるかのように見える。
そんな退屈そうにしている真奈に、紗江は「はい、どうぞ」とファッション雑誌を手渡した。彼女がいつも買っているものらしく、今日がちょうどその発売日ということもあり、きっと読むだろうと紗江が気を利かせて買ってきたのだ。
「まだ動いてないみたいですね」
「謎の大きな穴……ではなぁ。この先もしばらく、どうなるか分からんよ」
「そんな。もし数日止まりっぱなしになったら……」
「うちらはバスじゃろうな。余分に三十分はかかるが」
通えんくはないよと続けると、彼女は隣に座った紗江にも見えるようにファッション雑誌をテーブルの上で開いた。
と、その時。
「ねぇ、これ見てよ。なんかすっごいよ」
テレビを見つめ続けていた晶が突然、その画面を指差して大きな声を出した。
その声に誘われて、なんだなんだと真奈と紗江はテレビの近くまで行き、料理の下準備をしていた杏奈はキッチン台越しに、顔を上げて遠くのテレビ画面を見た。
晶が指差す画面には、ちょうどテレビ局のヘリコプターに乗ったカメラマンが、上空から例の大穴が開いたという現場を撮っているらしい映像が映っていた。そのカメラ映像は徐々にズームインをして、現場の様子を見やすくしていく。
距離があるため手ブレもかなりあるが、流石はプロというべきか、現場がどうなっているのかは分かる映像になっている。
映し出されるリアルタイムの映像には、両手を広げた人がすっぽり入ってしまうくらいの穴がくっきりと映し出されていた。いくら探してみても、周囲のコンクリートにはヒビらしいものがない上に焦げた痕跡もない。以前はそこに何かオブジェクトがはまっていて、単にそれが抜け落ちただけなのではないか。そう思ってしまうくらいにきれいな穴が開いていたのだ。
「なんなんじゃ、こりゃ?」
「ね? きれいにポッカリでしょ。ビックリだよね!」
「こんなのが突然見つかったんですか……」
その映像を見た瞬間、杏奈には何かひらめくものがあった。それは、テレビに映った大穴が自然現象ではなく、何かしら原因があって空いたものだということ。そしてもし警察が真実を突き止めたとしても、どこかの組織が力を使って事実の公表をさせないだろうということだ。
もし普通の人間がこんな予想を聞いても、すぐには信じないだろう。
それでも、杏奈は自分が既に普通に考えれば「有り得ないこと」を体験していて、この世界にはそういった事象が存在していると知っているからこそ、その可能性についても考えることができる。
もちろん、考え過ぎという可能性はあるが。
「何か大きなことが起こる前触れじゃなきゃいいけどな」
小さくそう呟くと、杏奈は刻んだ食材を炒め始めた。
「これではそう簡単に再開しないじゃろうな。今日のところはバスで帰るとするか」
「そうですね……」
反対に真奈たちは穴が開いた理由よりも、この後自分たちにどんな影響があるのかを気にしているようだが、しかし心配そうにテレビの方を見る紗江に対して、真奈はもう既に手元のファッション雑誌に視線を落としていた。
そして晶はというと、相変わらず食い入るようにテレビに噛り付いているのだった。
原因不明の不思議な事件に、ショックが大きかったのだろうか。
いや、全くそんなことはなかった。
「えぇっ、何それもう終わりっ!?」
テレビを見ていた晶が突然、大きな声を出しながらソファから立ち上がったのだ。
どうしたのかとテレビを見てみると、ニュースの話題としては終わっていないが、ヘリコプターからの中継映像が終わったようで、どうやら晶はそのことに対して文句を言っているようだ。
「現場の映像見るためにどれだけ待ったと思ってるのさ」
不機嫌そうにドタドタとバルコニーの方へ歩いていく晶。
「ねえ、ベランダからさっきの所って見えないかな?」
「見えんじゃろ。駅よりさらに三キロ向こうなんぞ」
「えー、つまんないなぁ」
唇を尖らせた晶はそういうと元の位置まで力なく歩いていき、リモコンの電源ボタンを押してテレビを消すと、ソファにパタンと倒れこんでしまった。
「あはは……相変わらずですね、晶ちゃんは」
「じゃろ? 杏奈もすまんな、迷惑をかけてしまって」
「いや、別にいいけど……もしかして晶がずっとテレビを見てた理由って」
杏奈はずっと、テレビ画面に晶が噛り付いている理由を、ことの成り行きを心配しているのだとばかり思っていた。しかし……。
「何というか、単なる野次馬根性でな。現地に行けんのであればテレビで見よう、ということなんじゃ」
そして現場の映像が期待通り映ったはいいが、それがあまりにも短かったから面白くなかったと、そういうことらしい。
「晶はいつもそうなんじゃよ」
苦笑いしながら、真奈はダイニングテーブルに座り直すと、ファッション雑誌のページをめくる。
ソファの上に倒れこんだ晶はそれ以上騒ぐことはなく、他に誰も話をしないまま、しばらくの間この広い空間には杏奈がチキンライスを炒める音と、時々真奈が雑誌のページをめくる音だけになった。
「眠くなってきますね」
四月上旬の気温が温かくなり始めた頃でバルコニーの引き戸は開け放たれているが、このマンションが駅から五分とは思えないほど線路から離れていて、大通りもかなり離れているため車の通る音も意識しないと聞こえてこない。実に静かな環境である。
やることも特になくボーっとしていると、さっきの奇妙な事件のことなんて気にならなくなり、自然とまぶたも重くなってくるのだ。
紗江は姿勢良く椅子に腰掛けながらも、言葉通り目を細めて寝そうになっている。
「そうじゃな~」
真奈も同じことを思ったのか、雑誌から視線を外して顔を上げた。そして開けられたバルコニーの引き戸に目を向ける。
弱い風が吹き込んできているらしく、カーテンが小さく揺れ動いていた。
「美味しそうな匂いがすると、おなかも鳴ってくるよね」
いつの間にやらソファから移動してきたらしい晶が、紗江の向かい側の椅子に腰を下ろしながら言った。恐らく、杏奈がカチャカチャと忙しく動かすフライパンからする、チキンライスの香りのことを言っているのだろう。
「食欲の春って言葉があってもいいと思うよ。ホントにさ」
「お主の場合は花より団子じゃろう。ピッタリなのがあるではないか」
「む、失礼な。ボクはちゃんと花も愛でるんだよ? 今だって」
茶化されたことが不満だったらしく、花より団子ではないことを示すために、晶は部屋の中のある一点に視線を向けた。
しかし、このリビングには活けられた花はひとつもない。なぜなら、家事を義理の娘に丸投げしてしまう香織には花を飾る趣味はなく、元男の杏奈はといえば、そもそも部屋の中を飾るという発想など持っていないのだから。
そんな得に目立つものなど何もない部屋の中で、一体何を愛でるといるのだろう。その真相を知るために、真奈と紗江の二人は彼女の視線の行き先を追って、同じ方に顔を向ける。
「……? どうしたんだ?」
ちょうど四人分のチキンライスを炒め終わった杏奈が、半ば上の空で聞いていた三人の会話が途切れていることに気付いて顔を上げた。
すると、なぜかそろって自分の方を見つめる三人と視線がぶつかって、困惑するようにすぐに顔をフライパンへと戻してしまう。
しかし状況の判断ができていないのは真奈と紗江も同じらしく、意味が分からん、というように晶の方へと視線を戻すのだった。
「キッチンに立つ女の子って、何かいいよね」
「晶ちゃんって、そういう趣味があったんですか……?」
「ち、違うよっ! 料理ができるのって羨ましいとか憧れるとかさ、そういうことだよ!」
紛らわしい発言をしたためにあらぬ疑いをかけられ、晶は慌てたように早口で否定すると、
「ね? 真奈もそう思わない?」
まるで誤魔化すように友人にそんな質問を投げかけるのだった。
問いかけられた方はというと、さっきの冗談で言葉を口にした時の笑顔からいつも通りの表情になり、考えるように口元に手をやると、少しうなってから口を開いた。
「うちは少なくとも食べれるもんを作ることはできるしなぁ、そんな風に考えたことも無かったが。しかし、女だからと言って料理ができんでも、大したことじゃなかろうに」
「私もお料理ができないということでは晶ちゃんと一緒ですが……作れるようになりたいと思ったことは、そういえば無いですね」
「紗江はお嬢様じゃからな」
「いえ、うちが裕福だったのはもうずっと前の話で、今はむしろ余裕がない方ですから」
紗江は両手を顔の前でブンブンと振って否定をしているが、しかし傍から見ているとその口調はお嬢様っぽい丁寧言葉だし、姿勢も、椅子に座る姿は背筋がピンと伸びていて、かなり上品な印象をかもし出しているのは確かだった。
小さい頃から上品な女性でいられるようにと躾けを受けてきたのだろうが、それが今でも活きていて、普通の人とは違った雰囲気を出しているのだ。
「ですが、女性であるなら料理はできるべきでしょうか?」
ただ、こういう家庭的なところを心配していることが、本当に今は一般的な家庭環境だということを示しているのかも知れない。
「男子には受けがいいかもね。ボクの兄貴もよく言ってるよ。長い黒髪を普段下ろしてる子がエプロン姿のポニテで台所に立つのがいいんだって」
男代表の意見としてもたらされた晶の兄の嗜好情報に、今度は三人が同時にキッチンの方へと顔を向けた。
そこには、普段は長い黒髪をそのまま下ろしている杏奈が、頭の後ろで一つにまとめて、エプロン姿で溶き卵をフライパンに注ぎ入れる姿が見て取れる。
「つまりあれか」
「あれですね」
「そ、あれなんだよ」
再び三人の視線を感じた杏奈は、今度は顔を上げずにそのまま卵を焼き続けるのだった。視線が痛い……と思いながら。
しかし、
「でもさぁ」
視線を正面に戻すと、晶はさらりとこんなことを言うのだった。
「杏奈は男言葉だから『料理をする』くらいのギャップがないとモテないかも知れないけど、紗江は普段からお嬢様っぽいし性格も優しいんだからさ、料理ができなくてもモテるよ」
さすがにこれには紗江も苦笑いするしかなく、真奈はぺしっと晶の頭を叩いたのだった。
「杏奈、こやつの言うことにカチンときたら言い返してやっていいんじゃ。遠慮せん方がいいぞ?」
「あはは……いや、実際その通りだと思ってるから、返す言葉もないよ」
しかし晶に言われたことをほとんど気にしていないように、杏奈はできたばかりのオムライスを皿に盛って、二人分ずつダイニングテーブルに運ぶ。
「お待たせ。ケチャップは各自適当によろしく」
その言葉と共に目の前に置かれた、真っ白な湯気をたてるオムライスを見た途端。おふざけモードだった晶の目が、急に真剣なものへと変化した。
まるで、ねこじゃらしを目で追う猫のような鋭い目つきだ。
「こ、これは……」
「ほう、卵をトロトロの半熟にするとは、凝っておるな」
「すごい、美味しそうです!」
普段から料理をしていて手馴れている杏奈からすれば普通の出来栄えだが、店で頼んだら出てきそうなレベルのオムライスに、三人は驚くばかりだった。
「さすがに平然と一人暮らし宣言するだけはあるな……。うちの作るもんなど歯も立たんぞ」
「ほんほ、うひのおやおよいおいひいよ」
「な、もう食っとるんかお主はっ!」
「あらあら、晶ちゃんってば相変わらずですね」
まだ四人分のお茶を用意している杏奈を待たず、既に晶は口いっぱいに頬張って口を手で押えていた。
「二人もどうぞ食べていいよ。お腹空いてるだろ?」
そう言いながら杏奈は全員の前にお茶の入ったコップを置くと、紗江の隣の椅子に座る。
「はい。それではいただきますね」
「じゃな。いただきます」
促された二人もそういうと、手を合わせてスプーンを手に取った。
そしてすくったオムライスを一口食べると、幸せそうな表情を浮かべる。
「美味しいですねぇー」
「ははっ、美味いもんを食うと言葉が出なくなるよなぁ」
その言葉の通り、一口二口と食べるごとに言葉がなくなっていく二人だったが、作った料理をここまで美味しそうに食べてもらうのは久しぶりで、その様子を見た杏奈も幸せな気持ちになるのだった。
杏奈も三人から少し遅れて、いただきますと両手を合わせた。
「……」
「……」
「んー、美味い」
「ですね~」
「……」
「……」
「……」
「……」
黙々と食べる四人の間に言葉はなかったが、嫌な空気というものは全くない。
春のように暖かい、和かな雰囲気に包まれていた。
杏奈には人のいる温かみというものがあまり分からなかったのだが、今あるこれがそうなのだろうかと、ふと思うのだった。
「……。あれ、もう食べ終わっちゃった」
ゆっくりと食べている杏奈や他の二人とは対照的に、食べ始めるのも食べる速度も早かった晶は早々に皿を空にしていた。
しかし、獲物を狙う目はまだ落ち着くことを知らず、
「全然たりないよー。ちょっとちょーだいっ」
隣に座る真奈の皿へとスプーンを伸ばすのだが、
バシッッッ
隙のない真奈にファッション雑誌で頭を思いっきり叩かれるのだった。
「いったぁ!!」
その容赦のない一撃に、晶の悲鳴にも似た声が二十二畳半のリビングに響いた。
そこは今、杏奈と香織しかいなかった朝とは変わって賑やかな空間となっている。
そんなことを意識した杏奈は、引っ越して来て初めてとなる雰囲気につられて、
「あははははっ」
「ふふふっ」
二人のやり取りを一緒に見ていた紗江と顔を見合わせ、笑い合うのだった。
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